ミュージシャンと聴き手との関係性④
昨日は聴き手とミュージシャンの関係における非対称性について書きました。
と言っても分かりづらいでしょうから、改めて主旨を書きます。
独自のものを作らなければならないと考えるミュージシャンに対し、ただ聴いて良ければいいと考える聴き手(もちろんそうでない聴き手がいたとしても、それが多数派にならない限り、関係性は変わらない)。
求めているものが違うということです。
まあ最近ではその前に踊れるかどうかの方が重要になっているような気もしますが。
それはさておき、実際にはもう一つの非対称性があります。
一人の聴き手に対するミュージシャンの数はほぼ無限にあるのに対し、一人のミュージシャンに対する聴き手の数は有限です。
どれほど有名になってもこのことは変わらない。
だから聴き手はいつでもミュージシャンを捨てられるんですよ。だからこそ一発屋と言われるミュージシャンが多数存在することになります。
特に最近は激しいですよね。昔の一発屋は2曲目もそこそこ売れたのに、ドルチェ&ガッバーナとか歌って方、2曲目なんてほとんど誰も知らないでしょう。自分も知らないし。
まあこの方の場合、それ以前に独自のものを作ろうとしているのかも良く分かりませんが…。
ミュージシャンにとって自分自身は唯一無二の存在であっても、聴き手からすれば代替可能なものでしかない。
一人のミュージシャンしか聴かない人なんていないでしょうし。
そう考えるとミュージシャンって圧倒的に立場が弱いんですよね。
そこでミュージシャンはどのようなスタンスで作品を制作すれば良いのか。
その弱い立場の中で、自分はどのように進んでいくのか。
その選択によってミュージシャンの辿る道は異なってくることになります。
少し疲れてきたので、続きは明日にでも。
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