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【半生記】第二作 「再生」


序章 十年

二十九歳…俺はうつ病になった。

十年前。この言葉を文頭に、俺は約半年間の行動と感情を文章にして、人生を振り返った。約五万字の作品。

しかし、パソコンが苦手な俺は、そのデータを紛失してしまった。仮の原稿が実家に、仕上がっている原稿が恩師の家にある。そして奇跡的に、過去SNSへ投稿したその文章を、後輩がデータ保存していてくれたのだ。それを受け取り再編集する必要がある。何故ならば…。

三十九歳…俺はうつ病になりかけた。

診断は自律神経失調症。現在、その名称は使用されていない。うつ病ではないとの診断ではあったが、服薬している薬は、軽度うつ病に該当するもの。最悪の状態にならぬよう、自分なりに危険回避したつもりであった。十年前のようにはなりたくない。どうにか回復を目指そうと、模索する日々。実際に不調を感じた時期から、再び振り返っていこうと思う。


第1章 2017年1月

新年を迎え、フェイスブックにこう記した。

「今年は四十代、不惑の年を迎えます。三十代は青春を再びといったテーマでスタート。あの頃は真っ暗闇の中にいて、絶望的な新年を迎えたけれど、それから十年の歩みを今振り返ると、とても充実した日々でありました。たくさん旅をして、たくさん音を出して、勉学に励み、新しい出会いや再会に恵まれた。今こうして自分の家族と迎える新年は、感慨深いものがあります。そして新たな十年を積み上げるべく、今年も頑張ろうかと…いや十年前に決めたんだ。ノンビリ行こう、ポンコツでいいから今を楽しもうって。それはこれからも変わりません。この一年も同じです」

十年前の出来事は、自分にとって大きな分岐点となった。新しい仕事に就き、結婚して、子どもが産まれた。昔とは違う。こんなに恵まれ、幸せな環境はない。そう思っていた。もしかすると、そう言い聞かせていたのかもしれない。再び、自分自身をコントロールできなくなるまでは…。

一月十五日。妻と子どもに見送られ仕事に行き、美味しい手料理が待つ我が家へ足早に帰った。まだ産まれて三ヶ月程の我が子に、翻弄される毎日。妻に苦労かけている自覚はあった。妻は気遣いの人。眠れるようにと、夜も子どもの世話をしてくれていた。ありがたいと思うと同時に申し訳なくも思っていたが、仕事の緊張感から解放されたくて、甘えていたのは事実だ。その日も、抱っこしてもあやしても泣き止まない我が子をどうすれば良いのかわからず、入浴している妻の近くに居させようと、脱衣所にベビーチェアごと置いてみた。いつもこうしているわけではないのだが、自分は最善策を取ったつもりであった。その後にスマホを眺めていたのも良くなかった。それを見た妻が、泣き止まない我が子に向かって、こう呟いた。

「実のお父さんなのにね。半分は血が流れているのに…」

俺の中で、何かが弾けた。言葉では表現することが難しい、何かが…。

一月十六日。その日は遅番のため、出勤までは時間がある。話がしたいと、妻が口を開いた。俺が言った「父親が居なくても、子どもは育つ。やっぱり母親が大事なんだよ」という、自分が育った環境から出た言葉が負担になっていることを吐露した。そして、昨日のことから「逃げている」という印象を受けたと。黙って聞いていた俺は、すっきりしたという妻の言葉とは裏腹に、感情が無くなっていく自覚があった。十年前に記した文章に書かれた「逃げる」ということ。そして、自分の人生において大きなテーマになっているであろう「父親」という存在。この話を妻にしていただけに、二重のショックがあった。

その後出勤したのだが、まったく仕事にならなかった。食欲はなく、頭が痛い。眼球の奥が熱く、涙が出そうな状態が続いている。歩くこともままならない。早退したが、駅に着くまで普段の倍以上は時間が掛かった。帰路の途中にある実家に立ち寄り、とりあえず横になった。妻に言われたことで、こうなったわけではない。それが引き金となったのだ。昨年にも眼球の奥が熱く、涙が出そうな状態があった。

十年前の記憶が蘇る。あの時のような辛い思いはしたくない。今回は頭痛がしている。体温も不安定だ。頭痛薬を飲み、再び横になる。妻に対して、申し訳ないという気持ちよりも、怒りや悲しみが圧倒的に勝っていた。しばらく休んでから自宅に戻り、話し合いをした。頭の中や心の中が、クリアになるわけがない。ずっと溜め込んでいたストレスが、暴発したようであった。

一月十七日。体調は戻らない。精神状態も良いとは言えない。この日の宿直は出勤するつもりであったが、うつ症状の予感がすることもあり、大事を取った。休んでいても、気分転換で外出しても辛いだけ。十年前と違うのは、食欲があること。そこまで重症ではないと期待できる、唯一の希望であった。

一月十九日。一進一退の日々。本日は休みのシフト。病院に行くことを決め、自宅近くの心療内科に電話予約を入れた。車検完了した愛車を取りに販売店へ行き、その足で職場に寄った。所長に「ちょっといいか?」と声を掛けられたが、とても話ができる状態ではなかったため、クルマで来ていることを理由に断った。上司に対して、失礼な態度を取ってしまったかもしれないと後悔したが、それよりも自分を守ることで精一杯であった。そこから実家へ移動する道すがら、俺は相棒と電話で話をした。ここ最近のこと、今思っていることを吐き出した。十年前に絶望的な夜の作業をしていた日、夜通しファミレスで話を聞いてくれたのだ。

一月二十日。病院へ行った。そこは、カウンセリングと診察を分けて行うシステムで、まずカウンセリングルームで話を聞いてもらった。普段、人の話を聞く仕事をしているため、自分について語ることが難しいというか、緊張していた。

ここ数日の出来事、結婚、出産、仕事、十年前のこと。そして、前回の文章でも記した「父親」というキーワードについて話をした。自分自身の整理整頓。カウンセリングの目的は、そこにあると思う。その後、精神科医による診察が行われた。頭痛、目の奥が熱い、耳の奥がツーンとする、胃が痛み熱く締め付けられる、身体が熱い、動悸がする、気持ち悪い、外の光が眩しい、注意力が散漫、継続できる自信がない、不安や恐怖、泣いてしまうといった身体症状を伝えた。さらに、十年前にうつ病を患い退職したことを踏まえて、ひどくなる前に通院しようと思ったことも付け加えた。前述したが、診断結果は自律神経失調症。該当させるならば、この診断であるという表現であった。睡眠の質を改善すること。不安を取り除くこと。その二点に関する、処方薬が出された。

その日の夜、ストレスに関する書物を読み、精神科医との話を思い出し、手帳に記録した。まず、十年前に退職したことで「ストレスの回避=退職」という図式が、俺の思考に植え付けられている。だが今回の件で、退職することが必ずしも正解ではないということに気づかされた。要は「ストレス回避=退職」という失職を繰り返すことよりも、仕事を継続しながらストレスを回避する経験をしよう、その術を身につけようではないかということ。ストレスに対して、そして現実に対して「逃げる」ことで解決するのではないという選択肢を提示されたのであった。逃げ癖になってしまっては困る。医師の口から「逃げる」という言葉が聞かれたことは、正直ショックであった。しかし、重症ではない確信がここにあった。もっと落ち込むかと思われた「逃げる」という言葉に対して、冷静に自己分析できたのだ。逃げずに対処する術。いわゆるコーピングだ。自分が学んできたストレスマネジメント、心理学。自分の経験を仕事に活かそうと学んできたことが、再び自分を救うために活かされることになるとは思いもよらなかった。だが今回は退職ではなく、休職して復帰するという目標がある。

約二週間、その月末まで休むことになった。焦らず行こう。自分には経験がある。もしかしたら、その経験が油断を生み、深く考え過ぎているのかもしれない。冷静に分析はできていても、身体が悲鳴をあげている。

確かに睡眠の質は悪い。それこそ十年前は不眠もあって、睡眠導入剤が処方されていた。今回は入眠に苦しんでいるというよりも、覚醒してしまう辛さがあった。眠りにつくと、二時間後には目が覚めるといったことが常態化しているのだ。再び眠りについても、また二時間後には目が覚める。

この繰り返しで、毎回夢を見ている。眠った気がしない。休まった気がしない。処方された薬は依存性が低いため、薬に頼りたくなかった俺としても指示通り服薬することに抵抗はなかった。服薬を続けていると、多少の改善が見られた。長期的に効果が続くことはなかったが、回復の希望が持てたことはありがたいと素直に感じた。通院した日から、手帳に記録を取り始めた。日記や感情の記録だ。当初はカウンセリングや診察を受ける際、話をするために始めたことであったが、その記録を中心に文章として記していこうと思う。

通院の翌日は「まだ小さな我が子の前で、自分が弱いところを妻に見せたこと、これはすごく大切。強くなきゃいけないとか、自分は大丈夫、守るんだと、どこか過信していたことに気づいた」と、記録していた。妻と子どもの前では、強くありたい。フェイスブックではポンコツでいいと言っておきながら、どこかで理想の父親像を描いていたのであろうか。いや違う。父親になるということが怖くて不安で、極端に言えば、父親になりたくなかったのかもしれない。自分の父親という概念。そして、自分が父親になるということ。再び、自分自身と向き合う必要がある。しかし医師からは「突き詰める作業をするのもいいが、現実を放棄してまでやることではない」と、注意を受けた。前述しているように、仕事を継続する、現場復帰するのが本来の目的なのだ。

一月二十二日。近所で餅つき大会があったため、妻に誘われて外出した。その日は快晴で、陽の光を気持ちよく感じることができた。そして、陽の光りを浴びることが大事であることを思い出した。小さな公園に集まる近所の人々。家族達が順番で餅つきを行う。ほのぼのした光景に、とても癒された。妻、子どもと向き合う。頭の中に、育児休暇という文字が浮かんだ。その日の夜、妻に育児休暇のことを話した。今の時点で「子どもと向き合う=育児休暇」というのは仕事から逃げているのではないかという結論に至った。仕事をしながら、子どもと向き合えるようになるのが理想なのだ。

一月二十三日。大切な御守りが無いことに気づいた。正確に言うと、すでに気づいていたのだが、どこかに保管していると思い込んでいたのだ。キーホルダーに装着していたところまでは、記憶している。取り外したのか、紛失したのかがわからない。自宅を検索するも見当たらず、実家に行っても見つからなかった。その御守りとは、西国巡礼札所三十三番華厳寺で購入したものだ。西国巡礼についても、後ほど書きたいと思う。その大切な御守りが無いと焦るのも、このタイミングだからなのか。毎年正月に行っていた、秩父巡礼札所三十四番水潜寺へ今年は行っていないのも、何か関係しているのであろうか。様々な因果関係を探ってしまう。そこで、十年前に書いた作品「魂」の原稿を実家から持って帰り、改めて読み返してみた。自分で書いた十年前の文章なのに、気づきを得ることが沢山ある。病んでいたとは言え、いや病んでいるからこそ徹底的に自分自身と向き合い、かなり追い込まれている緊張感が鮮明に蘇り、伝わってきた。精神科医が言うように、非現実的な時間を設けることは、現況を考えると得策ではない。でもいつか再び文章を書かねばならないと、この時から感じ始めていたのだ。

一月二十四日。我が子の計測に同行した。大勢の母親と子どもの姿を見て、世の中の母親は今日も頑張っていることを実感した。その後、帰り道にスーパーへ立ち寄ったが、自宅へ着く頃には疲れ果てた。しばらく休み、今度は一人で外出することにした。この日、学生時代の親友と連絡を取り合い、話の流れで久しぶりに会う約束をした。十代から二十代半ばまでは本当によく遊んだ。毎日のように顔を合わせていたこともあり、青春時代の自分を一番よく知っている人物である。しかし二十代後半ぐらいから、徐々に会う機会も減っていった。数年前に再会したが、その親友が経営している居酒屋へ飲みに行って、顔を合わせる程度だ。もういい大人なので、無理に時間を作ろうとも思っていない。疎遠になっていた頃は少し寂しく感じていたが、最近では特に気にすることも無くなっていた。このタイミングで親友から二人で飲みに行こうと誘われたのも、不思議な流れだ。そして何より、素直に嬉しかった。

一月二十五日。朝食を済ませ、前作「魂」を読み終えた。この数日間を振り返ると本当に不思議な流れだなと改めて感じていた。あれから十年が経ち、もう水潜寺にこだわらなくてもいいやと、新年の恒例行事を見送った。すると不調になり、大切な御守りを紛失したことに気づき、前作「魂」に辿り着いた。やっぱり秩父へ行こう。その日の午後、クルマで秩父へ向かった。

札所二十三番音楽寺、札所三十四番水潜寺と例年通りの順序で回った。水潜寺は日本百観音巡礼の結願所でもある。西国巡礼結願後に万感の思いで訪れたことを思い出した。自分にとって大切な場所。そして、十年前に答えを出せた場所。ここから一人旅を繰り返してきた。別れから始まり、たくさんの出会いがあった。この十年をスタートさせた場所でもある。そんな大切な場所に、来ない理由を探していた自分を恥じた。その道中、再び相棒に電話を掛け、共に戦ったことを振り返った。そして数日後、東京に来る相棒と会う約束をした。これもまたタイミング、流れなのかもしれない。

一月二十六日。夜、前述した親友と再会を果たした。二人で飲むのは約十五年振りとなる。少しばかりの緊張感を抱きながら、酒を交わした。ここには書けない馬鹿話で笑い合うと、青春時代を思い出した。そして育児の話ができたことによって、これからを予感することができたのだ。もう昔のように、毎日会うことは互いに必要ない。親友は「父親の先輩」であること、何年も語り合っていなかったのに、馬鹿話で笑い合うまで時間を必要としなかったことなど、これからは気楽に話ができる。このタイミングで飲みながら語り合えたことを、親友に感謝した。相手がどう思っているかはわからないが、青春時代の親友という呼び名は止めて、今も親友に変わりはないことを記しておきたい。それほど貴重な時間を過ごすことができたのだ。

一月二十八日。職場に電話をした。係長に「顔を合わせて話がしたい」と伝えたところ、午後出社することが決まった。その日は土曜日のため、平日ほど職場も慌ただしくない。まずは係長と話をした。近況報告、そして感情的な話。この職場で一番多く語り合ったのは係長だ。このような状況になり、自分でもどうなるか不安であったが、包み隠さずありのままを吐き出せる間柄で良かった。転職しようと常々企んでいたが、またここで働きたいと素直に思えたし、戻ってきて良いのだと、安心もした。転職するならば、また別の機会になるであろう。十年前は、辞めるという選択肢しか考えられなかった。「魂」にも記したが、当時の職場であった係長からは、まったく温度を感じなかった。別に責めているわけではない。俺が順応できなかっただけだ。今回の件は仕事がすべての理由ではないにしろ、仕事で溜めたストレスは数えきれないほどある。そう言った細かい部分は、心理相談員にも話をしていた。

その心理相談員とは利用者に関することだけではなく、自分自身のこと、個人的な部分でもよく話をしていた。そのため、係長との話を終えた後に心理相談員とも話をした。改めて自己開示をしたところ、その心理相談員も抗うつ剤を服用しながら仕事をしていると開示してきたのだ。正直、驚きを隠せなかった。悩みや考え、心理的なアプローチについて、宿直や夜勤で勤務が重なると、語り合うことが多かった。どこか影があり、そして何か傷を隠して生きているような、そんな印象を受けていた。そこまで追い込んで働いていたのかと思うと、共鳴するような、尊敬するような、そして負けられないような…うまく言葉にできない感情が溢れ出ていた。

負担にならない範囲で自己開示したいこと、そして共有できる部分があればと伝えた。他の職員とも話ができ、係長には久しぶりに飲みに行こうと言われ、多少の疲労があったものの、充実した時間を過ごすことができて嬉しかった。そして、二月一日に復帰することを約束した。

一月三十日。相棒が自宅付近まで来てくれた。近所のラーメン屋に行き、饅頭と団子をお土産に買って、自宅で妻と子どもを紹介した。感慨深かった。親友からは十代から二十代半ばまで、相棒からは二十代半ばから三十代の人生において、多大なる影響を受けたと言っていい。そして共に戦ってきた。我が子を抱っこし、満面の笑みを浮かべた相棒を見て、俺は嬉しくてたまらなかった。その後、相棒と二人で実家へ移動し、バイクとクルマを眺めながらガレージトーク、ギターを抱えながら音楽トークを楽しんだ。

