曲と歌詞⑯
今日はある意味松本隆さんの究極の詩というべき作品を取り上げたいと思います。
「赤いスイートピー」です。
最初から「春色の汽車」って出てきますが、考えれば考えるほど、この表現って不思議な表現なのに、何となく自然に聴こえてしまうところがやはり松本隆さんなんですよね。
前にも書きましたが、そもそもこの曲が出来た時にはスイートピーに赤い品種は存在していなかったんですよ。
でもこの曲の後に本当に作られてしまいました(笑)。
ただ全体的に割と他の部分はおとなしめに展開していって、このまま終わるのかなあ、と思わせておいて、最後に
「心に春が来た日は 赤いスイートピー」
で終わる、これって凄いですよね、
この部分、日本語として全く意味を成していませんから(笑)。
恐らく松本隆さんにとって、現実の世界がどうだとか、日本語として意味を成しているかとか、そういうことに興味がないんだと思います。
詩はあくまでも「感じるもの」であって、場合によってはストーリー性すら無くてもいいという感覚なのかもしれません。
今まで取り上げた曲はそれでも「ストーリー性」がある曲でしたが、実際にはストーリーすらない詩も多いと思います。
これまで真面目に聴いたこと無かったのですが、例えば「スニーカーぶる~す」なんて全くストーリーになっていないですよね。
この詩があったからこそ、伊集院静さんまで「ギンギラギンにさりげなく」を書くことになったのかもしれません。
当然前までの詩を意識して書くでしょうから、タイトルからして「意味不明」な作品が出来たんだと思います。
ある意味松本隆さんが「制約条件」を全部取っ払ってしまったんですよね。
でもそう考えていくと、最終的には「何でもあり」になってしまうんですよね。そうすると詩と同じように、歌詞もどう書こうが自由、ということになります。
その時点で一旦「歌詞」と「詩」の違いは消滅してしまいます。
ただやはり、「歌詞」の場合、もちろんそこには「曲」があるので、その部分で制約を受けることになります。
でもそうすると話が「歌詞」と「詩」の差異を切り分けた地点まで戻ってしまうんですよ。
こうなると話が延々と循環する状態になり、終わらなくなります。
でも多分これが今という時代を表しているのだと思います。
もはや大きな「物語」は存在しない時代です。で、これまで書いてきた内容は、それに相応しい状況のようにも思えるからです。
まあちょっと話が難しくなってきてしまったので、明日からは少し気晴らしがてら、方向転換をしたいと思います。