ミュージシャンと聴き手との関係性⑤
今日からは、相対的に聴き手より弱い立場にあるミュージシャンが、どのような関係性を持っているのか、類型的に書いていきます。
もちろん、ここにピタリと収まる、という例はないでしょう。
あくまでも類型化したものなので、実際にはこの要素が強いとか、このパターンとこのパターンの間、という形になると思います。
まず1つ目にあるのは「自分のやりたいようにやる」というパターンです。
一番多いかもしれません。
まあ一番簡単ですし。
ただこのパターン、更に2つに分かれるとも考えています。
ただ単に好きなようにやっているか、分からないことを知っているからこそ割り切ってやっているかの2つです。
前者は「聴き手」を意識していないのに対し、後者は意識をしていてもどうせ分からないのだから好きなように音楽制作を行なう、という違いがあります。
「近代的自我」という観点からすれば明確に違っていますが、結局やりたいようにやるだけであれば、結果自体は変わらないという考えもあるかもしれません。
ただこの2つには明確な差異があります。
なので、今日は前者について書くことにして、後者については明日の記事で書きたいと思います。
まあ前者に関していえば、趣味の世界ですね。
というのはそこに「他者」がいないんですよ。
自分の中で完結してしまっています。
言いようによっては、聴き手不在の音楽とも言えますが(実際に聴き手はいたとしても)。
そこにあるのは、好きな人達だけでまとまっている排他的な集団。
アマの多くはこのパターンだと思います。で、プロでも意外と多い(笑)。
現状ライブと配信だけで成り立っている世界、しかも配信で稼ぐには相当メジャーにならないと無理ですから、ライブで稼ぐパターンが増える。
だからそれでもやっていけてしまうんですよ。
まあこういう方に、何か書くだけ無駄だと言ってしまえば無駄かもしれません。
人の言うこと、特に自分と異なる人の意見を聞かない人はこのパターンに陥りやすいからです。
そうでなければ聴き手のことを気にするはずですから。
さすがにプロだと好きな人達だけで盛り上がっている、という状態位までは作れます。
ただどうしても好きな人しか聴かない音楽で終わりです。
そこから拡がることはないでしょう。
アマはいわずもがなです。下手をすると力関係に持ち込んでファンを無理矢理固めます。
まるでジャイアンのリサイタル。
こうなったらもうミュージシャンとは呼べないですね。
まあここまで極端な例は少ないですが、基本的に好きな人達だけが喜んで聴く音楽以上のものにはなりえないでしょう。