一月末日を迎え、いよいよ明日から復帰する。この半月、体調不良と向き合いながらも自分のルーツを辿り、充実した日々を過ごすことができた。そのため、今日一日は休養に努めた。妻と衝突したきっかけで起こした体調不良とは言え、感謝できるまでになった。また元通り働けるようになったら、もう一度、育児休暇を考えたい。半月前に思いついた時は、単なる逃げの手段であったのかもしれない。家族にとって有益な時間を作ることができるのであれば、前向きに検討したいと思ったのだ。

すると、あの時と同じシチュエーションが訪れた。妻が風呂に入り、子どもが泣き止まない。添い寝をしてみても、抱っこしても、泣き止まない。オムツを取り換えて、再び抱っこをしながら子守唄を歌ってみると、少し落ち着いてきた。数少ない子どもをあやす時に使うネタを、全力でやってみた。すると、今までに見たことのない笑顔を見せてくれた。しかも声を出して笑ったのだ。嬉しくて思わず俺も笑った。辛かったけれど、少しずつ我が子と向き合えてきている。復帰前夜に、最高のプレゼントを受け取った。


第2章 2017年2月

二月一日、復帰の日。しばらく休んでいたこともあり、情報整理から開始した。自分の担当ケースに声を掛ける。とにかく感覚を取り戻すことに集中した。復帰できたこともあり、上司に育児休暇取得の意向を伝えると、休業開始の時期を検討しようということになった。前向きな選択肢。復帰して、段取りを組んで、計画通り育児休業期間に突入できると、この時は心底思っていた。

二月二日。この日も、情報収集と滞っていた書類作成に集中した。一気に処理を完了させたこともあり、とても疲れていた。日替わりで出勤する上司や先輩達に育児休暇取得の意向を伝えて、業務や出勤シフトの調整を詰めていった。勤務後、本屋に立ち寄り、父親から子どもに向けたメッセージを綴った作品を購入した。自宅に着くと、我が子が笑顔で迎えてくれた。気持ちが解放されたこともあり、自然と涙していた。購入した本を開いてみる。自分の人生テーマになっている「父親」について、気づきを得ることができた。

「魂」でも書いた、自分が産まれてきた過程について。結婚ではなく、不倫という形で産まれてきたこと。認知はしたが、自分の前に顔を出したことがない父親。自分の価値観として、浮気や不倫は絶対に認めない。したいとも思わない。そうなると、自分が産まれてきた過程を否定することになる。自分自身の存在を否定することになるのだ。簡単に割り切れることではない。ずっとついてまわる問題。答えが出る問題ではなく、一生付き合っていく問題。解けないパズルを持ち続ける。解いてみようとする時に心身が健康であるとは限らないが、きっとそのタイミングで解いてみることの意味があると信じたい。その作業が、精神状態を悪化させるリスクがあるのならば、それは避けるべきだと精神科医は言った。その価値観を踏まえ、購入した本を読んで得た気づき。自分の存在を否定することは、我が子の存在も否定することになる。シンプルではあるが、とても重要なことなのだ。これに気づけたことは、とても大きい。自分が産まれてきた意味、それは我が子と出会うため。自分が存在しているからこそ、我が子の存在がある。自分の存在を、肯定的に捉えることができた瞬間であった。雲から晴れ間が見えてくる、そんな感覚だ。

二月三日。通院した。カウンセリングでは前回の通院から昨日までの行動、感情の動きを話し、自分自身の整理整頓やアウトプットを行った。するとカウンセラーから「こんなに早く笑顔が見られるとは…良かったですね」との言葉をもらった。素直に嬉しかった。だがカウンセラーは、この時心配していた。それは後日明らかになる。精神科医にも感謝を伝え、カウンセリングと服薬は継続する方針となった。

二月四日。この日もシフト休みであった。事前に予定していた「パパママ講座」に参加した。子どもとの接し方を学び、父親同士、母親同士のグループに分かれて自由に話をする時間が設けられていた。臨床心理士が講師を務める座学では、夫婦についての話を聞くことができた。本当にいいタイミング、いい流れで出会いがあるものだ。自分の状態によって、捉え方は大きく変わる。不安に思っていること、疑問に思っていることが吐き出せる環境、それを共有できる場所であった。

二月五日。休み明けは宿直シフトであった。泊まり勤務は緊張感がある。精神的不調とは関係なく、新人の頃から変わらない。他者からはリラックスしているように見えても、ずっと緊張が続いていた。今思えば、仕事のストレスが今回の不調に大きな影響を及ぼしている。独身の時は、緊張と緩和のバランスが保たれていた。勤務後や休みの日は、解放することに徹底していた。何もせず休む日もあれば、好きなことに没頭する日もあった。結婚して、子どもが産まれてからは、そうはいかない。苦痛に思うことは無かった。好きなことができないという表現よりも、緊張からの解放が不十分であったと改めて思う。

宿直者は、夜勤者と宿直専門警備員の三人で仕事をする。午後二時半から勤務を始め、翌日の午後十二時十五分までが宿直シフトだ。夜間帯の三人体制になり、警備員と久しぶりに話す場面があった。いつも陽気に話をしてくれる。だが真剣な場面では言葉を交わさなくても、連携プレーで仕事ができる。こんな時だからこそ、感謝を伝えた。そして、その存在感に改めてホッとしたことも付け加えた。

その日の夜勤者は、前述した心理相談員。生活相談員と兼務しているため、業務量は膨大。そんな中、いつも心理的な話をよくしてくれる。自分自身に心理的問題があるからこそ心理学を始めたという共通項を認識していることもあり、業務以外にも個人的な話をすることがある。だが滅多に夜間帯のシフトで顔を合わすことがないため、深い話をする機会は少ない。この日は久しぶりに重なったため、業務が落ち着いた時に、かなり深い話をした。互いに自己開示をして、互いに悩んでいることを共有した。心理的な言葉のキャッチボールができたこと、他者には理解を求めにくい内容も、この日は話をした。後日、改めて感謝を伝えたほど、自分にとっては有り難い夜であった。

二月六日。宿直明けとなる翌日、所長と育児休暇についての話を詰めた。勤務後、自宅へ向かう前に実家へ立ち寄った。日勤と宿直をクリアしたことで、感覚を取り戻せたという充実感で満たされていた。実家から自宅へと戻り、子どもを寝かしつけようと、添い寝したまま眠ってしまった。宿直は仮眠が取れるものの、眠れるとは言えない程度だ。そのため、明けは非常に眠い。疲労が倍増する。

二月七日。シフト休みのこの日は、回復に努めた。

二月八日。勤務を終えて、帰宅した夜。この数十年の間で、経験したことのない寒気に襲われた。検温しても、発熱していない。明け方に再び検温したところ、三十八度近く熱があった。今年に入り、職場施設の利用者間で、インフルエンザが流行していた。歴代でも稀にみる発症者数で、産まれたばかりの子どもがいる俺としては、かなり神経質になっていた。昨年、初めてインフルエンザを発症した際、妻は妊娠が発覚していたことや、インフルエンザ完治直後に良性発作性頭位めまい症を患ってしまったことがあり、神経質になっていたことに加えて、強いストレスを感じていた。そのため、真っ先にインフルエンザの検査をする必要があると考えた。

二月九日。結局、仕事を休んで、近所の耳鼻咽喉科へ通院した。検査結果は陰性。その日は休養に充てた。

二月十日。検温したところ、熱は下がっていた。だが念のため、二日連続でインフルエンザの検査に行ったが、結果は陰性だった。安心したのも束の間、その日の夜に再び熱発した。深呼吸をして、ゆっくりと眼を閉じる。少し穏やかな気分になることができたので、妻に話しかけた。自分からカウンセリングを求めた形だ。父親に対する思い、自分が父親になったこと、これから父親として生きていくこと、子どもに自分の父親の遺伝子が含まれていること、父親というものに対する恐怖心や不安を素直に吐露した。妻に不安を吐露してはいけないという気持ちが、どこかにあったのかもしれない。傾聴に徹してくれた妻に対して、感謝の気持ちで溢れていた。

二月十一日。朝には熱が下がったものの、頭痛がしていた。出勤したが再び発熱してしまい、頭痛が悪化していることもあって、すぐに帰宅した。

二月十二日。シフト休みのため、気分転換をしようと外出した。ところが胃痛や頭痛、動悸、過呼吸など、体調不良を痛感するだけで気分転換にはならず、精神的により追い込まれる形となってしまった。頭の中で「仕事に行かなくては」「仕事ができなくなるかもしれない」「どうすれば仕事ができるのか」と、自問自答を繰り返す。仕事に行きたくないのか。いや、少し違う。仕事に行くのが辛い。仕事に行っても、今までのように仕事ができないことが辛い。帰宅して、妻と相談する。結論を求めるのではなく相談という目的で、宿直勤務であった係長へ電話した。とにかくありのまま、素直な感情を吐露した。すると係長は、こう言った。

「ナベちゃんのこと要らないとかじゃない。今は仕事のことなんか、考えなくていいから。とにかく、自分のことを大事にしよう」

涙が止まらなかった。溢れ出てきた。初めて係長の前で、いや職場の人の前で泣いてしまった。嗚咽が続く。「悔しいです」と、繰り返し言った。しかし、俺自身が決めなければならなかった。

「怖いけれど、不安だけれど、悔しいけれど…休みます」

またいつか仕事がしたい。その気持ちを吐き出すと、改めて仕事のことは考えるなと釘を刺された上で「待っているからね」という言葉が返ってきた。電話を切った後も、しばらく号泣していた。そして涙を流しながら、妻に電話の報告をした。そして、係長に対する思いを話し始めた。職場の人で、一番多く飲みに行っているのが係長だ。悩みを聞いてもらい、相談して、説教してもらった。俺は説教されたくて、飲みに行くことが多い。いつからか説教されることも少なくなってきたため、わざわざ説教されるために飲みに行くのだ。自分を戒めるためでもあり、コミュニケーションを求めているということもある。熱く語る俺を見て、妻も泣いていた。

二月十七日。通院した。カウンセリング用にまとめた、この数日間についてのメモは膨大な量となっていた。限られた時間で話すのは難しいとわかっていても、吐き出さずにはいられない。結局、すべてを伝えることはできなかった。しかしカウンセラーから「前回お会いした時は、元気そうで嬉しかったのですが…実は心配していたのです。あまりに元気なため、急すぎやしないかと…。これからは焦らずゆっくりいきましょう。ストレスを発散、解放させましょう」と、言葉をもらった。思わず涙をこぼした。自分としては三月に復帰、四月からは育児休暇という計画を考えていることを伝えたところ、カウンセラーから賛同を得るこができた。そして精神科医の診察を受けると、発熱などの身体症状や、この数日間続いていた体調不良は「自立神経の乱れによるもの」との話があった。

その後、診察結果を職場へ報告した。係長より、幹部クラスで討議した結果、生活のことも考えて、育児休暇を早期開始させる方針が打ち出された。無理をすることが一番良くないとのこと。それもそうだ。無理をして職場に迷惑を掛けることの方が、自分としても何より辛い。職場の方針に従いたいと思っていた。退職することも考えていたのだから、復帰できることを前提とした育児休暇が早期開始できるのであれば、現在の体調を踏まえても、最良の選択肢である。

しかしその頃から、攻撃性が強くなってしまっている自分がいた。その矛先は、一緒に生活している妻へと向かっていた。暴力ではない。もしかすると、言葉の暴力になっていたかもしれない。とにかくイライラする。会話が成立しないのだ。このままでは危険だと、無意識に一人の時間を作り始めた。というよりも、一人になりたいと強く思っていたのだ。自分のことは棚に上げ…メモにもそう書いてある。わかってはいる。だが明らかに、受容できる余裕がない。これから書いていくが、妻とのこと、そして仕事での日常的な受容によって、ストレスが限界を超えていたのだ。

解放しないと壊れてしまう。
仕事できるわけがない。その時に改めて気づいた。
今は他人の話が聞けない。聞きたくない。妻でも、子どもでも、実家にいる家族でも、聞ける余裕なんて少しも無かった。

そして、普段やらないこと、自分で自分を褒めるということをやってみた。妻と出会ってから今に至るまで、二年も経っていない。そこに流れた時間、自ら望んで取った行動とは言え、仕事に、恋愛から結婚に、出産に…生活を一変させて、自分なりに頑張ってきたつもりであった。しかし今は、自問自答を繰り返している。顔も見たくない。目も合わせたくない。何の感情もない。怒りがあるということは、感情は存在しているのであろうか…。今までの怒りまでもが再燃してしまい、攻撃性は増していった。

そこで、今作の序章だけを書いてみた。その後に続く構成は、まだ頭の中にはなかった。このままでは仕事に復帰するどころか、結婚生活が崩壊する予感がしていたのだ。この先、自分がどうなっていくのか…。心の整理整頓が必要だ。だが、この時に書き始める余裕はなかった。穏やかではいられない。かえって今書くのは危険だと、序章だけで留めた。

二月二十一日。係長から電話があった。三月から育児休暇を開始させ、同月はリハビリ出社するという訓練月間。今は休養、そして今後じっくり育児に専念できるようにと導いてくれた。本当にありがたい。育児をすることも、今の俺にとっては大きな課題だ。この方針が決定したことで、再び文章を書かねばならないと、自分の中で決断することができた。

二月二十四日。通院予定日。ここ最近、妻の元気がない。調子が悪そうだ。それに気づいていても、自分のこと以外を考える余裕などなく…いや、むしろ考えたくもなかった。そのまま通院して、カウンセリングを受けた。その後の診察で、医師から「今回の一番の問題は何ですか?」と問われ、しばらく考えてから「妻とのことです」と、答えた。すると「夫婦間のことだけではなく、今自分が抱えている精神的な悩み、葛藤、問題を含めた解決方法は何ですか」と、問われた。わかっていたこと。でも認めたくなかった、その答え。気づいていたことを自覚しながら、少し笑みを浮かべて、こう答えた。

「許すことです」

帰宅後、その答えは何処へ行ってしまったのか、再び妻と衝突してしまった。通院後に職場へ顔を出す予定となっていたこともあり、多少の緊張感があった。しかし許すことを意識したにも関わらず、歯止めは効かなくなっていた。職場へ向かう途中、義母に連絡をして「今自分には力になることができないため、妻のそばに居てもらいたい」と、わがままを伝えた。職場に着き、係長と主任を交えて話をした。経理担当と育児休暇についての面談も行って、後輩達に事情を説明した。すると、義母から泊まっていく旨のメールが届いたことを確認して、俺は実家でしばらく休むことを決めた。


第3章 2017年3月

三月一日。相棒が東京に来る用事があり、俺の実家に泊まる予定となっていた。合流して、ギターを手に音楽談義や人生談義をした。晩飯を食べてから近所の温泉施設に行き、湯に浸かりながら熱く語り合った。この時の共感により、少し心が軽くなったのを今でも鮮明に憶えている。本当に俺を救ってくれたのだ。

三月二日。相棒を見送り、自宅で家族と合流した。改めて向き合おうとしたが、また衝突してしまった。冷静になろうとベッドで横になったのだが、そのまま眠ってしまい、時間にして十五分程が過ぎていた。少し外の風に当たり、冷静になってから妻に話しかけた。「さっきとは別人だよ」と言われる程、感情的になっていたようだ。「なぜこうなっているのか、自分でもわからない」と、素直な気持ちを語り合った。しばらくして、気づいたことがある。

許すということ。いったい何を、そして誰を許せば良いのか。
俺自身、妻、娘。そして母親。そうだ。父親のこと…。

父親を許すことが一番難しい。だが、やらねばならないことだ。そうしなければ俺自身も、妻も、我が子も、母親も、そこに存在することを認め、受け入れることができないからだ。文章を書くことによって、許すことができれば…その方向に導かれることを期待したい。

その日を境に、俺は少しずつ穏やかになっていった。我慢に我慢を重ね、ひたすら耐えていた妻が、入れ替わるように不調となった。非情と言われても仕方ないのだが、申し訳ないという罪悪感はあまりなかった。その点を精神科医に指摘された。どこかで当然の報いだという、悪魔のような気持ちを持ち合わせていた。内省できない。拒否していた。そのため、今度は俺が…というよりも自分で追い込んだのだから当然すべきことかもしれないが、妻のサポートを始めた。念を押すが、夫婦だからとか、優しさとかそういうものではない。自分に少しずつ余裕ができたから、変化していった気持ちだと思う。

