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「働く」って結局どういうこと?

こんばんは。

今日は、最近よく考える「働く」ということについて文字を起こしてみようと思います。いつも徒然と書いているので論点、争点、結論がもやもやなまま終わるので、少しだけ争点を整理します。笑

①労働時間 ②天職?適職? ③存在価値

まず、①について。日本では「電通過労自殺事件」があったことは皆さんも記憶に新しいかと思います。それを境に「労働時間」に対する規制がこれから少しずつかけられていく気配も窺われます。しかしこの慢性的な、過剰な労働時間は決して今に始まったことではなく、恐らく現在の日本を作り出した(建て直した)所謂「企業戦士」であり、60年代から80年代のサラリーマンの方々の時代からあったのではないかと感じます。だからこそ、そうした方々が幹部、トップに君臨する現在の企業において、「労働時間」に対する価値観が変わらず残っていてもなんら不思議はありません。しかしここで1点、当時と異なる点、それは「選択肢の増加」にあるのではないかと思います。恐らく当時は今日ほど選択肢の幅はなく、誰しもが「いい大学を出て、いい会社に入って」というゴールデンロードを目指し、がむしゃらに頑張っていたでしょう。むしろそれ以外の選択肢が見当たらない、もしくはあったとしても現在ほどの「多様性」がなかったが為に、受け入れられなかったと推察されます。だからこそ、誰しもがその「働き方」「頑張り方」に対して、(ほぼ)疑い事もなく「当たり前」として受け入れていた、と。一方で現在は、「ノマドワーク」や「在宅ワーク」、「不労所得で生活」などなど当時は窺い知れなかった新しい働き方や価値観が次々と世に出てきています。それらは同時に自分以外の「価値観・働き方」に対して、羨望、疑念、排他といった感情を生み出すことが考えられます。さらにそうした負のエネルギーを纏ったまま向かった仕事で「過剰な労働時間」に見舞われれば、悲惨な結末を迎えてしまうのも無理はないと思います。もちろん、向上心や野心などプラスのエネルギーを持った上で、こうした働き方を自ら選ぶ方もいるかと思いますし、それが最終的にその方の礎になり、ビジネスの根幹になる大切な部分にもなっているかとも思います。この問題は「労働時間削減」という単純な問題ではないような気がします。もっと根深く、複雑な問題に感じられます。日本は過剰な労働時間を謳われることも多いですが、国際的に見ると年間の祝日数はかなり多い部類になるようです。すごいパラドックス。なんなんでしょうね、僕はそんなに海外を回ったわけではなく、たかが10か国行かないくらいですが、日本は本当に何でもあります。物質的に。「Everything is in Japan」て感じです。にも係わらず疲弊している人が多く、目の前の何もない空を掴もうとしている、そんな印象が芽生えました。東南アジアの人と話したときにこんなことを聞かれました。「なぜ日本人は日本にいれば何でも手に入るのにわざわざこんなところ(東南アジア)に来るんだい?」と。僕は正直に、上に書いたようなことを率直に話しました。すると「ふーん、そうなんだ…僕らには分からない何かがあるんだねえ…」と不思議そうに返してきただけでした。今でも僕自身、日本はとても「不思議な」国だなあと感じます。奴隷制度もない、テロもない、ストライキもない、餓死することもない。平和な国である。しかし平和な国であるが故に抱える闇は目に見えないのかもしれないですね。

②天職?適職?

