#198 好きな曲についてただただ語るだけのシリーズ【第3回 なんて野蛮にECSTASY / GLAY】

【全文無料で読めます!】


そういえばNoteでこんなシリーズあったのかとつい最近自分で思い出しました。
最後に更新したのが実に3年半ほど前でございます。
しかも今回3回目で、うち2回がGLAYという趣味嗜好にクソ偏った連載の割には、残りの一回がXでもブログでも該当記事の一度しか多分触れた事のないセカオワという。そんなよくわからない連載も久々に動かしていこうと。はい、今回もGLAYです。今回は30周年を迎えた新作アルバム『Back To The Pops』の中から【なんて野蛮にECSTASY】を取り上げていきます。
今回はそのアルバムの中で一番好き…なんなら、ここ何年かのGLAY楽曲で個人的に一番琴線に触れた曲かなと思っています。

アルバムのレビューっぽいNoteは以前にも更新したんですけど↑、割とここで書いている事とリンクする話なんですよね。それは追々書くということで…。


この曲の「派手感」はやっぱりゲスト参加した清塚信也氏のピアノ部分によるところが多いと思いますが、この連載の第1回で【天使のわけまえ】を取り上げた時と同様に、この曲もGLAYが織りなすバンドアンサンブルの妙がすごく効いているんですよね。先日放送されたエイトジャム(旧:関ジャム)でも「音を減らす時は減らす」「音を減らすことで1人の音を引き立たせる」みたいなことを意識的にやっていると語っていましたが、天使のわけまえのBメロとなんて野蛮にECSTASYのAメロにはこの傾向がよく見えるんです。
基本的にドラムのベースとJIROさんのベースだけが鳴るような、サウンドとしては静かというよりもクリアな状態で歌い出しが入るんですよ。で、そこにTAKUROさんのシンプルなコードがずっと鳴るんじゃなく、サウンドの隙間を縫うようにピンポイントで入ってくる。ここでこの曲のリズム感の気持ち良さが一つ作られていると思うんですよね。そして1度目のAメロ後半…「きっかけなんかは〜」のところからは、TAKUROさんのギターでもまだ残っていた隙間、余白にHISASHIさんの、これまた被せるというよりも隙間に挿し込むようなギターが入り、更に残った隙間にピアノフレーズが入る。曲の入りにはクリアに、隙間や余白を多く残しながら、音を悪戯に重ねるのではなくJIRO&ドラム(演奏:ピエール中野氏)→TAKURO→HISASHI→ピアノ(演奏:清塚信也氏)という順番に、一人ずつ複雑にならないフレーズで一つずつ余白を埋めていく。最初に音の空白地帯を感じさせるからこそ、コンボ的に一つずつ音が増えていくような「聴いていての快感」みたいなところがあるんですよね。
それが前述したエイトジャムで語っていたような「引きの弾きの美学」みたいなものがよく出ていて、引くことで足されたことがわかる、足されていく気持ちよさがこの曲にはあると思うんです。実際にGLAYってAメロの入りが静か/クリアな曲でそこから重ねられていく曲展開の楽曲は結構多くて、前述した天使のわけまえであったり、例えばSOUL LOVEなんてAメロの入りはギター2人とも弾いてないくらいですし。つまるところ、GLAYが上手いのは音を引くところから組み立てたサウンドの空間活用みたいなところ。この空間をどうデザインしていくか、そのデザインの過程を見せるような曲展開にする事で、世界が拡がっていく感覚を聴き手に与えられる…みたいな。例えばひつまぶしは最初にそのまま食べるからこそ後の薬味が引き立つのであって、あれを順番を逆走で食べたら成立しない訳ですよ。この曲は「引く美しさ」「引くからこそ出せる」みたいな空間の定理がすごく活きた曲なんじゃないかと。

で、歌詞もすごい好きなんですよ。この曲。

歌詞の内容は基本的に夫婦ゲンカなんですけど、コミカルなテイストの歌詞だけにクリアなサウンドから成るリズム感がより映える。TERUさんの「午前2時」の声がエロいんだまた。
で、おそらくTAKUROさんはあくまで夫婦喧嘩あるあるをコミカルに言語化したという以上の意味と意図は特に無いだろう、というのは前提として。