妻は俺に向けて「前みたいに仲良くしたい」と言った。しかし俺は、こう返した。「昔には戻れない。だから新たな関係を作っていくべきだと思う」これは、前向きな意味なのだ。以前のような関係では再び衝突するであろう。今回の件で、お互いに理解しなければならないことがあったはずだ。これからも夫婦、家族でいるためには、新たな関係を作っていく必要があるのではないかと思ったのだ。

ある日、妻が福引きで特賞を当てた。毎日、主婦業や育児を頑張っている御褒美が与えられたのだと、俺は思った。その特賞とは、特別臨時列車内でコース料理が食べることができるものだ。俺は前々から行きたいと思っていたが、今回当選したことを聞いて、妻の御両親家族で行くことを提案した。それでも妻は、俺と我が子の三人でいく計画を第一に考えていてくれた。しかし、夫婦の仲は今まで書いた通りだ。とても行けるような状態ではなかったし、俺は行かないつもりでいた。だが一貫して最初から最後まで、妻は俺を連れて行くつもりであったのだ。子どもを含む四人までの招待席。俺は義母に来てもらうことを提案した。すると、妻と義母は喜んで提案を受け入れてくれた。

三月五日、当日。普段は食べることのないコース料理と、特別な空間や演出を心から楽しむことができ、妻に改めて感謝した。今回の件で、感謝することの大切さを教わった。妻は感謝を伝える際に、心を込めて手紙を書く。その心意気を学び、前々から興味のあった万年筆を購入して、感謝を伝えたい人に向けて、手紙を書き始めた。その手紙が届くと、相手方から喜びの声が伝えられた。携帯端末や通信機器で、簡単に連絡が取れる時代。手紙というものが相手を思い、自分と向き合えるものなのだと気づかせてくれたのが、妻であった。

三月十日。定期通院を行った。以前は自分自身の内面的な話が中心であったが、今度は妻自身の状況について話すようになった。妻に対する感情が変化していることは、カウンセリングで気づきを得ることができた。しかし、どこか客観的で無機質な部分が未だに残されていることは、精神科医に指摘されても急に変化することはなかった。少しずつ、変わっていけばいい。今すぐに、すべてを許すことはできない。もしかしたら、ずっと変わらないのかもしれない。夫婦関係の継続だってわからない。この時は、正直そう思っていたのだ。自分自身の状態は回復してきているため、次回通院時にはカウンセリングを受けない方針とした。

一人の時間が欲しかった一月や二月に比べて、家族との時間も一人の時間も、有意義に過ごせている。しかし、妻の体調不良が続いていた。三月下旬に差し掛かり、回復の兆しは未だ無かった。

三月二十四日。通院日。今回はカウンセリングを受けず、診察で「奥様と向き合うことが怖いのではないか」と、精神科医に問われた。ずっと怒りという感情が最も近いものだと思っていたが、恐怖ではないかと指摘された際、素直に認めたくないと感じた。加えて、普段から「ありがとう」という言葉を、家族以外には多用していたが、家族にこそ使うべきだという指摘もあった。言い続けることで、心底そう思えるようになるのだと…。乱発させることを嫌っていたが、その一言で救われることもある。自分のために、少しずつ変えてみようと思った。

その日の夜、係長と飲む約束をしていた。久しぶりに説教してもらえると、気合いを入れて待ち合わせ場所に向かった。すでに係長は飲んで待機しており、乾杯を済ませ、近況報告を行った。久しぶりに交わす酒と説教を、心の底から楽しんだ。吐き出した。ぶつけまくった。そして、熱い説教をもらった。すると、その会合を聞きつけた主任と後輩が急遽参加してくれた。普段から、係長以外の職員と飲みに行かないため、その二人と酒を交わすことが新鮮であった。酒の力を借りて、普段言えないことも話した。後輩は感動して涙を流した。係長は相変わらず、記憶を失うレベルで酔っ払っていた。酒を交わすというこの時間は面倒臭いようで、実は自分にとって仕事でのバランスを図るのに、必要な時間なのかもしれないと思った。自分から飲みに誘うことなんて、久しくない。これからは、自分から求めていこう。休みに入ってから考えていたこと。これからの課題は、タイムマネジメントだ。

三月二十五日。妻が欲しがっていた靴を買い、後輩からもらった出産祝いを手に自宅へ帰った。料理はできないが夕飯を作ってみたところ、妻が嬉しそうにプレゼントと不格好な肉野菜炒めを見つめていたら、子どもが妻に笑顔を見せた。家族団欒の光景が、いつの間にかそこに生まれていた。

三月二十七日。朝、妻の体調は良くなかった。自分自身も不調を感じていたこともあって、ゆっくり休んでいた。午後になっても状態は変わらない。無だ。何も感じない。何をやっていても、辛かった。しばらくソファに座ったまま黙り込んでいると、自然と湧き出てきた感情があった。ベッドで休んでいた妻と子どもに向けて、その感情を言葉にした。

「三人が元気じゃないと、つまらない」

それからの事は、何も記す必要がない。
何故なら、翌日から妻は嘘のように元気いっぱい育児や家事をこなして、笑顔で過ごしていたからだ。


第4章 2017年4月

三月から育児休暇は開始されていたが、自分としては四月から本格的に開始したと思いたかった。家族で過ごす時間を、ゆっくりと味わい、育児に取り組みたい。お互いの時間を尊重したい。自分でも信じられないのだが、拒否的であった夫婦の距離や時間に関しても、この時期には前向きな気持ちへと変化していた。

四月一日、家族で実家に泊まった。墓参りに行き、先祖に出産報告をした。翌日は地元のさくら祭りを見て回った。季節はもう春になっていた。去年の今頃、妻は悪阻に苦しんでいたことを思い出す…。ようやく動けるようになり、妻の実家近くにある小さな公園でベンチに座り、花見をした。あっという間の一年。だが、まだ出会ってから二年も経っていないのだ。急速に流れていく二人の時間。ある日、俺はその事を噛みしめながら、こう言った。

「よくさ、子どもがいたから離婚しなかった、いなかったから離婚したって言うじゃない。今回の事があって、俺もそう思っていた…。でも何か違うなって気づいたよ。子どもがいたから別れなかったのではなくて、子どもがいたから乗り越えることができたんだってね」

四月五日。妻の予定していた約束がキャンセルとなり、ならば花見に出かけようと誘ってみた。お弁当を作って、家族でピクニックをする。それが妻の夢である。突然迎えた夢が叶う瞬間を、妻は心の底から喜んだ。そうと決まれば妻は張り切ってお弁当を作り、まだ産まれて半年に満たない子どもは無邪気に叫んでいた。ベビーカーを押して、公園へと向かう。夢に大きさなど関係ない。むしろ、家族という果てしない無限の可能性を秘めた集合体は、史上最高に大きな夢なのかもしれない。何気ない日常の風景に紛れた家族の姿。想いの詰まったお弁当と、夢を叶えた女性の眩しい笑顔が、そこにはあった。

四月七日。通院した。妻と事前に話していたが、今回の通院を最後にしたいと考えていた。半分以上の問題は解決しているはず。自覚している課題として睡眠、タイムマネジメント、夫婦関係、育児、健康的で規則正しい生活…。取り組むべき課題として、再び文章を書くこと。前回の執筆と共通して「父親」というテーマが重要になってくること。それらを踏まえて、今後は自分でコントロール、制御していかねばならない時期に来たと、総合的に判断したのだ。詳細には触れず、概要だけ精神科医に伝えたところ、要望は受け入れられた。

しばらくして、前回の文章作品である「魂」の編集作業を開始したいと思った。序章にも書いた通り、後輩がデータを持っている。そこで。酒の席にてデータを受け取り、前作にも関わる内容を語り合った。今回の文章作品についても「出来上がった時には、ぜひ読ませてください」と、言ってくれた。その後輩は、どう表現したらよいのか…不思議な奴である。多くの人の間に居る、文字通り「人間」なのだ。互いに直球で確認し合ったのだが、俺が好むようなタイプの人間ではないのに、何故相手をしてくれるのですかと問われ、こう答えた。

「後輩付き合いは苦手だが、数人だけ連絡をしてくれる奴がいる。そんな中、昔から何度断っても誘い続けてくるのが、お前だ」

その後輩とは、前作の文章を読んだ上でも変わらぬ付き合いが続き、言いたい事が言い合える奴なのだ。俺にできないことができて、やらないことをやる。知らないことを知っていて、嫌味がない。わがままで面倒くさい俺と、同じ距離感で居てくれる人は数少ない。前作のデータを保存してくれていたこともそうであるが、今回の執筆に至る流れにおいて、彼の存在は非常に大きい。この場を借りて、改めて感謝を伝えたい。ありがとう。

「過去の事実は変えられないけれど、過去の意味は変えることができる」

前作を何度も読み返し、それに関連したノートを開いた際に再会した言葉だ。その言葉を胸に、前作「魂」の編集作業に没頭した。そろそろ前作の続きとなる二〇〇七年から、振り返ってもいい頃であろう。


第5章 2007年〜2008年「創作」

前作の結びで「三十歳…俺は新たな旅に出た」と、記した。明るく前向きな気持ちで三十代を迎えたかと言うと、決してそうではない。前作の第八章に記した「心の師」の四十九日が、俺の三十歳になる誕生日でもあったのだ。その日は自室で暗闇に青く光る時計を、ただぼんやり眺めていたことぐらいしか記憶していない。巡礼をしている頃のような荒れ果てた気持ちは消えていたが、希望のある未来は描けずにいた。

これから俺は、どうなるのか。そう思い立って、遺書という目的を込めた文章作品を書き、自分自身を整理整頓することができた。自分を語る上で最も重要なこと。音楽という手段での自己表現を続けながら、究極の青を追い求めているということだ。十代の終わり頃に作った「BLUE BEAT」という、青を題材にした曲。誰が何と言おうと自分自身の代名詞であり、そして人生のテーマとなった追求していきたい世界観ができたのだ。

音楽というものを意識したのは、中学生の頃。その当時は野球部に所属していて、音楽は「聴くもの」であった。歌が下手で、どちらかと言えば演奏するほうが楽しかった。ただ歌詞には興味があり、自作の詞を書いていた。特に恋愛の内容については感情移入が強く、曲を聞きながら涙するような中学生であった。その頃、氷室京介や布袋寅泰らが所属していたバンド、BOOWY(真ん中のOには/線が入る)を初めて聴いたことが、今に至る原点となった。

高校生になり、前作でも記した野球部を辞めたことで、少しだけワルぶって反抗期を迎えた。その頃には、布袋氏の音楽にどっぷりハマり、生きるって何だ、自由って何だ、みたいなことばかり考えていた。ギターを始めたいと思い、貯金を全部使って布袋モデルのギターを購入。勉強もロクにせず、ライブビデオを毎日擦り切れるほど観てギターを弾いていた。

学校が大嫌いで、友達と呼べる人間はいなかった。中学の同級生達とバンドを結成し、コピー曲で数回ライブを経験した後、オリジナル曲を作り始めた。今思い出すと、とてもじゃないが酷くて聴かせられるようなものではない。しかし、完成した時の感動は忘れられないものだ。オリジナル曲を少しずつ増やしながら、ライブを開催した。と言っても、友人を数人呼ぶ程度で客席はガラガラだ。毎回来てくれた方々には、心底感謝している。

そんな中で「BLUE BEAT」を作った。その当時の歌詞は青を題材にしたというよりも、十代の青臭い内容であった。とは言え、創作の原点はここにある。青い世界を音で表現したい。十代の頃に抱いていた、うまく表現できない気持ち。中身のない反逆や反骨精神。生きていくことに疑問を感じていた。産まれてきた過程に対する疑念が、すでに始まっていたのかもしれない。

バンドのメンバーは前述している親友の他に二名いた。その親友は中学生の頃、自分たちと別のグループに居ることが多かった。そこにいたのが、その他の二名だ。大人になってしまえば笑って話せることだが、四人のバンドメンバーで三人は四六時中一緒にいるような間柄で、俺が他の三人に合わせていた。常に三対一の構図。無理に合わせることもないと、他のバンドメンバー達と一緒にいる機会が増えていき、自分のバンドでの居心地が悪くなっていった。結果、約二年のバンド活動で脱退することにした。

高校卒業後の進路について、まともに勉強することを拒み、早い段階から付属の大学には行かないと決めていた。そうなると、選択授業を受けずに帰宅できる。三年生の時には、午前で帰宅してギターを弾く生活を送っていた。たまに授業を聞いていると「お前が聞いているとやりにくいから寝てろ」と言われたので、教室の外に出てふらつていると他の教師から怒られたりする。終業式に顔出せば、クラスメイトから何故か拍手喝采を浴びた。理由を尋ねると「よく来たな。もう会えないと思ったから」と、不思議な気分を味わった。そんな学校生活に何の興味もなく、高校卒業後の希望もなかった。

挙句、敬愛するギタリストの布袋氏がロンドンを好むという理由だけで、欧米文化学科のある大学を二校受けることにした。当時交際していたドラマーの女性が短大を受けると聞いて、受験勉強という形だけでも足並みを揃えることにしたのだ。遊んでばかりいた人間が、受験勉強なんてするわけがない。二校のうち一校は自宅から近いという理由で受験し、もう一校はマークシートのため鉛筆を転がして塗りつぶした。そんな舐め腐った高校生ではあったが、マークシート受験の大学に受かってしまった。

だが入学したにも関わらず、一年で中退してしまう。高校生活と同じだ。人間関係の構築が面倒であった。社会性、コミュニケーション能力が乏しい。自分は社交性がある方だと思い込んでいたが、それは大きな間違いであった。それよりも、忍耐力がないのかもしれない。前作及び前述している野球部を辞めた際、監督に言われた「お前はこの先、逃げ続けることになる」という言葉。

まさにその通りであった。自分自身にある原因を認めることもせず、他者を責めることで正当化していた。十代から二十代前半にかけて、そんな人間であった。それが初期「BLUE BEAT」の歌詞にも描かれている。

高校卒業後に始めたアルバイトを、バンド脱退と同時期に辞めた。新たなアルバイトに就いた頃、交際相手であるドラマーと破局した。それを機に、ロンドンからアメリカへと興味が移っていたこともあって、再び貯金を注ぎ込んでロサンゼルスへ一人旅に出た。初めての一人旅。二泊三日の秩父巡礼も、アメリカ一人旅も、どちらも忘れられない旅である。何か自分自身に行き詰った時、俺は旅をして、創作していた。それは十代でも二十代でも変わらなかった。その後、また別のアルバイトに就いた。そこの上司に、こう言われた。

「人生には二通りしかない。好きなことを仕事にするか、好きなことをするために仕事をするかだ」

その時はまだ、言葉の意味がわかっていなかったように思う。こういう言葉を投げかけてくれるありがたみすら、わかっていなかった。このアルバイトの仕事も、前職のアルバイトも、お客とのトラブルで逃げるように辞めた…やはり逃げる人生を送っていたのだ。その後、前作「魂」で記した心の師と出会った。そこには心の師との関係性を中心に描かれているが、自分が契約社員となり、人間関係が広がっていく中で、前述している相棒との出会いがあったのだ。

相棒と出会った背景には、不思議なエピソードがある。相棒がアルバイトスタッフ応募の電話を掛けてきた際に、その電話を取ったのが俺で、しかも一度採用を辞退して再応募してきたというエピソードを加えると、不思議な縁を感じずにはいられない。その後、スタッフとして採用されたのだが、顔は合わせても深く話をする機会はしばらくなかったと思う。

するとある日、スタッフ達が企画したバーベキュー大会に誘われたのだが、不慣れなアウトドアと人見知りを封印し、仕事の意識半分で参加することにした。バーベキューの最中は会話こそあまりなかったが、現地解散した後に相棒と俺は電車で帰るタイミングや方向が同じであったため、一緒に帰ることになった。そこでの会話で、二人の共通点が見つかったのだ。同い年であること、そして音楽をやっていることであった。

この時期、音楽をやっているとは言い難いのだが、そう言わねば、今頃は違う生き方をしていたかもしれない。見栄でも虚勢でも、時には良い方向に働くことがあるものだ。そして正直に、当時は目立った活動をしていないことを告げた。前述した元バンドメンバー達が形を変えてバンド活動を継続しており、ドラマーを探しているとの話を聞いていた。脱退から数年が経過して、親友はともかく他の元メンバーと話をするぐらいの関係性は続いていたのだ。相棒の本職はドラムと知り、メンバー募集の件を話してみたところ、しばらくしてそのバンドに加入することが決まった。

