純邦楽㉓
本当であれば昨日でこの内容で記事にするのは終わりにする予定でした。
ただ、書いている中で色々な気付きがあったので、最後にその点について
書いた上で記事を終えたいと思います。
正直書き始める時は、これまであまり書いたことのないネタだし、まあたまにはいつもと違ったことを書いてもいいか、という軽い気持ちでした。
普段からこんな感じのような気もしますが(笑)。
ただ書いていて気付かされたことがあります。
結構このテーマに興味を持たれる方が多い、ということです。
個人的には以前書いた通り、赤ん坊の頃から耳にしてきた音楽なので、逆に思い入れなんて無かったんですよね。
でも、他の方(とは言っても限られた方ですが)には興味のある方がいらっしゃった、ということに気付かされました。
たぶん「純邦楽」の中に新しい可能性がある、と感じているのかもしれません。ただ、理論化も体系化もされていないから何が何だか良く分からないものになってしまっている。だから使えない。
せいぜい「和楽器」を使う位のことしか出来ない、というのも現状でしょう。ただこれだけでも使う意味はあって、例えばPeter Gabrielの「Sledgehammer」のイントロの尺八の音、あの曲を色付ける主要な部分と言ってもいいでしょう。
ただこれだけだと、単に楽器の一つとして使っているだけだから、たぶんあまり意味を持たない。極論すればシンセの音源でもいいですし、もっと言うとその楽器である必然性はないでしょう。ある種「代替可能」なものです。
もちろん理論化や体系化がされない理由は、元々別ジャンルの音楽を十把一絡げにした存在である、ということはこれまでに触れたことであり、致し方ないことです。
でも、こうやって「興味を持たれる」ということはいいことだと考えています。
そういう意味では和楽器を使うことにも意味があるのかもしれません。それがきっかけになる可能性もあるでしょう。
きっかけが無いと何も始まりませんから。
もちろんきっかけだけではだめで、「興味はあるけれど、どうしたらいいのか分からない」方は一定数出てくることにしか繋がらないかもしれない。
これから先も音楽として現存していることが前提ですが。
でもそういう方が一定数いないと、その次に「こうしたらいいんじゃないか」という方が現れることはありません。
たぶん今の状態が続いていく可能性の方が強いとは思っています。
ただ、「将来の可能性」を否定することは出来ない。
正直「純邦楽」自体はどうでもいいんですよ。ただそれがきっかけとなり新しい音楽を切り開くことになれば、それはもはや「純邦楽」ではないだろうけれど、「純邦楽」の存在には意味があった、ということになります。
何も生み出せないかもしれないし、生み出せたとしてもいつの時代になるかも分からない。
ただその「可能性」のために残しておく価値はあるのかもしれません。
ああ、でも疲れました。明日からはのんびり記事を書こうと思います。
これでこのテーマは本当に終わりにします。