作曲の方法論㊻

「方法」という点に限って言うと、「メロ先」、「コード先」、「オケ先」に分かれる、という話を昨日改めて書きましたが、その点について再度掘り下げていきたいと思います。

まずはやはり「メロ先」からでしょうか。

「詩先」の場合は必然的に「メロ先」になる、という点はあまり異論はないかと思います。詩が最初にある以上、そこにどのような「メロ」を当てはめるかを考えないと、詩とメロが全く合わない作品になるので、このやり方が当然妥当な方法になります。

ただ「メロ先」の危険については以前にも書いた通りで、メロが既に一定のコード進行を前提としている場合が多く、大半の方はメロ先で「独創的」な作品を作ることは出来ない、という点です。

大抵の場合、いわゆる「紋切り型」の曲にしかなりません。

良く「メロ先」だと「自由に曲が書ける」なんてことを書く方がいますが、これはほぼ「間違い」に近いと考えています。

こんな適当なこと良く言えるなあ、と思います。

もし本気でそう思っているのだとしたら、その方はただ単に曲が書ければいい、と思っているだけで、「どんな曲が書けるか」には全く興味がない、ということでしょう。

メロ先で「自由に曲を書く」ためには相当なセンス、もしくは習熟度や知識の集積がないと「無理」です。

「メロ先」で自由に曲を書ける方は極少数で、大半の方は「思いついた」、もしくは「普通に考えた」メロで曲を書いてしまいます。

もちろんこれまで音楽を聴いたことが無い方(もちろんいないと思います)が曲を書くのであれば別です。

無色透明な状態で曲が書ける、ということですから。

ただ実際には皆さん、色々な曲を耳にしている訳で、「先行作品」の影響なしに曲など書くことが出来るはずがありません。

例えば、何も意識せずに、今の世の中でメロ先で「ドリア旋法」を使う方はいないでしょう。あるとすれば「ドリア旋法」を意識して書いた曲だけでしょう。

しかし昔は何の意識もないまま「ドリア旋法」で曲を書いていた時代もあった訳ですから。

「自由に曲を書く」といいながらちっとも自由では無くて、時代なり聴いてきた音楽によって左右された「自分」によって曲は作られています。

生きている時代から孤立して曲を書くことは出来ません。仮にその時代の逆を行った曲を書いたとしても、それは表裏一体の関係であり、やはり時代に「依存」しているのです。

特に「旋法」から自由になることは相当難しいと考えています。意識しない限り、自分が慣れ親しんでいる旋法から離れた地点で曲を書くことは不可能に近いでしょう。

「ヨナ抜き」にしても、やはり旋法の一つであることは間違いありませんから。

どう足掻いても、この世界で生きる以上、世界から隔絶された状態で生きることは不可能ですし、隔絶されない限り、間違いなく「この世界」から影響を受けざるを得ません。

もちろんこれは「メロ先」に限った話ではありません。ただ最大の問題は「メロ先」だと「自由に曲が書ける」と思ってしまうことだと考えています。

「自由に曲が書ける」と思うということは、自分がどれだけ時代性に左右されているかを忘れていることの証拠だと考えています。

極めて稀な天才でもない限り、「自由に曲を書く」ということは「不自由」なことだと考えています。如何に音楽が不自由なものであるかを理解し、その不自由から如何に逃れるか、までを考えない限り「自由に曲を書く」ことは出来ません。

だからこそ、そんなに簡単に「自由に曲が書ける」などという言葉が出てくることが不思議でなりません。


ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。