そこから話をするようになったが、一緒に音楽をやることはなかった。年に一回行われるスタッフのパーティーで、相棒が所属するスタッフの余興として、バンド演奏が行われた。客観的に楽しんだつもりでいたが、どこかで嫉妬みたいな気持ちが湧いていた。どんな形であれ、バンドってものが羨ましいと思ったのだ。この時期は、自宅でたまにギターを弾く程度で、作曲と言えることもしていなかった。すると翌年、再びバンドがやりたいと思った相棒達は、ある提案をしてきた。

バンドに参加しないかということ。そして、どうにかバンド出演できる余興枠を設定できないかということであった。毎年、新人達が各セクションで余興をやることになっていた。そのため、二年連続の演目としては成立しない。自分が担当している仕事は、各セクションスタッフの協力があってこそ。言い方を変えれば、全セクションスタッフは、自分のスタッフでもある。よって、新たに自分の担当セクションを余興枠として設定できるかどうか、調整してみることになった。そしてもうひとつ、バンドへの加入条件として、ベースを担当してもらいたいということであった。

見栄とプライド。小さなこだわり。自分がベースを弾くということが、あまり想像できなかった。ギターを弾くことにこだわるのであれば、参加しなければいい。しかしバンドを楽しみたいのであれば、いい機会だ。相棒から、音楽を純粋に楽しむことを教わった、最初の機会であった。

そして、親友がベースを弾いていたことも、加入条件を受け入れたことに影響していると思う。一緒にバンドをやっていた頃は、ドラムを担当していた。俺がギターを買ったことで、親友はドラムを担当する選択肢しかなくなった。脱退後はベースを始め、当時も続けていた。そのステージを観て衝撃的を受けたのが、音だ。音がカッコ良いと思ったのだ。宅録用にベースを所持していたが、バンド加入を決めた直後に新しいベースを購入した。

二〇〇三年以降、四年連続でステージに立った。一年に一回とは言え、スタッフや関係者だけでも約二百人という人前で演奏する。余興ということで、会社幹部による審査があったが、バンドメンバー全員、結果など気にしていなかった。むしろ客席で観ているスタッフ達の反応が薄かったことの方がショックであった。メンバーや関係各所の協力もあって、一回目は一曲演奏して観客は着座していたのが、四回目となる二〇〇六年には三曲演奏して、スタッフ総立ちで楽しんでもらえた。しかも審査対象から外れ、余興枠ではなくバンド演奏の時間を設けてもらい、自由に演奏することができたのだ。

スリーピースバンドも結成した。初期パーティーバンドのメンバーで構成され、ギター担当の卒業により、ヴォーカルがギターを兼務することになった。楽器歴やバンド経験のキャリアが一番短いため、心配することも多かったが、ヴォーカルの実弟がギタリストであることや、純粋にギターを楽しむ姿勢が早い上達を生むことになった。四回目のパーティー前に新宿で行ったライブには、たくさんのスタッフ達が駆けつけてくれて、ライブとしては成功を収めることができた。バンドやステージで、ギターを弾きたいという欲求よりも、純粋にバンドを楽しめる感覚をつかむことができるようになっていた。このスリーピースバンドの活動を軸に、パーティーバンドのライブが年に一度行われていた。

四回目のパーティーではアンコールもあり、最後はスタッフ達ほぼ全員がステージに上がって肩を組み、楽しそうに笑顔で歌い踊っていた。仕事ではないが、そのステージだけが当時のモチベーションとなっていた。前作の第八章などで記した、どこに矛先を向ければいいのかわからない感情を、そのステージで解放したのだ。未来の描けない会社と恋愛。相談できない事情。ステージだけが純粋に楽しめる場所。四回目は最後のステージになることがわかっていた。メンバーの半分は卒業するため、演奏後にメンバー紹介をして客席にいるスタッフ達へ感謝を伝えた。行き場のない怒りは内に秘めて、ステージアクションにぶつけた。直属のスタッフがいない自分の業務は、各セクションスタッフの協力があってこそ成立するため、感謝を伝えたいと常々思っていた。そして、セクション間の垣根を壊したかった。それをクライアントや上司に見せつけたかったのだ。普段から仕事で主張していることを、ステージの場でも見せつけたかった。エゴかもしれない。しかし自分が担当している仕事というのが、スタッフの力がなければ成立しないことを、身を持って示したかった。

悩みの二つは、未来の描けない会社と恋愛であったということ。逃げることに、とことん向き合って悩み抜いた顛末。それが前作と今作の冒頭に書いた、うつ病という結果を招いたのだ。その後の時間軸は、前作の冒頭へとつながっていく。

しかし、このステージに立てたことは相棒と出会い、音楽を通じて時間を共有できたことから生まれたもの。まずひとつめの感謝をしたい。ドラマーである相棒とリズム隊であるベーシストとして活動できたことが、今後の活動へと発展していくのだ。それは、音楽に限ったことではない。

四回目のステージ前、相棒の故郷である新潟県長岡市に招かれた。もうひとつの趣味であるバイクに乗って、アルバイトスタッフと二台で向かった。十代の頃に働いていたアルバイト先の店長がバイク乗りで、興味はあったが免許を取るまでには至らなかった。そして相棒と出会う前に、アルバイトとして所属していたセクションのスタッフ間で、バイクが流行していた。あまりにも皆がこぞって熱くなっていると、ひねくれている俺は流されまいと興味のないフリをした。そして相棒と出会い、音楽以外にもバイクが好きなことを聞き、面白さについて話をしてくれた。無理に誘うことをせず、興味があることを知っているからこそ軽く突いてくる、その心意気。そしてまた失恋を機にバイクの免許を取得して、十代の頃に憧れていた国産アメリカンバイクを購入した。

今思えば、免許取得していなければ巡礼に行くこともなく、これから記していく一人旅もなかったであろう。そしてバイクで長岡へ行ったことが、その後の一人旅の切符を手にしたと言っても過言ではない。この文章を書くことで、相棒から受けた影響が、自分の人生を大きく変えているのがよくわかる。

話を二〇〇七年に戻そう。前作の冒頭部分でもある二〇〇六年末を最後に、俺は出勤できなくなっていた。翌二〇〇七年の一月から三月までは休職して、そのまま契約終了という形で退職することになった。一方、相棒は就職を決めていたこともあり、奇しくも同じ三月で退職していた。前述したが、一番辛かった夜に相棒が話を聞いてくれたことを、ここで改めて感謝したい。だが皮肉にも、退職直後に相棒も精神的に苦しむことになってしまった。バイク二台で、東京ナイトツーリングに行ったことを思い出す。泣き合った。語り合った。互いにカッコ悪い部分をさらけ出し、夜の東京を走り続けた。

季節が秋になった頃、自作曲「BLUE BEAT」を解体して、再び作り直そうと思い立った。軸になっているコード進行を残し、メロディや歌詞を大幅に変更した。青という色は、目に見えるような実体がなく、空や海のように光によって映し出されるもの。自分が描く青い世界とは、現実世界で表現することが難しい。目に見えるものではなく、耳から入る情報で描き出される、想像から創造するもの。それが「BLUE BEAT」なのだ。音によって作り出された世界に、歌詞という言葉によって現実世界と融合する。

二〇〇七年に生まれ変わった「BLUE BEAT」の歌詞を記しておく。

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「BLUE BEAT」

遠く差し込む光を 震えた手で辿り
凍る時空の深海を あてもなく漂う

猜疑 刹那の幻(ゆめ)制御不能 エゴイスト 嘘

深く閉ざした心を 狂った眼で探り
沈む憂鬱の闇を 果てしなく彷徨う

懐疑 無知の掟 罪と罰 ニヒリスト 未来

BLUE BEAT…
現実の破片(かけら) 背徳の欲望 真実の涙 魂の炎青(えんじょう)

BLUE BEAT…
現実の彼方 永遠の孤独 真実の破片(かけら) 生命の無常

BLUE BEAT…
現実の彼方 永遠の欲望 極青(ごくじょう)の世界 魂の鼓動

BLUE BEAT…
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作詞・作曲 Atsu  
編曲 相棒&Atsu
Vo&Drums 相棒
Guitar&Bass Atsu

病的な歌詞に聴こえるかもしれない。だが紛れもなく、ありのままの自分自身を言葉で表現したものである。どんな精神状態であっても、青い世界へ誘える曲。誰のためでもなく、自分自身のために書いた曲なのだ。二○○七年十一月十三日。ノートには、徹夜して書き上げた痕跡が残っている。

二〇〇七年は、就職という意味での復帰を果たすことができなかった。
前作に記したような不調は無かったが、社会復帰という壁を高く感じていた。体調は悪くない。しかし通院継続できるような病院との出会いはなく、気がつけば行かない状態であった。他人から見れば怠惰な生活を送っていたが、この後、自分の人生においてとても重要な時間を過ごすことになる。

二〇〇八年に入り、スリーピースバンドのメンバーで会合して宅録やスタジオ練習などを行う合間、活動方針について考えることがあった。ライブがしたいヴォーカルと、作品を残したい相棒と俺。何気なく宅録したデモ曲がいよいよ形になり、創作活動に本腰を入れようという流れになった。他にも、パーティーバンドのメンバーから構成された別バンド結成の動きもあったが、わずか数回程度のスタジオ練習のみで終了。そのバンドのギター以外のメンバーでセッションする「放課後の音楽室」という活動もあった。決められた活動ではなく、相棒が名付けた通り集まって楽しくやると言うものであったため、計画的に行う活動には至らなかった。

「BLUE BEAT」のドラムを相棒にレコーディングしてもらい、自分の作品に魂が宿った。創作活動の入口へと、相棒のおかげで俺は辿り着くことができたのかもしれない。スリーピースバンドのメンバーで集まった際に、何気なく作ったオリジナルデモ曲。その時はまだ形にすることも考えず、コードが決まっているものにギターを重ねて弾いてみる程度であった。それがアレンジされ、メロディが決まり、歌詞がついた。タイトルが決まり、いよいよ相棒の創作活動が幕を明けた。当初は、相棒の作品を手伝う気持ちでいたが、いつからか共作する方針となり、自作曲も並べることになった。相棒の作ったデモ曲に、自分のギターを重ねていく。十代の頃に組んでいたバンドで、メンバーが書いた曲を弾くことは楽しくなかった。自作以外に興味がない。しかし、今は違う。素直にカッコいいと思ったデモ曲を、ウォーキングしながら繰り返し聴き、ギターを手にして試行錯誤を繰り返す。相棒を驚かせたい。そして、負けたくない。様々な感情が入り混じる。相棒宅で何度も弾き直す。デモというぼやけた形から、曲の輪郭が見えてくる瞬間がたまらなかった。そして、二人でアイデアを捻り出し、全体像を浮き彫りにしていく。ギターとベースを中心に担当したが、あえてギターを弾かないという選択肢を提案する曲もあった。自分のギターでは、相棒が作る曲の世界観に合致しない。思い切って身を引くことで、完成するもの。それもまた共作なのだと実感した。

何もないところから生み出した曲もある。イメージを伝え、コード進行という骨組みを作り、メロディを相棒が奏でて、ギターを共に弾いていく。アルバムやライブの最後を飾るような、壮大な曲を作りたかった。相棒も同じように驚かせたい、負けたくないという情熱を持って、想像を超えるアイデアやメロディを示してきた。その提示に対して、こちらも負けてはいられないと思った。

数曲が形になり、夏頃から本格的な曲作りやレコーディングを開始したが、相棒が年内で地元新潟へ帰ることになった。それは作品の締め切りが決まったことを意味する。長年一緒に音楽活動をして、共に旅をして、共に涙を流して、励まし合った日々。相棒の東京生活は終わるが、これからも続く人生の物語。上京から帰郷までの思い出に花を添えたい。ひとつの目標であった創作活動の力になりたい。モチベーションは最高潮に達した。やがてくる孤独を想像してしまう自分。それでもギターを弾く。仮眠を取っている相棒を横目に、パソコンの前で弾き続ける。難しいことはしていない。納得できるまで何度も何度も弾き直した。その時できるベストを尽くすこと。その時できる感謝を音に込めること。朝まで作業を行うことも多かった。そんな作業の途中で、夜中二人でバイクに跨り、ラーメンを食いに行ったこともあった。許す限りの時間を創作に費やし、ギターを握らない時間は語り合った。

十一月。末日に、相棒は東京を離れる。レコーディング作業もいよいよ大詰めとなり、完成へ向けて作業が加速していく。相棒の友人にパッケージングや歌詞カードのデザインを依頼し、二人の情報や作品への思いを記した冊子作りも並行して行った。ある時、相棒に一つの提案をした。それは、アルバムが完成した際には相棒の世話になった人や感謝を伝えたい人へ、直接アルバムを届ける行脚を実施しよう、というものであった。

十一月二十四日から三日間、完成したアルバムを手に行脚の旅へ出た。短い時間ではあったが談笑して記念撮影を行い、挨拶をする相棒を眺めていた。行脚終了の翌日に、相棒の自宅から新潟への引っ越し作業が行われた。元スタッフ達が作業を手伝い、借りてきたトラックに荷物が運ばれていく。つい最近まで行われていたレコーディング。その面影が無くなった部屋。相棒が一人で運転していく予定であったが、助手席に同乗した。語り合いながら、時には黙りながら、残された時間を噛みしめていた。

十一月末日、池袋駅で相棒を見送った。笑顔で見送るつもりだった。楽しかった。楽しかったからこそ、俺達らしく笑顔で別れたかった。しかし、出発した列車が歪んでいくのがわかった。人目も気にせず、俺は泣き続けた。楽しすぎたから、涙が止まらなかった。二人の物語に、二人の曲が流れていた。


第6章 2009年〜2010年「心理」

創作という情熱的な時間。相棒が新潟へ戻ってから、しばらくは喪失感に苦しめられた。だが、そろそろ社会復帰を目指したい。周囲からは、何故仕事をしないのかと、問われることもしばしばあった。理由などない。的確な言葉ではないが、恐怖なのだ。就職活動や社会的なつながりを持つことなど、コミュニケーションを取ることが怖くて仕方なかった。

うつになった経験を活かしたいと思い、ストレスやメンタルヘルスについて調べ始めた。自分は誰にも相談できなかった。体調不良に陥った際も、情報収集や相談機関への問い合わせなど、とにかく何もできなかった。会社の産業医を勧められた際も、相談できる気軽さを感じることは無かった。一度休んでしまうと、会社に戻ることは考えられない。では、うつ病から社会復帰するためには、どうすればよいのか。いったい何が必要なのか。

調べていくと、リワークという言葉に出会った。それは、精神疾患を理由に休職している状況から社会復帰を目指すこと、再び働くということを意味している。精神科や心療内科が関わっており、臨床心理学の領域だ。精神科医、臨床心理士、そして精神保健福祉士。それらの資格を所有していないと、この分野で仕事をするのは難しい。そこで、まずはメンタルヘルスマネジメント検定というものを受けてみることにした。テキストを購入し、ノートに書いて覚える作業を繰り返した。

すると、自分が何故うつ病になったのか、医学の観点から人間の機能を理解することができた。初めてかもしれない。自分が本当に学びたくて、楽しめる勉強。辛い経験ではあったが、その経験があるからこそ、理解が早い。前作を書いたことは、自分自身で行ったカウンセリングのようなもの。こうなったら自分自身で、うつ病を克服したい。社会復帰を目指したい。誰かの力になりたい。そう意気込み、勉強に励んだことで検定に合格することができた。復帰への第一歩を踏み出せたような気がして、少し自信が持てた。

就職活動をしても、そのような分野の仕事には簡単に就けなかった。正社員の雇用が難しいため、アルバイトをした時期もあった。まったく異なる分野の求人であれば採用になることもあったが、それは断った。選べる立場にないことはわかっている。だが、ようやく目指す方向性が見えてきたことで、ちょっとでも近づける分野で働きたい。希望職種にこだわることができるのも、時間的にそう長くない。どこかで期限を設ける必要があることは自覚していた。メンタルヘルスマネジメント検定の他にも、メンタルケア心理士という民間資格取得に向けた通信教育を受けたところ、その資格も取得することができ、心理学への興味が強くなっていった。

季節は、夏から秋へと移ろうとしていた。半ばヤケクソになりかけていた時、新聞の折り込みチラシにあった求人広告を見つけた。ホームレスの社会復帰を支援する仕事で、無資格でも施設利用者と面談ができる業務であった。分野としては、希望するものと違う。だが、無資格で面談することができるのは、経験を積む絶好のチャンスかもしれない。応募してみたところ、面接を受けることになった。所長と係長二名の計三名を目の前に、まるで手応えのない面接内容であったが、採用をもらうことができた。

