作曲・編曲147

今日は改めて作品における「オリジナリティ」の問題について考えてみたいと思います。

昨日は「オリジナリティ」を意識せず「オリジナリティ」が生まれてしまう
現象について書きました。

ただここで重要なことがあります。

「オリジナリティ」があるかどうかを判断するのは制作者ではない、ということです。

まあ当たり前の話と言えば当たり前の話で、作った本人がいかに「オリジナリティ」に溢れる作品だと思っていても、周りがそう考えなければ「オリジナリティ」のある作品とは認められない。

で逆もまた然りで、制作した本人が「オリジナリティ」なんて考えていなくても、周りが「オリジナリティ」がある、と考えれば「オリジナリティ」のある作品になる。

「オリジナリティ」はあくまでも他者の判断に依存している、ということです。

以前から書いているように、「オリジナリティ」という概念自体が近代西洋の産物でしかない訳ですし、「オリジナリティ」が高いことが要求されるのも歴史的・地理的に考えると、極めて小さな話でしかない。

ただ、「オリジナリティ」が評価されるものである時代に生きているのも確かなことであり、かつそこに「自己決定権」はない。

「自分の曲はありきたりな曲です」なんて言うミュージシャンはあまりいないでしょう。それでいい、という数少ない方の方が逆に「オリジナリティ」が高かったりすることも多い。これも「オリジナリティ」が他者の判断に依存しているからです。

で、その決定基準とは「他の作品との差異の大きさ」です。他に似たような曲が沢山あれば「オリジナリティ」が低いと見做されるし、差異が大きければオリジナリティが高いと判断される。

でもそれを決めるのはあくまでも「他者」。

しかもその相手が音楽のことを分かっているかというと、そうではないことの方が多いでしょう。

現実問題として「音楽自体」を語れない音楽評論家なんてざらにいるし(むしろその方が遥かに多い)、ミュージシャンですらそうです。

このような状況の中で、「オリジナリティ」にどんな意味があるのか、その点について明日記事を書きたいと思います。



ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。