音楽における商業性⑤
昨日は完全に脱線したような気がしますが、一定の真実も含んでいるようにも思えます。
やはり「商業性」は必要ということです。
クラシックが国家なり自治体の支援無しでは成り立たないのは、やはり「商業性」が殺されてしまっているからなんですよ。
いわゆる「愛好家」の方、細かいところまで聴いて批評をするじゃないですか(「演奏者」にもそういう傾向のある方も多い)。
ああいうことをされると、「一般」の方は聴く気がしなくなってしまう。
実際のところ「クラシック」自体に商業性がない訳ではない。
で無ければ、ポピュラーがクラシックの引用をすることはありません。
「クラシック」の「作品」自体には商業性があるからやっている話。
そうでなければやらないでしょう。
やはり知られている曲も多いし、長い年月を経ても聴かれているから、当然悪い曲は淘汰されるため(質が高くても消える曲もありますが)、質の高い作品が多いんですよ。
でも小難しい人の話を聞かされると、音楽自体聴く気は起きなくなるでしょう。
面倒くさくなるから。付き合いたくないじゃないですか。
まあこんな事書いている人とも付き合いたくないかもしれませんが(笑)。
ただ、「聴いてよければいいじゃない」という聴き手がほとんどいないジャンルです。
そんな人達の中に入りたいと思うでしょうか。
少なくとも自分自身は、ああいう人達の論評を聞いていると、全く聴く気が起きなくなる、というより避けて通りたくなる。
でも今の「クラシック」、そういう人達なしでは業種として成り立たないでしょう。
音楽自体に罪はないのに、残念なことです。
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