雇用形態は非常勤職員。企業で言うところの契約社員だ。緊急一時保護センターという施設で、東京都と特別区(東京二十三区)が合同で行う事業である。業務を委託された民間法人が施設運営を行うのだが、その法人職員として採用された。

指導員という名称だが、生活相談員にも該当する。生活に困窮した人がまず福祉事務所へ相談に行き、緊急一時保護センターへ入所して、病院で健康診断を受けた結果問題が無ければ、職員が行うアセスメント(評価)面接によって自立阻害要因を分析し、自立するための問題点を整理しながら目標を掲げ、自立可能という判断と施設利用者当人の希望により、就労支援を行う自立支援センターへ転所するという仕組みだ。医療に関してのみ生活保護で、後はすべて現物支給の支援となる。入所期限は一ヵ月。自立支援センターへの転所待ちはプラスもう一ヵ月延長となり、計二ヵ月の利用期限が設けられている。入所も退所も、転所する最終判断も福祉事務所を通じて行う。さらには路上生活をしている人達へ声掛けを行い、安否確認や福祉支援の意思確認を行ったりする巡回業務も行っている。そこから入所に至るケースもあるのだ。

出勤初日。なんと、七十歳の同期がいた。人生経験が豊富な同期を頼もしく感じ、朝礼に参加して自己紹介を済ませた。そして新人教育担当の職員から、仕事の心構えに関する教えがあった。ここでの教えを、俺は今でも貫いている。至極単純で、基本的なことだ。それは、施設利用者に対して必ず「○○さん」と呼ぶこと。あだ名や呼び捨てにはしない。職員を呼ぶ時も同様である。それを貫いてない人が圧倒的に多い。当時すでに三十代のため、年下の先輩職員もいる。これから、年上の後輩職員が採用されることもあるかもしれない。何より施設利用者に対して年齢は勿論のこと、福祉施設を利用するぐらい生活困窮に陥ることは、特に精神面において繊細な問題である。施設利用者側が自ら卑下してしまうため上からものを言ってはならず、言葉遣いや態度には十分に注意を払わなくてはならない。この時には想像でしか理解できなかったことが、今では痛いほど理解できる。他の職員についてとやかく言うつもりはないのだが、誰もできていない。そこだけは流されないように貫いている。馬鹿にしているつもりがなくても、相手に威圧感を与えてしまうことや、見下されていると感じさせてしまう危険性。だが、コミュニケーションの難しさを考えた時に、このような基本的な心構えがあるかないか、できるかできないかで人間関係は大きく変わってくる。

各職員には指導担当がつく。少し年下のベテラン職員が、自分の担当になった。敬語は不要と言ってくれたのだが、何年経っても変わらない。今でも敬語だ。教えてもらうという姿勢、感謝、尊敬から生まれるものであって、言われたからやっていることではない。やりにくいという気持ちは一切なく、むしろ徹底して貫くべきだと初日の時点で考えていた。

この職場では仕事とプライベートを混同せず、しっかり分けていこうと決めた。採用前に信頼できる心療内科は何処かにないかと調べ、診察してもらった。問診と専門機器による検査を経て、異常なしという診断をもらい、少しだけ自信が戻っていた。前職での反省点を、新たな職場で活かすべきだと思ったのだ。この職場では歓迎会以外の飲み会や酒の席に、ほとんど参加しなかった。

それができる理由として、車通勤していたのが大きいかもしれない。付き合いの悪い奴、あまり酒を飲まない奴、そんなイメージを与えたことで、勤務後の時間を上手にコントロールすることができた。よって、タイムカードを押した後は、仕事のことを一切考えない思考回路ができた。これは気づいたらそうなっていたので、方法論はない。酒の席から遠ざかったことが影響しているのかもしれない。これは自分にとって大きな収穫である。ストレスコントロールを課題としているため、家に帰ってまで仕事の悩みを抱えるのは、もうウンザリであった。前作に記した辛かった日々を、再び繰り返したくはない。そして、前職以上にストレス負荷が大きいため、仕事以外の時間がとても大切であった。

就職した時期に、地元区が開講している福祉学校へ通い始めた。学校と言っても、卒業して学歴にはなるものではない。入学条件は、地元区民であること。地域福祉を掲げているため、地域貢献や将来的に活動したい人などが学んでいた。ほとんどが四十代か五十代よりも上で、男性は数えるほどしかいなかった。週に一回授業があり、各季節に休業期間はあるが、二年間のスケジュールがビッシリと組み込まれていた。区役所や行政関係の施設などを教室として、大学の教授やボランティアグループなど、授業に応じて講師は様々であった。うつ病からの社会復帰と、地域貢献を併せた活動がしてみたいと考えていたことから、地元区のことを知りたい、初めての福祉職のためにも勉強したいと思い入学を決めた。結果から言うと、一年で退学した。だが、非常に充実した一年であった。地元区を歩き回るフィールドワークや、違う福祉ジャンルの施設見学、自分の仕事に関する領域の講義や心理領域の授業など、勉強になる時間は多かった。だがそれ以上に、仕事以外の時間を多く取られたこと、週一回の授業以外に要する時間が膨大で、学生同士、すなわち地域住民同士で険悪になることが増えるなど、人間関係に悩む時間が多くなるといった、本来の趣旨から離れてしまっていることが理由となった。

二〇一〇年四月。心理学を勉強しようと、通信教育の大学へ入学した。そのことが地域福祉学校を辞めた最も大きな理由である。普段は在宅学習の通信大学だが、スクーリングという三日連続の集中授業があり、関連大学の校舎や専門学校の校舎を借りて、授業を行っていた。仕事、福祉学校、大学。この生活は自分のキャパを越えてしまい、大学に本腰入れようと福祉学校を退学したのである。二つの民間資格や検定の勉強で、心理学の基礎部分は勉強してきた。そして自分が経験したうつ病について、学問や医学的観点から本格的に学ぶことができる。言い方を変えると、起きてしまったことの裏付けが取れ、疑問に思っていることが解明できるのだ。そのため、難しい授業でも楽しい時間が多く、スクーリングで出会った人達も多種多様で非常に興味深かった。この仕事に就いたのも、心理に関することができると思ったからだ。福祉の現場では、心理が重要であると思っている。 

施設利用者が入所して二週間以内に行う就労自立アセスメントは、出生から今に至るまでの生活歴、学歴、職歴、ギャンブルやアルコールなどの趣味嗜好、犯罪歴、金銭管理、借金の有無、家族関係、既往歴、健康状態、心理状態、入所に至るまでの近況、今後の展望など、その人自身のすべてを聞き出さなくてはならない。

勿論、話したくないことを話す必要はない。また、話したこと全てが真実とも限らない。その内容から自立阻害要因を分析し、課題や問題点を論理的にまとめるのが仕事だ。文書と口頭での報告を、入所依頼のあった福祉事務所に向けて行うことが義務付けられている。

施設利用者は、精神疾患やその類の問題点を抱えているケースが多い。自覚のあるケース、要医療と判断されても当人が拒否するケース、最初から心理面でのサポートは不要とするケースなど、繊細な問題が多いために不用意な発言はできない。さらに、以前は薬物中毒者であったケースや、犯歴があるケースなどが絡むと難しくなってくる。この事業を利用することで目指す先は、自立である。自立とは何だ。自立と自律の違いは何だ。この仕事をしていて、よく悩むことのひとつである。

ある職員との出来事。
その職員は自分よりも年下の先輩で、非常に態度が悪かった。自分の意見を持っていて、職場の方針…いや当時は事業係長の方針に従う風潮を嫌い、よく言い争いをする場面が見られた。そのため利用者からも職員からも、最初の印象は良くない。

施設利用者と窓口越しに話す際は、必ずと言っていいほどポケットに手を突っ込んでいる。先輩職員に対して批判をすることもあった。しかし冷静かつ客観的にその職員を観察していると、色々と気づくことが多かった。そんな、ある日のこと。宿直勤務を二人で行っていたところ、きっかけは憶えていないが自己開示する流れになった。その職員は、アメリカで心理学を勉強した帰国子女。後日聞いた話では、アメリカの某有名大学を卒業しているらしい。その職員が、こう言ったのだ。

「俺達職員は、利用者っていう畑に種を蒔いて、水を与えることしかできないんですよ。もしかしたら水すら与えられず、畑を耕すこともできていないのかもしれない」

緊急一時保護センターというのは、前述した通り、最大二ヵ月の入所期間が設けられていて、自立を目指す人は自立支援センターに転所する仕組みだ。よって、自分と向き合った施設利用者が自立していく現場を、自分の目で確認することができない。利用者と向き合い続けることができないのだ。そのため、この最大二ヵ月で関わり合える時間で、自分にできることは限られている。それを、その職員は痛感していた。

緊急一時保護センターと自立支援センターは、五年間の運営で終了する。各ブロックで五年毎に運営を行い、その都度、委託先を決定するシステムだ。同じブロック内にある自立支援センターの運営終了が近づいていた。その施設運営は他の法人が行っていたが、所属する法人が次の委託を取りに行く方針を打ち出したのだ。東京二十三区を四区から五区に分け、それを一つのブロックとして五つのブロックで構成されている。他のブロックにある自立支援センターを所属法人が運営していた。その自立支援センターの運営終了が近づき、新たな区の新施設を決めるプレゼンがあった。自分達の施設運営終了よりも、こちらが先であった。プレゼンが無事に終わると、何の根拠があってか派手な祝勝会を開いたそうだ。ところが委託先は別の法人となり、法人幹部達は大恥を書いた。それどころか、委託選定のプレゼンに尽力した上司達の責任に仕立て上げたらしい。そこで予定にはなかったブロックの、次期自立支援センターを取りに行く方針となった訳だ。

緊急一時保護センターの職員全員が自立支援センターへ異動できるのか、決まっていることなど何もない。保証もない。不安な気持ちは、特に非常勤職員達に集中していた。そんな中、元自立支援センター職員が、緊急一時保護センターへ異動してきた。施設利用者を観察している様子は理解できたのだが、何か違和感があり、そして疑いの目でこの職員の事を俺は見ていた。すると、ある常勤職員が次期自立支援センターへ異動することになった。そして、もう一人補充したいとのことから、前述した帰国子女の心理系職員に白羽の矢が立った。経験年数や心理アプローチなど、実績は十分にある。しかし上司達の話し合いにより、一度は決まりかけた話が白紙となってしまった。詳細は不明だ。ある日、元自立支援センターの職員が、俺をパトロールに誘ってきた。一日に三回、地域パトロールという業務があった。その日に出勤している職員でコンビを組み、町内を自転車やパトロールカーで巡回するというもの。その日は担当する職員が決まっていたはずなのだが、突然俺に声を掛けてきたのだ。そしてパトロールの途中で、こんな質問を受けた。

「もし、自立支援センターに異動することになったら、行く気はあるか?」

自分に声が掛かったらと、想像しなかったわけでもない。まさか本当に声が掛かるとは思わなかった。心理系職員と語り合った、自立する姿を見ることができない緊急一時保護センターの仕事。その心理系職員が異動すると思っていた話が、皮肉にも自分に来てしまった。具体的な話ではなく、例えばという前置きがある話。現段階の返答としては無難な言葉を選択した。

「前向きに考えると思います」


第7章 2011年「異動」

二〇一一年となり、俺は別事業へと事業所内異動をした。前述した異動の話とは別件だ。施設業務を離れ、ある区の生活保護受給者をサポートするという仕事。四月から事業拡大のため、人員を増やす必要があるという背景から配置された。批判をする気はない。だが、モチベーションは下がった。

どんな仕事でも真剣にやるべきだ。試験的な毎日。丸一日、何もしない日があったりする。そんな中、前章で記した異動の話を正式に受けた。次長に呼び出され、面談を行ったのだ。パトロールの件は伝えず、初耳であることを演じた。自分よりも先輩である、非常勤職員がいることを係長に確認すると、常勤職員へ登用して異動する意思がないとの返答があった。もう一人は年齢が若いという理由で除外され、先輩二人を飛び越していることに対して、引け目に感じていることを係長に伝えたが、心配無用との言葉があった。本当に引け目なのは、心理系職員の一件だ。係長がその件の詳細を語ることはなく、気にすることはないと言うだけであった。今回の異動はチャンスだと、前向きに考えるよう勧められた。いい話だ。だが、素直に喜べないのも事実。気持ちを整理して、前向きに考えることを伝えると、改めて返事を確認すると言われた。

この予兆と言えるかもしれない二〇一〇年の夏、他ブロックの自立支援センターへ研修に行った。まさかこの時は、自立支援センターで働くことなど考えもしなかった。だが研修を通じて、この組織で働きたいと思ったのだ。仕事の内容にも興味はあったが、チームの結束が違う。研修報告書にも正直に書いた。

だが面倒なことに、自分が所属する緊急一時保護センターの次長兼事業係長が後輩で、その自立支援センターの次長は先輩なのだ。一方的に、後輩が先輩をライバル視しているらしい。その先輩次長の組織で働きたいと書いてしまったことを、事情を知っている職員達は笑っていた。異動すれば、この組織で働くことができる。次期自立支援センターのメンバー構成は、この時と同じメンバーがほとんどだ。

しかし、モチベーションが下がっている時は、いい話でも前向きに捉えにくいものだ。すると、パトロールで声を掛けてくれた職員からメールが来た。二人で飲みに行くことになり、互いに自己開示をして、疑問をぶつけた。後日、次期自立支援センターの次長から電話で、異動の決意を確認された。正直まだ固まっていないことを伝えると、そのパトロールで声を掛けてきた職員が、電話の向こうで怒鳴られていた。勿論、本気ではなく和やかな雰囲気でのことだ。

開所から遅れること二ヵ月。二〇一一年六月、常勤職員へ登用。同時に、自立支援センターへの異動が命じられた。実際には、五月十六日から研修という形で勤務を開始。翌年には緊急一時保護センターが閉所して、自立支援センターは「新型」となる予定だ。緊急一時保護と自立支援という機能が分かれていたものが、事業方針が変更となり、合体して一つの施設で二つの機能を持つことになる。わかりやすく言えば予算削減だ。都内に十施設あったものが、合体すると五施設になる。運営法人としては職員の配置が難しい。そういった意味でも、幸運に恵まれた異動であったかもしれない。

働きたかった組織に異動して、順調に仕事ができたかと言えば、そうもいかなかった。団結している組織に順応することは、個人の適応能力が優れていれば、何の問題ないのかもしれない。だが自覚している限りでは、その能力は低いと思う。新しい環境に適応することが、非常に難しいのだ。一般的なストレスの分類において、新しい環境に適応することのストレス値は高い方に該当する。順応しようとすることよりも、抵抗しようとする本能。異動前の職場は殺伐としている雰囲気を利用して、勤務以外の人間関係に距離を取ることができた。異動後の職場は、人員が少ない上に距離感が近い。

それに加えて、当時の所長は法人の常務であった。異動の権限を持っているため、本来ならば感謝すべき相手であろう。だが三十代半ばになっても、いわゆる権力者や幹部など、上に反抗的な体質は変わらない。常務に対して、悪態をつく日々であった。それに対しての注意は、次長へと向けられる。常務の怒りの矛先は、常に次長へと向けられる関係性が、何年も続いているのだ。俺が悪態をつけばつくほど、次長が怒鳴られる。法人本部にいることが多いため、施設に出勤することは、ほとんどない。実質的な所長業務は、次長に押し付けているのが現実。次長にしか怒れず、当時の係長には優しく接するという不可解な言動に、次長は冗談半分で係長に八つ当たりをしていた。常務は、電話を掛けてきても名乗らない。それを聞き返すと怒られる。単なる非常識だ。理不尽極まりない。さらには、施設利用者の対応をしている最中に割って声を掛けてきて「次長はどこ行った」と尋ねられても、知らないと返答するしかない。そんな常務に対して、当時俺の眼つきが非常に悪かったと、証言する上司達が何人もいる…。

指導担当もおらず、自分で仕事を覚えなければならない。これぐらいは、どこの世界にもあること。その場で判断しなければならないことが多いことに気づき、確認を取る場面が幾度もあった。その度に「〇〇さんはどう思う?どうしたい?」と、聞き返される。自分で考え、自分で判断し、自分で結果を分析する。異動前の職場では、次長兼事業係長の指示通りに動いていた。

自分で考えることを、止めていたのだ。そのため、徹底的に自分で考えること、そして実行することを教え込まれた。人命や負傷、病気などの緊急以外の業務に関して言えば、失敗しても責めることはしないというスタンス。仕事は、自分で取りに行くものだという姿勢を教えてくれたのが当時は新人非常勤職員で、今現在の係長なのだ。

