作曲・編曲119
昨日何気なく「作曲能力」という言葉を使ってしまったのですが、良く考えると不思議な言葉ですね。
自分で書いておいてなんだけど(汗)。
曲って能力で書くものでもないような気もするし。
例えばメロが次から次へと沸いてくるような方もいらっしゃいますが、意識していなかったとしても、結局そのメロの裏に定型的な循環コードがあったとすれば、そのメロが主体的なものとは言えないでしょう。
そうでないにも拘らずメロが溢れるように出てくる方がいるとすれば、その人は天才と言えるかもしれませんが、正直自分の知る限りではいない。
まあ実際のところ完全な「オリジナル」がある訳ではないし。
一から音楽を作る方なんて現実にはいない訳で、先行作品があって自分の作品がある訳ですから、一種の模倣と言えなくもない。
むしろ完全な「オリジナル」であれば聴かれないかもしれない。耳に慣れないものになるでしょうから。
でも「オリジナル」と呼ばれる存在はある訳です。
模倣と言えども、完全に同じものではないから。
似すぎていると「パクリ」になりますが(笑)。
ある意味その間でどう泳ぐか、そしてそこに何か新しいものをどれだけ組み込めるか、それがいい塩梅で出来る、ということが「作曲能力」なのかもしれません。
だからメロだけ書いて後はお任せ、的な方はほぼ作曲能力は低いでしょう。
メロだけで新しい要素を組み込むことは正直難しいと思います。単なる音程と音価の組み合わせしかそこにはないから。
もちろん音は12音ある訳だから、それを自由自在に組み合わせられれば、そこに新しい要素を組み込むことは出来るはず。
ただやはり調性に引きずられるんですよ。普通。
だからそこに新しいものを組み込むことは出来ない。
だから作曲能力ということを言うのであれば、それを転調等でどれだけ複雑させらるか、コード進行に工夫を凝らせられるかのどちらかは必須でしょう。
もちろん編曲能力が高ければそこで新しいものを組み込むことは出来ますし、自分自身はそこまで含めて作曲だと思っていますが、明らかに少数派。
だからコードも無く、同一調性内でメロをいくら書こうが、それで作曲能力が高い、ということはありえない。
少なくともメロは作曲の一部でしかない、そこから先のものまで含めて「作曲能力」だろうと考えています。