最近の自分の目指す働き方。天職?適職?色々な記事や書籍を読んで、これからの社会の趨勢をふんわーり考えたときに、生計を立てる方法が1本しかないということはすごく危ういことだと感じるようになりました。テクノロジーの発達、グローバリゼーションによる外国人労働者の台頭、エネルギー問題....僕はもし今生計を立てている仕事が一つで、その仕事が10年後もしくは20年後にロボットに代替される、外国人労働者に代替された場合、どうして生きていけばいいのだろうと不安になりました。具体的なソースは出しませんが(忘れました笑)、恐らくレジや新聞配達、ライン工などはテクノロジーの発達によって「人間の」仕事としては消えるだろうことが予想されています。そして僕もそうなるんだろうと感じます。そこで僕自身は、今現在の理想的な働き方としては「適職」と「天職」の2足のわらじで生計を立てれることだなと考えています。まず「適職」。人は「好きなことで仕事をする」よりも「得意なことで仕事をする」方が幸せになれるというデータを発表している記事がありました。それまで「好きなことで生計を立てれるのが1番や!」と思っていた僕ですが、「なるほど、一理あるな」と思うようになりました。というのも、「好きなこと」で生計を立てれるかどうかは「好きなこと」が「何か」にかなり依存するからです。「アートが好き!」「ギターが好き!」「歌が好き!」こうした「好き」で生計を立てれているのは、いわゆるプロであって極一部の人間であって、誰もがプロになって生計を立てれる「好き」ではありません。そしてその「好き」で生計を立てれるようになるために努力しますが、同時に生きるための「生活費」も稼がないといけない。そこで「稼ぐ」ための「好きでもない仕事」に時間を割くことになる。つまり先に「天職!!!」ばかりに目がいくと、こうしたリスクを負うことになります。よって僕は先に「適職」を見つけ、生計を立てれるようになった上で、好きなことをして「天職」にしていけたら、それが一番なのかなあと最近考えるようになりました。そして「適職」を考えるさいに、今後生まれるであろう仕事、消えるであろう仕事を考慮した上で「得意なこと」を活かせる「適職」を見つけることが、今の自分の最優先事項だと夜な夜な考えています。笑 まあ、それを見つけることが一番難しかったりするんですけどね....。

③存在価値

世の中にはいろーーーんな仕事や役割があります。FBを見ているだけでも、「動物の殺処分をゼロにしたい。」「フィリピンに学校を建てたい!」「世の中をエンターテインメントでもっと面白くしたい!」など情熱を持って事業に取り組んでいる。その一方で「劣悪な環境のペットショップ」や「フィリピン人英語教師の安価な人件費の上で成り立つ英語学校やスカイプ英会話」などで事業を行っている人もいる。こうした現実はより自分自身に「働くって結局何なんだろう?」と問いかけてきます。これは永遠に「正解」の出ない問いだなとは思いますが、「最適解」を見つけることは何とか出来るのかなとも思います。もしくは「正解」を自ら創るか。でも僕は「最適解」が限界だなと思っちゃいました。数学の漸近線のようなもので、一生終わりがないからこそ「正解」は創り出せないのではないかと。まぁ、これはおそらく考え方の個人差ですね。話を戻すと、「働くとは何か」ってことですが、やっぱりなんだかんだ「人を笑顔にすること」じゃないかなあと。それはつまり社会に何かしら「貢献」することにつながり、その対価としてお金をもらう。まあ当たり前かもしれませんが、なんとなく腹落ちしてきました。以前、少し病んでいた時期に「人はなぜ生きているのか」という、これこそ答えのあるはずのない問いかけに本気で頭を悩ませ、身動きが取れないときがありました。「なんのために生きているのか」なんて誰もわかっていないし、「生」を授かったからその「生」を全うするだけなんですが、その中で「生きる意味」を見出すのは自分しかいなくて、定義するのも自分しかいません。じゃあどうするの?ってなったらやっぱり「人の笑顔」が綺麗ごとだけど根底に来るんだろうなあと思います。だからこそ、世の中に、劣悪な環境でペットを売っているペットショップや人権も何もない奴隷商売をしている人たちが実際いることが悲しいですね。そうした人びとも自分が生きることに必死なのかもしれませんが...

長文になってしまいましたが、考えていたことを文字にすることで頭が少しスッキリした気がします。ここまで読んで下さった方がいましたら、本当に感謝です。お疲れ様です笑。でも本当にありがとうございます。もし何か感じたことがあればコメントして頂ければと思います。

散文&長文失礼しました。(あ、ちなみにトップ画はイラレ(練習中)で作ってみました。)

それではまた。


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