今現在の係長は、某大手消費者金融に勤めていたサラリーマンで、全国を二つに分けた組織のトップを任された程の管理職経験者だ。そんな人が、何故福祉の世界にいるのか。そして、何故そんなにも楽しそうに仕事をしているのか。非情に興味があった。完成されている組織において、馴染んでいるというよりも強烈な個性を輝かせていた。簡単に言えば、自分の道を笑顔で歩いているように見えたのだ。

相変わらず飲み会に参加しなかった俺が、今現在の係長とは何度も飲みに行った。以前の仕事、趣味、考え方、新しい職場について思う事など、自己開示してすべて吐き出した。酒の席で仕事の話をして、説教される。若い奴に限らず、誰しもが嫌がることかもしれない。酔いもあって支離滅裂な発言もあるのだが、それは笑い話だ。仕事に向かう姿勢、気持ち。ただ真面目に働けばいいってわけじゃない。とことん遊べ。本気で仕事して、本気で遊ぶ。その後の生き方を、酒の席で教え込まれていた。


第8章 2012年〜2013年「変化」

今現在の係長から酒の席で受ける説教によって、少しずつ仕事を楽しめるようになっていった。当初は施設利用者が自立するために、自分の役割や仕事が何なのか理解できずに苦しんだ。各利用者には、担当職員がつく。そのため、各職員十名前後の担当を受け持ち、ケースワークを行っている。

結論から言えば、自立数が伸びない。規則違反や自主退所など、様々な理由で退所していくケースが多かった。衝突することもあった。嘘をつかれることなんか、日常的なことだ。同僚である職員にも相談したり、以前よりも回数を増やした酒の席などで、語り合ったりもした。組織に順応していくことで、悩みを抱え込まずに共有できるようになっていった。

仕事以外の時間を、より充実させること。自分の趣味である音楽、ギター。
自室に、相棒との創作活動で活躍したアップルのパソコンを導入した。相棒が新潟に帰った翌年、パソコンに詳しい友人と買いに行き、少しずつ使い方を覚えて、曲作りを不定期に開始したのだ。仕事が終わって自宅に帰れば、すぐに音楽と向き合える環境。個人作業は寂しいものだが、何もかも忘れて集中できる。まったくギターを触らない日もあれば、一日中レコーディング作業に没頭する日もある。時にはカヴァーを、そしてオリジナル作品を少しずつ形にしていった。

個人で音楽と向き合う時間が増えると、機材に興味が出てくる。アルミラックにパソコン、リズムマシンやデスクトップ型のマルチエフェクターをつないでいた。自宅でアンプから音を出すことなど長年やってこなかったのだが、前年に出会ったアンプメーカーの音に惚れ込み、家庭用サイズのコンボタイプを購入した。もう一種類、クリーントーンが美しいアンプを見つけて購入。二つのアンプを並べるため、小さなサイズのアルミラックを組み、その二台をスイッチングできるセッティングにして、宅録できる配線を組んだ。機械関係の苦手な俺が、機材のセッティングを楽しんでいた。それからエフェクターにも興味は広がり、デスクトップ型マルチを売却し、コンパクトエフェクターの収集を始めた。リズムマシンも売却し、音楽制作ソフトやリズム制作ソフトを導入した。趣味ではあるが、パソコンでの楽曲制作にのめり込んでいった。

SNSの主流がミクシィからフェイスブックに移行していく中で、自作曲を公開していくことにした。マイスペースといったツールもあったが親近感があまりなく、ほとんどの人が使っている話を聞かなかった。フェイスブックであれば、気軽に再生できる。まず第一弾として、ライブのオープニングで流すようなデジタルロックのインストをアップロードした。十代の頃に組んでいたバンドで、自作曲のギターフレーズをリフにしたもの。リズムもソフト音源のため、本格的なサウンドに仕上がった。自分は歌うことが苦手なため、歌詞やメロディのない音楽表現に強い興味を抱いている。ギターの音やフレーズで感情を表現したい。

この曲の映像イメージは、迷路で追いかけられている自分。サイバーな世界というか、宇宙空間というべきか。遊園地的な迷路ではなく、アニメやCGで描かれる宇宙船の中のような…。言葉にすると難しい。現実世界的に言葉で表現するイメージは、脳内伝達物質の経路だ。血管や神経といった人体内で巻き起こっている現象を音で表現したかった。混沌としている頭の中という意味で「CHAOS」というタイトルをつけた。相棒と共作したことをきっかけに、個人作業で自主アルバムが作れるどうかを考えていた。その作品の一曲目にしたい。

ある日、大学のスクーリングで出会った男性にその曲を聴かせたところ、使用したいという申出があった。その男性は、障害者の学校である特別支援学校の教員をしていた。体育の授業に使う体操曲として使用したいとのことで、特に断る理由もないため快諾すると、後日、その時の様子を教えてくれた。曲を流し始めた時こそ反応は鈍かったが、しばらくすると、楽しそうに踊ったり動いたりする生徒の姿が増えていったらしい。音を聴いて身体が反応するという結果に、不思議な充実感で満たされていた。ライブとは違う、何かを感じ取ってもらえるという喜びだ。 

二〇〇七年にバイク巡礼を行ってから、一人旅をするようになった。ツーリングマップルを開いて、行きたい場所を探す。巡礼後に行ったのが、富士山五合目だ。登頂するわけではないが、日本一の山へ向かって走りたくなったのだ。様々な場所から見える富士山の写真を撮影した。

富士山!
初めて来た5合目。

二〇〇八年には福島へバイク一人旅をした。
裏磐梯のホテルを宿にして、喜多方や会津を回った。

猫魔って、何か惹かれてしまう。


その翌週には、日帰りで静岡に向かった。
大井川鐡道のSLを観に行きたかったのだ。

SLには浪漫がある。

二○一一年には西伊豆の宿に泊まり、ひたすら海を眺める旅をした。サンセットが美しいオーシャンビュー。デジタル一眼レフを持参して、撮影に没頭した。

西伊豆はサンセットが美しい。

 二〇一二年の夏。久しぶりにサーフィンの練習がしたいと、千葉へ向かった。クルマにサーフボード、ギター、ゴルフバッグを積み、目指すは二夕間(ふたま)海岸。どれも中途半端な趣味ではあるが、自分の好きなことをやるために都外へ出るのは、楽しくて仕方なかった。

初心者には穏やかな波でいい。
海でギター弾くのも、ちょっと良い気分。
真っ直ぐ飛ばないけれど、気持ち良い。

自分が二十歳ぐらいの時に、フジテレビで放映されたドラマ「ビーチボーイズ」という作品が好きで、何の目的がなくても海へ行くことが多くなった。サーフィンに関しては二十代の頃に興味が出て、千葉にあるショップへ行って、スクールを申し込んだ。当日、上手く波に乗ることはできなかったけれど、もっと練習したいという気持ちが膨れ上がっていった。サーフボードを購入し、クルマに積載するキャリアも用意した。あの頃は体型も標準より大きいぐらいで体力もあったが、三十代半ばを過ぎて体型も体力も酷い状態になっていた。だが実際に海に入って打ちのめされた後に、部屋へ戻りギターを弾き、思い立ってゴルフ練習場へ行くという、趣味を満喫できる合宿一人旅がとても楽しかった。

サーフィンの翌週には、日帰りで伊豆に行った。バイクで伊豆日帰りはなかなかタフな旅だが、稲取の金目鯛丼を食べるという目的を果たし、満足して爆走したことを憶えている。

その数日後、バイクで新潟へ向かった。まず一人で、湯沢に一泊。翌日、当時柏崎に住んでいた相棒と合流するため、湯沢を出発した。合流してから現地で鯛茶漬けを食べて、今度は二台で湯沢を目指した。奥湯沢にある、貝掛温泉が目的地だ。相棒は、一年に何度か東京に来る。その機会に話せることもあるが、ギターやバイクで一緒に遊べる時間は限られている。特にバイクとなれば会話する時間も減るが、二台で走っている景色と排気音がたまらなく心地良い。バイクを並べるには、どちらかが乗ってこなければ実現できない。滅多にできないことなのだ。宿に着き、いざ温泉へ。ぬるめで長湯ができる、泉質の良い温泉であった。古い宿、素敵な温泉、美味い飯。これもまたセッションだ。翌日は群馬へ向かい、水沢うどんを食べて、渋川伊香保ICで解散した。

まずは湯沢「井仙」で1泊。


相棒と合流して、貝掛温泉へ。

二〇一三年一月。前年からボーカロイドという人工音声ソフトを使い、女性ヴォーカル曲を作っていた。この声の主であるプロのアーティストを知っていたこともあり、ロックヴォーカリストとして選んでみた。ヴォーカルゲストを迎える余裕もないため、作業は手間であるが、この形が一番良いのではないかと考えたのだ。SNSや動画サイトでは、二次元アイドルや架空のアーティストとしての音楽世界に用いている傾向があるが、自分の使用意図は少し違っていた。歌が苦手なため、自作曲のヴォーカルをどうしようかと、いつも悩んでいたのだ。男性ヴォーカル曲であれば自分が歌うしかない。ロックなサウンドに、女性ヴォーカルを乗せるという新しい世界が開け、曲作りも非常に楽しくなった。

自分の作曲方法は、メロディをギターで作る。鼻歌ですら音痴なため、正確な音がわからないからだ。今回初めて、ボーカロイド楽曲をアップロードした。その曲に関して言えば、相棒との共作が大きく影響している。アルバムに収録している「フェイク」という楽曲からインスパイアされた、哀愁漂うマイナーロック。印象に残るメロディにしょうと考えたのがBメロだ。そこにつながるAメロのアイデアが浮かばないまま、イントロギターとギターソロの構想を練った。ギターソロはサビメロを辿っていくイメージ。イントロをどうするか。その頃によく聴いていたマイナーロックの世界観とバンドサウンドを取り入れてみようと思い、ギターを何となく弾いてみたところフレーズが浮かんできた。そのギターフレーズにオクターブ音を重ねることで厚みを出した。そして最後にAメロを作ったのだが、イントロの印象的なフレーズをブチ壊すような落差をつけた。規則性のないリズムと、緊張感のないメロディ。流れとして悪いことをあえてやってみた。Bメロの印象を強くするための策だ。その曲のタイトルが「Darlin‘」

共作アルバムにも収録した「BLUE BEAT」を、再レコーディングすることにした。リズムを打ち込みにしてボーカロイドを導入。より無機質な世界観を創りあげることができた。アイスブルーパッケージと名付け、共作ヴァージョンとは違う、青い世界が凍てつく曲に生まれ変わった。永遠に追い求めていきたい、青い世界。未完成のまま、ずっと作り続けること。それがひとつの人生テーマであると思っていた。このヴァージョンが完成したことで、一時停止ボタンを押した気分になった。二つのヴァージョンが完成し、十代の頃の原曲が存在する。きっとまたいつか、自分自身と向き合う時に作り直すかもしれない。青い世界を求めている時に、弾き直すかもしれない。自分自身のための楽曲は、肌身離さず持っている。音楽もデータ化される時代。持ち運びが便利な世の中になった。

二月。職場の施設機能が合体し、異動前の職員とも久しぶりに顔を合わせ、再び一緒に働くことになった。すると、ある先輩職員から「昔はそんなに楽しそうじゃなかったぞ」と、異動後の職場では笑顔が増えたことを教えてくれた。気づかない間に楽しく仕事をしていたようだ。それもあるかもしれないが、仕事以外の時間を、有意義に過ごせているからだと実感していた。

三月。所属する法人の六十周年記念式典が行われた。常勤職員は全員参加で、三百五十人程が会場に集まった。この式典では各施設の余興があり、自分が勤務する施設からは所長である常務が歌うことになっていた。その歌にギター伴奏をつけようと、上司が面白半分で俺を強制指名したのだ。昔も今も、そしてこの時も、常務と良好な関係を作った覚えはない。社会人、組織、人間関係として演じなければならないこと。そういうのが嫌いなはずなのに、いつの間にかつまらない大人になってしまった自分。その指名にしばらく葛藤していたのだが、久しぶりのギター演奏とステージを踏めるチャンスとして、前向きに受け止めることにした。前職のパーティーバンド。最後のステージから、六年以上が経過していた。その時はバンド形態、しかもベース担当であった。人前でギターを弾くことが久しぶりだ。それに加えて、歌うのは常務。主役は常務なのだ。練習そのものが苦痛。常務と顔を合わせなければならない。すると、ひとつ気づいたことがあった。二人きりになると、常務は威勢の良さがなくなるのだ。次長が一緒にいる時や、職員の前では威張り散らしている。緊張なのか気を使っているのか、間を埋めようと喋り過ぎて会話が続かなくなる。この経験から、常務に対する見方や接し方が変わっていった。念を押すが、関係性や個人的な感情は何も変わらない。この時で、七十七歳。社会経験を比べたら分が悪い。とにかく衝突ではなく、表向きは仕事として演目を成立させようと、練習に励んだ。

何度か打ち合わせを重ね、曲はフランクシナトラのマイウェイに決まった。当初は古いジャズを歌うと意気込んでいたが、必死に説得してマイウェイにした。それでも式典にマッチしているかどうかは微妙だが、せめて有名曲の方が良いのではないかと提案させてもらったのだ。前職のスタッフパーティーで演奏する曲を決める際にも、同様の提案をした。演奏している側だけで盛り上がってしまうと、特に大規模な人数では冷めてしまう。ライブハウスで客を呼ぶ場合は別だ。演奏したい曲、聴いてもらいたい曲という主張を全面に出して、その中で必ず知っている曲を混ぜて構成するのが効果的であろう。マイウェイを常務がよく歌う曲と知っていたこともあり、そう判断したのだ。そして、当初はアコースティックギターの伴奏を考えていたのだが、思い切ってエレキギターで伴奏することにした。

演奏イメージは、矢沢栄吉と布袋寅泰がNHKの番組で共演した際の姿。プロのイメージは大袈裟かもしれないが、どうせやるなら酔いしれたい。矢沢氏の楽曲を演奏するにあたり、当初は布袋氏がアコースティックギターを使用する予定であったが、当日リハーサルの段階で矢沢氏が急遽、布袋氏のギターをエレキにしようと変更を指示したのだ。そうしてエレキに持ち替えた布袋氏と、アコギを弾きながら歌う矢沢氏のセッションが始まった。大人のロックを静かに奏でる二人のシルエットが、最高にカッコ良い。その映像を何度も繰り返し観て、本番に取り入れようと試みた。シルエットは似ても似つかない二人だが、相棒との音楽活動を通して、徹底的に楽しむことを思い出すことができた。

そして本番当日。
何度もサウンドセッティングを繰り返したエフェクターと、小型アンプを持参して会場入りした。演目は、権力者の圧力により常務が大トリである。会場入り直後から緊張していたせいか、他施設の演目を楽しむ余裕が無かった。徐々に近づいてくる出番。俺よりも緊張していたのが常務であった。普段はあまり飲まない酒を浴びていたらしく、ステージに上がる直前は泥酔状態であった。

ステージに上がり、キーが上手く合わないことを笑いに変え、いざ歌い出した。常務を見つめながら、一歩引いて奏でるギター。接待ギターという、不思議なステージ。独特の節回しに何とか喰らいつく。曲の展開に合わせて、コードストロークにアクションをつける。すると、客席の職員達から歓声が上がり始め、常務の声にも力が入った。エンディングには拍手喝采が起きた。客である職員達も接待かもしれない。だが、数分間のステージを俺は楽しんだ。

司会者の落語家に、マイウェイはエレキでは合わないと茶化されたが、俺はこの判断が正解であったと確信している。後日、撮影した動画を相棒に見せたところ、とても感動してくれた。演奏技術の話ではなく、そこに込められた思いが伝わったのだ。その感動が、俺に取っては嬉しかった。

六月。三十六歳を迎えた誕生日。祝ってもらうよりも家族に感謝を伝えたくて、一輪の花を三本とシャンパンを買ってきて「ありがとう」と、乾杯をした。昼間は墓参りもした。家族で過ごす誕生日。十代や二十代こそ、交際相手と過ごす方が良いと思っていた。それがいつからか、家族に感謝を伝える日になった。この日も和やかに過ごすことができたのだが、その三日後に祖母が亡くなった。

前作「魂」では、祖父のことを記した。そんな祖父よりも、祖母との生活の方が長くなったが、いつかこの日が来ても泣かないと前々から決めていた。子どもの頃の記憶を辿っても、泣かされた思い出が色濃く残っている。楽しい時間を過ごしたのは事実だ。祖父が他界後、祖母と伯母、母との四人家族。この構成で生活していたのが最長である。旅行に出かけたこともある。二人でドライブしたこともある。面倒見てくれた。心配してくれた。それなのに泣かないと決めていたのだ。最期は家族で見守った。泣かない。泣くものか。