急に宣伝しますが、私自身も曲を作って歌詞を書くようになって気付いた事なんですが……前からずっと思っていたんですよ。世の中の音楽って「なんでこんなにラブソング多いんだろう?」って。ただ実際に自分で歌詞を書いてみると、全然恋愛じゃないテーマの曲を書こうと考えても、ラブソングの形式に落とし込むとすごく書きやすいんですね。恋愛に例えると…みたいな。逆に言えば、男女の定理を拡大解釈すると結構世の定理に近付くものなんじゃないかと。
そういう見方をすると、この歌詞って世のありとあらゆる揉め事の行き着く先の定理…のように思えてくるんですよね。裁判だとか、SNSの揉め事だとか。どっちも始まってしまえば、どっちが正しいかに関係なく「お互い正気を保てない喧嘩」になるし、お互いに「正義のビンタ」だと思って張り合うし、いつの間にか「きっかけなんかこうなりゃどうでもいい」とさえなり、今の揉め事とは関係ない「普段の不満をブチ撒け」る事で「毒を刺す」。そして最終的にその「劇薬」は「愛でしか治せない」……歌詞自体は夫婦喧嘩の話なんですけど、色んな解釈に対して当てはまる話なんですよね。TAKUROさんってやっぱり男女の定理と世の定理を意図せずとも行き来できるような言葉の選び方がバケモノ級に感じますし、それをTERUさんの声、バンドアンサンブルの旋律とリズム感にしっかり溶かしてくる辺りがもう技だなと。



そして冒頭の話。アルバムレビューっぽいNoteで書いた話とリンクする…っていうお話のところです。

というのも、そもそもなぜ今日この日に更新したかというと、皆様がいつこのNoteを読んでくださるかはわかりませんが……FNS歌謡祭が放送されるんですよ。今日。そこでGLAYとB'zは出ませんが、TERUさんとTAK松本・松本孝弘さんは出演なさる。そこで松本さんのアルバムに参加した吉田拓郎さんの落陽を披露なさるというタイミングでして。
で、上記のNoteで語った事は「GLAYのルーツに対して『GLAYだからできる』パロディ感と、それをGLAY式にちゃんと落とし込んだ『GLAYだから許された』『GLAYだから可能だった』アルバムがBack To The Popsだったよね」という話なんですが、この曲はメンバーがインタビューで「そこらへんは90年代のB'zの影響ですね。例えば、ハードなギターサウンドに「ギリギリchop」ってどういうことやねん!みたいな。たぶん洋楽にはこういう曲はないのよ。この面白さは、日本語を母国語とする人でないとわからないだろうなと。(TAKURO)」「ミクスチャー感が出ている曲にはなりましたね。B'z感もあるし、この曲はいろいろなものが入ってるよね。(HISASHI)と語っているように、いわゆる「GLAYが影響を受けた○○感」を強く出した今作において、この曲の「B'z感」って凄いんですよ。
ギターの音作りにもそれっぽさがありますし、確かに歌詞のノリ、タイトルのはちゃめちゃ感は稲葉節っぽい部分がある。そして上述したようなサウンドの空間活用ってB'zにも通ずる話じゃないですか。めちゃくちゃ複雑で壮大な曲構成をしているような印象があるけれど、例えばイチブトゼンブなんかをよくよく聴いてみたら松本さんのギターはずっと主張しているというよりも隙間を縫ってピンポイントで威力を発揮して稲葉さんの声を引き立たせるようにしていたり。そういうトータル的な計算も含めて、この曲はGLAYが全力でB'z感をやった曲のように感じてくるんですよね。そこがこの曲の気持ち良さをより際立たせているんじゃなかろうかと。それこそ今日は松本さんとTERUさんの共演がありますので、そのついでにB'zファンに特に1回聴いてみてほしいと言いたいですね。

ここから先は

0字

¥ 300

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?