音楽における商業性①
完全にタイトルから外れているのでタイトルを変えました。
内容的には昨日の続きですが(笑)。
自分でも良く分かりませんが、今後このテ-マで書き続けられるように番号振ってます。
1回で終わるかもしれませんが(汗)。
昨日も書いたように、音楽作品は聴き手がいなければそれは音楽として成立しえない。
自分でいいと思っているだけでは、音楽作品ではないでしょう。
それでは単に「独り言」でしかないんですよ。
やはり「聴き手」は必須です。
それがなくてもいい、となってしまうと、町の雑踏の中の音すら「音楽」になってしまう。まあそれが間違っているとは言い難いのですが。
でも現実問題として、それは一般的には音楽作品とは言わないでしょう。
まあ「現代音楽」ではそれすら音楽になりますが、「現代音楽」自体、音楽として見做されているかどうかが微妙。
「変人が作って変人が聴く」、それではある種のセクトでしかないと言っても過言ではないでしょう。
まあ聴き手がいれば、まだいいのでしょうが。
ただ自分自身「現代音楽」を制作していたことを振り返ると、やはり「聴き手」は不在の音楽です。
だからこのプロジェクト(今ではソロのHNみたいになってますが、元々はプロジェクト)を始めて以降は、どれほど難しいものを作っても、「聴き手」に受け入れられなければダメ、ということが根幹にあります。
まあ現実にはそれが分かれば何の苦労もないのですが’(涙)。
だって今の世の中、作品の質より、TikTokでどれだけバズったかの方が重要な時代です。どうすればバズるのかなんて見当もつかない。
逆に分かっていれば、売れっ子ミュージシャンが大量に出てくるはず。
ただミュージシャンとしては、どんな環境であれ、如何に聴かれるかを考えざるをえない。
明日以降、その辺の問題について書いていきたいと思います。
タイトルに番号振っておいて良かった(笑)。