納棺するまでの時間に、ギターのリフだけ録音していたデモ曲を、祖母のレクイエムにしようと曲作りをした。泣かないつもりではいたが、何かせずにはいられなかった。晩年は認知症になり、会話が成立しないこともあったが、家族は明るく介護することを貫いた。深刻にならず、平和に過ごした日々。祖母の人生を振り返る。祖母の旅立ちを見届ける。メロディはギターで奏でた。歌詞やヴォーカルはない。音で弔う。気がつけば、長い曲構成になっていた。最も音に魂を込めたのは、ギターソロだ。明け方までギターソロテイクを弾き続け、陽が昇る頃に完成した。

永い眠りについた祖母の枕元で、完成したばかりの曲を流した。今まで我慢していた涙が溢れ出た。泣かないと決めていたのに…。今だけはと、流れ出る涙を我慢しなかった。そして家族にも聴いてもらい、納棺するまでずっと曲を流し続け、祖母を見送った。その曲のタイトルを「Daylight」と、名付けた。

後日、家族から祖母が書いたメモがあると渡された。そのメモには、震えるような字で家族の名前が繰り返し書かれており、たくさんの「ありがとう」と、たくさんの「ごめんなさい」が書かれていた。

「何も出来なくてごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい。そして、ありがとう」

そのメモを見て、泣かないという誓いなど忘れ、俺は一人で泣き崩れた。
「Daylight」を聴きながら、しばらく祖母の笑顔を想い出していた。

七月。相棒と旅の計画を立てた。まず相棒の地元である長岡へバイクで向かい、現地合流して一泊する。そしてバイク二台で福島を目指し、温泉宿に泊まるという計画だ。しかし、天気が悪い。旅へ出る時は雨の予報にあたることが多く、梅雨生まれもあってか雨男の称号を与えられた。何とか長岡までは行くことはできたが、翌日は雨であった。しかも、相棒のバイクが動かない。どうやらバッテリーがアウトのようだ。無理してバイクで行く必要はない。相棒は、せっかくだからとバイクの復旧作業を粘ったが、最終的には相棒のクルマで福島へ向かうことにした。

久しぶりのドライブ旅も楽しいものだ。車中で会話もでき、雨を避けられる。移動中でも飲食できる。大内宿に立ち寄り、昼食に蕎麦を食べた。バイク一人旅では不可能なビールを、真っ昼間から堪能した。散策を終えると、会津鉄道の芦ノ牧温泉駅へ向かった。猫駅長がいることで有名なスポットだ。到着すると、猫駅長の熱烈な歓迎を受けた。顔を見つめながら優しい声で鳴き、駆け寄って来てくれた。そして椅子に横たわると、腹を出して喉を鳴らし始めた。心を許して、リラックスしている証拠だ。接客に慣れているのか、それとも大の猫好きが通じたのか声を出して喜んでいると、猫駅長もそれに応えるかのような動きをした。すると、若い美人の駅員さんが接客してくれ、しばらく三人で談笑した。その際にも猫駅長はそばで見守ってくれており、時折、巡回や出迎えなどの仕事をする。立派な駅長勤務を見せつけてくれた。後ろ髪を引かれる思いで出発し、宿へと向かった。到着して、ひと息ついたところで温泉に入った。白濁色の熱湯は非常に刺激的であったが、泉質は抜群に良く、来てよかったと思わず微笑んだ。

八月。作り掛けていた曲を完成させた。ギターを握って何となく刻んだビートやコードから広げた曲だ。自分が所属していた元バンドのメンバーと、相棒が組んでいたバンドのオリジナル曲に刺激を受け、生まれたギターフレーズ。メインで使用しているアンプ「Blackstar」に、テレキャスターをつないでかき鳴らす無骨なロック。少しばかりのスパイスを、コードに取り入れた。ES―335を同じアンプに接続して、ギターソロ部分をベストテイクができるまで、繰り返し録音した。タイトルは、そのアンプ名。作詞について、言葉遊びをしながらも主張やメッセージを込めているのだが、理解が難しい仕上がりになった。正しい日本語ではなく、造語も織り交ぜている。「BLUE BEAT」では青い世界に癒されたいという逃避傾向があるのに対して、この曲はタイトルを直訳して「黒星=負け」という意味をつけて、全体的には黒い世界を表現した。逃避に対して、現実を直視して感じたことが素直に表現できない歌である。ボーカロイドを使用したが、男性ヴォーカルの方がロックになるかもしれない。そこをあえて女性ヴォーカルにしてみるという、実験的なアプローチ。プラグインソフト、楽器の音を鍵盤で出すMIDI音源も取り入れた。この作品で大活躍したのがサックスだ。スリーピースのロックサウンドにサックスを取り入れて、大人な仕上がりになった。ドラムはプログラミングされているものを使用し、他曲の打ち込みサウンドよりも骨太でカッコ良くなった。

九月。バイクで二泊三日の一人旅に出た。中伊豆と伊豆高原に泊まったのだが、大雨に降られ、かなりタフな旅となった。その翌週には、山梨県にある萌木の村で一泊した。同じくバイク一人旅。隣接するアメリカンレストランを満喫し、滞在した宿にあるバーで、サントリーウィスキーの白州を勧めてもらい、今では同社のウィスキー各種を好んで飲んでいる。

十月。草津へ行こうと計画を立てた。当日は、またも雨。バイクではなくクルマに乗って出発した。現地では温泉街をハシゴして回った。観光地や有名温泉地を旅の目的地にすることを避けてきたのだが、実際に来てみると一人旅でも十分満喫できた。一人だからこそ時間が自由に使える。旅人である先輩から、素泊まりを勧められた。宿飯が好きなため、旅の計画は夕食付を選んでしまう。酒飲みならば、夜の街へ繰り出すのも面白いのではないかと、酒を飲まない先輩が教えてくれた。

翌週、晴れた空を見上げ、バイクで横須賀へと行こうと決めた。ドブ板通りを散歩して、横浜ネイビーバーガーを食した。その後、軍艦めぐりに参加。王道の横須賀観光を満喫した。その後、湘南方面へと向かって走り抜けた。
何十回と通り抜けた、海沿いの道。いつも渋滞していて不愉快なのだが、その日も同じように渋滞していたにも関わらず、そこにある海、空、雲、風、太陽、虹、江の島、江ノ電、サーファー、街並みなど、いつもの景色が同じようで、いつもと違うように感じたのだ。不思議な感覚なのだが、特別な変化は何もない。自分の状態によって、同じ景色でも感動できることがあるのだ。受信側によって、不変のことでも感じ方は違うようだ。何気ないことではあるが、奥深いことに気づけたのかもしれない。そんな自分史上、最高の湘南がそこにはあった。


第9章 2014年「東北」

二〇一四年三月。大学を卒業した。三年間で卒業単位を取り、四年目で卒論に取り組む計画であったのだが、卒論を提出しないでも卒業できる方針を学校側が打ち出した。通信教育部の閉校が決定しているため、無難に卒業させたい意向があったのかもしれない。臨床心理士を目指すならば、卒論を提出して大学院に進学する必要がある。心理学の授業でたくさんの講師と出会い、臨床心理の現場や臨床心理士として働く現実を教えてくれた。

自分は、どこに向かって行きたいのか。
今一度、考える日々が続いていた。

そこで、今の仕事が実務経験として受験資格の条件となる、社会福祉士を目指すことに決めた。社会福祉士を取得後、共通科目免除で精神保健福祉士の合格を目指したい。その資格を盾に飯を食っていくかどうかはわからないが、自分の方向性と日常的に勉強する姿勢を持続させるためにも、その計画が最善ではないかと考えた。大学卒業後の四月には、社会福祉士の受験資格が得られる専門学校に、再び通信教育学生として入学した。

この年も、たくさん旅をした。毎年、春が来るのを楽しみにしている。バイクツーリングの季節になると、平日休みを利用して旅に出た。三月、千葉県へ日帰りソロツーリングを行った。しかし帰りのアクアラインが大渋滞で、木更津から北上して幕張を回るルートを選択した。夜の首都高を走行中に、ヘッドライトが消えるハプニングに見舞われ、後続を走るトラックのヘッドライトを利用して前方視界の確保に努めた。何とか無事に帰れたが、この年のバイク旅を暗示しているのかもしれないと、不安に思う夜であった。

同月、伊豆へ一泊二日のバイク一人旅に出た。前作「魂」で記した伊豆のカッコいい親父が経営している宿へ、七年振りに行くことにしたのだ。バイク一人旅の原点となった思い出の宿。まだ冷える春の風を浴びながら、東名から小田原厚木道路、一般道を挟んで西湘バイパスから箱根ターンパイク、そして伊豆スカイラインを駆け抜けた。快晴に恵まれ、道中では富士山の撮影も楽しめた。何度も足を運んでいる稲取の店で、金目鯛の丼ぶりを堪能した後、赤沢にある日帰り温泉でオーシャンビューの絶景温泉に癒された。この丼ぶりと温泉はセットで度々訪れている。それぐらいお気に入りなのだ。そして、宿へ向かった。

七年振りの再会。タブレット端末で写真を見せると、御主人と奥様は懐かしそうに微笑んだ。詳細は「魂」にも記したが、御主人の友人達と宴会する日に客が自分一人であったことから、強制的に参加したその宴会があまりにも楽しすぎて、俺は忘れられない夜となったのだ。今回も客は自分一人であったが、宴会の予定はないとのこと。すると、宿には新人さんがいた。茶トラ猫。猫好きにはたまらない新入りだ。我が家にも茶トラがいる。宿の建物内は知っていたのだが、御丁寧に案内をしてくれる新人さんについて行った。館内には、男の趣味って感じの物が沢山並んでいる。晩飯まで時間があるため、デジタル一眼レフを手に撮影大会を始めた。

すると、新人の茶トラが「かまってくれ」と言わんばかりに、被写体を希望してきた。腕には自信がないことを前置きした上で、撮影をした。愛くるしい新人の茶トラは晩飯にも同席するつもりなのか、普段御主人が腰掛ける椅子に堂々と座っていた。一緒に美食を堪能して、この七年間の話や御主人が宿を建てた話など、男の人生論について語り合い、熱い夜を過ごした。

新入りの茶トラ猫。かわいいです。

翌朝、今度は俺の横に茶トラ猫が座り、朝食をいただいた。この茶トラの歴史を奥様から聞いていると、我が家の茶トラに会いたくなってしまった。宿を出発して西伊豆へと向かい、昼飯に塩鰹うどんを食べた。海を眺めながら休憩。しばらくして帰路に着いた。

翌月は、日帰りで秩父へと向かった。ライダー歓迎の街、小鹿野。毎年正月に行く秩父もいいが、久しぶりにバイクで訪れる秩父もまたいいものだ。

同月、卒業した通信教育の大学で知り合った仲間を訪ねて、新潟富山旅を計画したのだが、滞在場所、移動距離や時間を考え…いや、正確には天候不良を最大限に加味して、クルマで行く事に決めた。長岡には何度も行っている。だが、新潟市方面へはあまり行く機会がない。駅直結の宿を予約して、その駅ビルにある居酒屋で再会を楽しんだ。日本酒をたくさん取り扱っている居酒屋で旨い酒と出会い、翌日に居酒屋と同系列の土産店でその酒を土産として購入した。新潟を出発し、日本海沿いを駆け抜けると未開の地である富山へ到着した。

大自然。景観が素晴らしい。いつかバイクで走りたい。そう思わせる美しさであった。大学の仲間と合流して、宇奈月温泉を案内してもらった。とある宿で日帰り入浴をさせてもらったのだが、泉質がとても良い。いつまでも入っていたかったが、大学の仲間はロビーで女将さんと待っているため、後ろ髪を引かれる思いで温泉から上がることにした。その後、息子さんとも合流して、割烹料亭で海鮮鍋を御馳走になり、社会福祉関係の仕事をしている息子さんと語り合った。大学で出会った、年齢も性別も違う仲間達。その仲間を訪ねる旅というコンセプト。バイク旅ではないが、クルマで一人旅するのも良いものだ。非情に充実した、二泊三日の旅であった。

五月。相棒とバイクツーリングする計画を立てた。相棒は、新潟から北陸自動車道を通り上信越自動車道へ、俺は東京から関越自動車道を通り上信越自動車道へと走り、長野自動車道のパーキングエリアで合流した。今回の目的地は、長野県にある奈良井宿だ。歴史情緒ある街並みを、カメラを片手に散策した。再びバイクに跨り、長野の山道を共に駆け抜ける。一人で旅する機会が増えてきたが、無言のセッションである相棒とのツーリングが楽しくて仕方ない。バイクを降りていく人が多い中、いつまでツーリングを続けることができるのだろうと、前を走る相棒の後ろ姿を見てぼんやりと考えていた。長野自動車道のとある分岐点で、二手に分かれていくバイク二台。楽しい時間を過ごした後、一人になる瞬間は寂しいものだ。

音楽もだが、バイクで旅するのも至極の時間。

七月。相棒の家へ遊びに行った。クルマにギターとベース、そして外付けのハードディスクを積んで、いざ長岡へ。恒例のウェルカムラーメン青島食堂、寺泊の魚市場、へぎそば、日本酒、エチゴビール。定番となったが、外せないマストメニューを堪能しながら。宅録に励んだ。今回はカヴァー作品が中心。相棒が歌って、ドラムを叩き、俺がギターを弾き、そしてベースを弾く。ツーリングの無言セッションではなく、賑やかな宅録セッションを楽しんだ。

九月。日帰りで真鶴へ向かい、海鮮と温泉を堪能した。夏のツーリングは気持ち良い。そして、この夏。東北バイク旅へ出る計画を立て始めた。

二〇一一年三月に起こった、東日本大震災。職場の同僚がボランティアに向かい、自分には何ができるのか問い続けていた。やらない偽善より、やる偽善。口で言うより、動く支援。SNSや動画サイトが定着した時代において、楽しいものや感動するもの、そして表現できる場が与えられた。そこには、未曽有の大災害を記録することもある。辛いことを、振り返ってしまう環境があるということだ。それと同時に、風化せぬよう留めておく役割も果たす。存在意義を語っている場合ではない。そんな環境の中で、自分自身には何ができるのか。何をするべきなのか。考えはするが、行動に移せない。自分を責めた。他人事なのか。そうして三年が経過していた。

被災地を見に行こう。自分の目で見たい。復興がどうなっているのか。そして、現地の人は何を思っているのか。直接の言葉で聞いてみたい。観光地を楽しみ、東北を満喫してみたい。東北に関する書物を購入し、情報を集め、何処に滞在するかを計画した。

九月十五日、初日。自宅を出発し、まずは福島県を目指した。東北自動車道をひた走り、白河ICを出て一般道に入った。ツーリングマップルに、白河そばの中でも幻といわれた追原そばと記されている、追原庵という店へ向かった。古民家のような佇まいの店内には、数名の客がいた。注文した蕎麦は、とても美味。食べ応えのある食事を好んできたが、そばやうどんの美味しい店を訪ねて、バイクを走らせる旅も悪くないと思った。

蕎麦の良さがわかるようになったのは、四十代以降。

蕎麦を食べた後、前年訪れた芦ノ牧温泉駅へと向かった。すると、高齢となった猫駅長の写真撮影を禁ずる看板を発見した。すっかり観光スポットとなった猫駅長が観たいと、たくさんのお客さんが訪れ写真撮影をしてフラッシュを浴びたこと、そして高齢になってきたことも併せて、目が悪くなってしまったようだ。そのため、今回は距離を取って眺めることにした。すると、初代猫駅長の後継者候補として、二代目の子猫が研修生として勤めていた。何とも愛くるしいチビッ子猫も、すっかり有名になっている様子。観光客が多いため、少しばかり堪能したところで宿へ向かうことにした。

宿にチェックインして、この旅のために購入した大きな防水バックを荷解きしながら、仲居さんと談笑していた。あまりの面白さに気を取られ、楽しみにしていた温泉の存在を忘れかけていたが、タオルを手に大浴場へと向かった。その日は日曜日であったが宿泊客も多く、団体客に混じり露天風呂に浸かっていると、白髪を後ろで束ねたイケメンおじいちゃんに声を掛けられ、旅の会話が始まった。自分がバイク旅をしていることを伝えると、その男性もバイク乗りらしく、ベンリィ125に始まって、ホンダ、カワサキと何台も乗り換えながら、日本全国をバイク旅で制覇したと話していた。思わず感動して会話が弾む。たまたま話しかけた人が、バイク旅の好きな者同士。旅人同士は、旅人同志である。その男性は「とにかく日本中をバイク旅して、息子もバイク乗りになって、どうしようもない人生だ」と、笑い飛ばしていた。最後に俺が質問をした。

