純邦楽⑭

今日は予告通り「純邦楽」のある一つの可能性について書いていきたいと思います。

それは「和楽器」の存在です。ミュージシャンって「楽器の音色」に刺激を受けて作品を制作する場合があります。

現代音楽での和楽器の使用はそのような例にあたるでしょう。

ただ如何せん裾野が狭すぎる。

でもこれが他の音楽ジャンルだと変わってくると思います。

別に和楽器使って何してもいいんですよ。

もちろん和楽器を使用したところで、それが「純邦楽」とは言えません。

単に西洋音楽に和楽器を使ったところで、やっている音楽が西洋音楽である限り「純邦楽」にはならないですから。

実際自分の聴いた範囲で和楽器を使用している方達の音楽は単なる「西洋音楽」でしかない。響きが違うだけ。

で、実はそういう音楽だと、演奏者も限られてしまい、「演奏者の維持」にもつながらない。

ただそうは言っても、ここにはやはり可能性があると考えるべきでしょう。

こういう方達が少ないと「西洋音楽」にしかなりませんが、そこで裾野が
拡がるとすれば、「純邦楽」自体に興味が出てくる方が一定率で出現するはずです。

もちろんその中身は玉石混交、ピンキリですが(笑)

それでも最初は「和楽器を使った西洋音楽」でもいいんですよ。単なる楽器として使用することを長く続けることに意味はありまん(「純邦楽」という立場からすれば)。ただ、裾野が拡がれば拡がった分、必ず「純邦楽」に足を踏み入れる方が一定の割合で出てくるはずです。

あくまでも確率的な話であり、どうなるかは分かりませんが。

別にいわゆる「純邦楽」なんてやる必要はないんですよ。前にも書いた通り、あれは単なる「その他大勢」の集合体ですから。

そもそも全く別のジャンルのものの集合体である以上、じゃあ何をやるの、という話になりかねない。

で、「純邦楽」自体、実際には時代と共に変化している訳で、そのことをどうこう言っても意味がない。

全然関係ない話ですが、「正しい日本語」とか意味不明なことを言う人いるじゃないですか。

でも昔の人から見たら今の「正しい日本語」、正しい訳ないじゃないですか。そもそも通じないでしょう。

それと一緒なんですよ。逆にもし変わらないとしたら、正に今の「純邦楽」と同じで、それは層が薄くなって「停滞」している証拠です。

構成人員が少ない方が変化は生まれにくいですから。

少し話がずれてきたので、一旦この記事は中断し、最後に触れた層の厚さ、薄さについて明日記事を書きたいと思います。

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