「バイクで日本中を旅して、その人生に後悔はないですか?」

 すると、こう返答があった。

「ないね。だって得たものが多いからさ。財産だよ!」

最高の笑顔を見せてくれた。その方は、埼玉県から来た団体客の一人。「趣味の寄合だから深い付き合いをするつもりなんか無かったのに、いつの間にか長く深い付き合いになっちまったよ」と、旅の背景を説明してくれた。たった数分間だけの共有でも、出会えたことの喜びがある。そのことを噛みしめながら、いつもこうやって別れるのだ。

「どこかで、また!」

温泉を堪能して、ロビーで目についたビールの文字。館内演出として、演舞場では三味線の生演奏をしている。ビールと三味線を味わいながら、旅の一期一会に酔いしれていた。

九月十六日、二日目。朝の温泉を満喫して、朝食で腹を満たした。今日から被災地に入っていく。宮城県女川を目指し、まずは猪苗代湖へ向かうことにした。たまには湖も良いものだ。休憩ポイントで眺める景色を前に、そう思えた。思わず写真を撮影する。そしてツーリングマップルを開き、ルートを確認する。東北自動車道に乗り、北へと向かう。

湖も良い。猪苗代湖。当時は和柄着てバイクに跨ってました。

宮城県に突入し、菅生PAで昼食を取ることにした。仙台の牛タン。思いつきで食べた昼食ではあったが、とても美味しかった。スターバックスでコーヒーを買い、再びツーリングマップルを広げる。有名な観光地にも行ってみたい。そう思い、宮城県の松島を訪れた。ゆっくり散歩して、休憩がてら景色を眺める。今日の目的地である女川まで、あともう少し。途中、石巻市で大きな看板が目に入ってきた。

「がんばろう!石巻」

現地で目にすると、感じるものがある。

そして、ひとつのランプと案内板が展示してあった。
そこに書かれていた内容を、原文のまま記しておく。

「この火は被災した石巻地域から木片を集め、それを火種としました。東日本大震災から一年。亡くなられた方への追悼の思い。生き残った私たちの『がんばろう』とする思い。心に残したく燈しました。」

その近くには、震災の新聞記事や写真なども展示してあり、この地が被災していることを物語っていた。テレビやインターネットで知る情報。仮に同じ内容であったとしても、現地で感じるものは絶対に異なる。自己満足かもしれないが、こうやって感じていくことが大事なのだと、言い聞かせていた。

再びバイクを走らせた。女川に到着したが、街の景色は想像を超えていた。震災直後の瓦礫の山、臭い、景色…そこに居た者だけが感じること。その衝撃は、とてつもないと聞いた。かつて街があったであろう場所には何もなく、未開拓地のような荒野が広がっていた。そこには工事のトラック、重機車両、作業員の数々。砂埃が舞う異様な光景に、心が締め付けられた。できることなら前向きに捉えたい。

人間が生活していた、その場所に…。

復興は始まっているが、時間が掛かるという現実を受け止めるしかない。それは、現地の方々が一番思っていることだ。壊された防波堤。看板の無い、荒れた道路。何の手がかりも無いため、宿の場所がわからない。警備員に聞いても、知らないと答えるだけであった。右往左往して、走れそうな道を探し続けた結果、砂利だらけの荒野にトレーラーハウスが並んでいるのが見えた。間違いない。今日の宿だ。

トレーラーハウス村の女将さん。老舗旅館の娘であったが、地震で発生した津波によって流されてしまった。旅館も両親も、何もかもを…。希望を失っていた娘さんが、地元の方々の力を借りて作ったのが、トレーラーハウス村だ。現実との葛藤から見出した希望。代々受け継がれている、老舗旅館の魂。そこに感銘を受け、今回の宿を決めた。トレーラーハウスの室内は、清潔感もあり、基地感覚で楽しめる空間となっていた。夕飯は煮魚、刺身、帆立のバター焼きなど、大好物な献立を満喫することができた。食後は、コインランドリーで洗濯をした。真っ暗な外を眺めながら、またいつかここに来る時には、街があり、灯かりがあって、人々の笑顔に溢れていて欲しいと、ひたすら願うことしかできなかった。

九月十七日、三日目。朝食を済ませ、次の目的地とルートを確認した。出発してすぐ、何もない街と海を目の前に、撮影をしてもよいのか悩んでいた。ここに来たことや見たことを記録しておきたい。純粋にそう思い、プライバシーに配慮しながら写真撮影をした。

バイクを走らせていると、笹かま工場が目に飛び込んできた。駐車場にある大きな看板には「がんばっぺ女川!負げねーど宮城!おだづなよ津波!」と、掲げてある。お土産店で試食して、購入することにした。じっくり吟味しながら家族への土産を決め、宅配発注を行った。そして、看板に掲げていた文言と同じステッカーも買うことにした。

インパクト大。とにかく力強さ、前を向く姿勢を、街の人から感じることができた。

女川にある「きぼうのかね商店街」を訪れると、そこには「希望の鐘」が設置されていた。「希望の鐘」とは、JR女川駅の駅前広場にあったもので、駅に汽車が到着すると、それを皆に知らせるカラクリ時計台についていた、四つの鐘の内の一つだ。震災の津波を受けてしまったことにより、女川駅は土台を残してすべて流されてしまった。しかし奇跡的に鐘が一つだけ、音が出せる状態で発見された。それを「希望の鐘」と名付けた。

希望の鐘

この商店街について、女川の中心街はすべて津波で流されてしまったことから、買い物することができなくなってしまった。すると、海外の支援団体から資金面援助があり、鎌倉のパッシブハウスジャパンによって木造仮設商店街の構想がスタートした。建設地は、宮城県が所有する女川高校グラウンドに決定。二〇一一年十二月に着工。翌二〇一二年四月二十九日に完成、オープンとなった。商工会建設の木造仮設商店が三十店舗、国の事業によって建設されたプレハブ仮設商店が二十店舗で構成されている。そして、前述した「希望の鐘」を掲げることによって、商店街のシンボルとし、女川の再出発を高らかに宣言したのだ。

女川のための商店街。店が開くまでには、少し時間が早かったかもしれないが、ゆっくりと商店街を歩いて回った。そこに行き交う人々の表情を見つめる。長岡の被災地を案内してもらった時のことを思い出した。辛くとも笑顔で生活する人々。勿論、四六時中笑顔でいるとは思っていない。流した涙は、どれほどかも想像できない。現実と葛藤しながらも人と人がつながり、手を取り合い助け合う。そこで見た笑顔はとても力強く感じ、刺激を受けた。この女川でも、それは同じ。頑張るぞ、負けねぇぞと掲げ、前を向いて歩いていく。そのエネルギーが、この商店街には溢れている。この女川の街に、確かに存在しているのだ。

津波が襲ってきた海沿いを北上する。全壊した大川小学校付近。北上川沿いを駆け抜けると、河口付近の眺めは素晴らしかった。だが、穏やかではいられない。この街にも、悲劇は起きている。志津川湾沿いを抜けると、南三陸さんさん商店街があった。

「サンサンと輝く太陽のように、笑顔とパワーに満ちた南三陸の商店街にしたい」

そんな思いを込め、二〇一二年二月二十五日に仮設商店街としてオープンした。かつての街の中心地に、震災後約八メートルかさ上げされた高台の造成地。南三陸杉を使用した平屋六棟に、計二十八店舗が構成されている。ここで昼食を食べることにした。

海鮮丼を売りにする店が多いため、目移りしてしまう。ぐるぐると歩き回り、悩みに悩んで入った店の大将は、なんと自分の地元に住んでいたことがあるという。何という偶然。これを縁と呼ばずに、何と言うのか。地元話と最寄り駅の私鉄沿線の話で大いに盛り上がった。南三陸の地元客には方言で接客する、家族感覚の店。津波で店が流され、この商店街ではもう店をやらないという仲間もいる中で、大将は再び立ち上がった。もう一度、やり直したい。

注文した品は南三陸キラキラ秋旨丼。中でもイクラが絶品だった。底抜けに明るい大将の笑顔。キラキラしているその笑顔は、南三陸の象徴かもしれない。

南三陸キラキラ秋旨丼

食事を終えると、再び商店街の中を散歩した。商店街の脇には、南三陸ポータルセンターという施設が隣接されており、今を生きる人々の言葉を伝える「南三陸ストーリー」~東日本大震災の記録~という展示を行っていた。

胸を裂かれるような真実の記録。

生々しく痛々しい記録の数々。避難所生活や支援物資の実展示などもあった。涙をこらえることができなかったが、目を逸らしてはいけないのだと、改めて思った。施設を出て、商店街の中にある写真屋に入ったところ、そこには南三陸の震災写真集が置いてあった。四部作になっている作品の一つを購入し、自宅に持って帰り日常生活に戻ってからその写真集を見ようと思ったのだが、数年が経過した今も開ける心の余裕がない。それほどまでに、写真が切り取った現実は残酷なのだ。いつか開ける時が来るのであろうか。その写真集を購入すると、代金から三百円分が寄付されるとのことだ。自分には何ができるのか。今後も考え続ける必要がある。その並びにある、南三陸復興まちづくり情報センターに立ち寄り、この街の状況を目にしてきた。笑顔と涙。ここにもまた、強いエネルギーが存在していた。

少しばかり南下すると、宿泊予定のホテルが見えてきた。
このホテルもまた被災しており、語り部バスを運行している。チェックインの際に、翌日のバスを予約した。そしてオーシャンビューの温泉を堪能し、大浴場の目の前で販売されている生ビールを飲み干した。夕飯はついていない。隣接するレストランで食事をしようと足を運んでみたのだが、準備中で開店時間は未定と言われた。落胆しながらホテルに戻ると、レストランで食事注文ができるようなので、メニューを確認した。すると、先ほど昼に食べた南三陸キラキラ秋旨丼があり、写真の雰囲気が昼に食べたものとは違うため、再び注文することに決めた。食事付き宿泊客向けの準備で忙しい、まだ誰もいないレストランで一人ポツンと着席した。カツオ、サンマ、ヒラメ、なめろうが並ぶ、美しい丼ぶりが目の前に置かれると、我を忘れて食べ続けた。

自分史上最高の海鮮丼。

こんなに美味しい海鮮丼は、後にも先にも食べたことがない。それぐらい衝撃的であった。美味しいものは、たくさんあるのだが、その中でも群を抜いている。できることならば、また食べに行きたい。

九月十八日、四日目。朝、語り部バスに参加するため、ロビーに集合した。バスが走り始めると、語り部案内人が震災の現場を紹介していった。あったはずの街並みが無くなったこと、津波到達地点がバスよりも高い位置に達していることなど、心に刺さる内容ばかりであった。バスを降りると、そこにはテレビでよく見た防災対策庁舎が目の前にあった。鉄骨だけのむき出しになった庁舎。

語り部によって、現実が伝わってくる。

屋上に設置されたアンテナの上を津波が飲み込んでいった話を聞き、恐怖と悲しみに襲われた。そのアンテナにつかまって助かった方、非常階段につかまり助かった方がいた中で、避難放送を流し続けたまま、逃げずに津波に襲われてしまった方がいた。ニュースなどで見たり聞いたりしていたが、現場で聞くと、悲しみは深くなる。胸が痛む。参加者が順番に、涙を流しながら手を合わせる。景色が歪んでいくのがわかった。この話を誰かに伝え、この体験を誰かにつないでいく。それしかできない。

再びバスに乗り込むと、またひとつエピソードが紹介された。大震災直前に避難場所を変更して訓練をした海に近い学校が助かり、山側の学校は津波に飲まれたとのこと。これもまた現実。そして、昨日入浴した高台にあるオーシャンビューの大浴場。全面ガラス張りの向こう側から、十メートル以上の津波が襲ってきたらしい。波が引いていく時に海底が見えたとのこと。

チェックアウトを済ませ、本日の宿を確認した。南三陸の北にある、大谷海岸を望むホテル。この南三陸の宿からは近い。そのためホテルを通り過ぎ、さらに北上して岩手県陸前高田市を目指す予定だ。

震災直後に生き残った一本松も、二〇一二年五月に枯死と判断されたことにより人工的な処理を施し、今現在はモニュメントとして保存されている。四十五号線を北上し、大谷海岸を駆け抜けると、気仙沼が見えてきた。宿に向かう途中で立ち寄ることにして、陸前高田を目指して再びバイクを走らせた。

陸前高田も女川と同じように、無機質で殺伐としている雰囲気があった。広大な砂地に風が吹くと、視界が悪くなり咳き込むほどの砂埃が舞い上がる。バイクを停め、奇跡の一本松へと近づいていった。天高く伸びた一本松。

奇跡の一本松。

今はモニュメントであるが、津波から生き残ったその生命力に圧倒された。凄まじい存在感。しばらくその場で見上げていた。こうやって残していくことが大事だと思う一方で、辛い気持ちが蘇ってしまう人もいる。被災の現場では、常に葛藤が続いているのだ。

気仙沼へ戻り、復興屋台村を訪れた。気仙沼ホルモン定食を注文し、レバーが苦手な俺でも美味いと感じることができた。そして気仙沼復興商店街を散策し、お土産を購入した。この商店街もまた、とても力強い。

ゆっくりとした時間を過ごし、宿へと向かう。
再び南下して、大谷海岸を目指した。この日の宿も被災している。結婚式会場を併設した、大きすぎない洋風のホテル。眼下に広がる大谷海岸が、とても美しい。総じて、東北の海はとても美しいのだ。だが、恐ろしくもある。そんな複雑な気持ちを抱えながら、オーシャンビューの綺麗な部屋から、海を眺めていた。カメラを取り出し、撮影する。リゾート地とはまた違う、開放感のある静かな海。とても雰囲気の良い素敵な場所に来ることができた。夕焼け空と海。心を穏やかにして、夜を過ごした。

九月十九日、五日目。明け方に目が覚め、コーヒーを淹れた。ゆっくりと朝焼けが広がっていく空を、写真撮影しながら楽しんでいた。昇ってくる太陽と空、そして海。これだけで十分だ。その景色を眺めながら、ひとり呟いた。

夜明けの珈琲とカメラ。

「夜はまた明ける。陽はまた昇る。負けるな東北!ありがとう東北!」

陽が昇り、太陽が海を照らす。今日も快晴だ。しばらくここで過ごしたい。それほど居心地の良い環境が、ここにはある。海岸に出て、写真撮影をした。バイクも含めた海のショット。いつかまた来よう。そう決心して、本日の宿である福島へのルートを確認した。

サンライズ。

この旅で通ってきた、南三陸、女川、石巻を抜けて東北道に入る。もう一度、目に焼きつけておこう。そう決めてバイクを走らせ見た景色は、文章を書いている今でも思い出すことができる。それほど、この東北バイク一人旅は衝撃的であった。

石巻港で昼食を取ることにした。漁師や工場、そして、復興工事関係者の多いこの食堂も被災しているそうだ。今日の移動距離は長い。タフな走行に備えて満たした腹をさすりながら、石巻の街を眺めていた。宮城、岩手。そこで見た景色、現実。深く心に刻み、噛みしめ、目に焼きつけて、東北道へと入った。

海鮮三昧。とにかく美味い。

トイレ休憩のため、パーキングエリアにバイクを停めた。用事を済ませて駐輪場に戻ると横に一台のスクーターバイクが停まり、そのライダーが話しかけてきた。島根ナンバー。なんと北海道から南下して、太平洋側を駆け抜けて被災地を回り、これから島根に帰るという。そんな、白髪のおじいちゃんであった。芦ノ牧温泉で出会ったおじいちゃんも、このパーキングで出会ったおじいちゃんも凄い。素晴らしい。こんな大先輩ライダーがいて、旅人として出会えるからこそ、一人で旅に出てしまうのかもしれない。孤独な旅も、楽しいのだ。そのスクーターおじいちゃん。シルバーのフュージョン、二十年乗って走行距離七万キロ。荷台には年季の入ったリヤボックスが積んである。いい感じのステッカーが貼ってあり、人となりが出ているカッコいいバイクだ。車種とか関係ない。ライダーとバイクとの関係性が素敵なのだ。

SAやPAでも出会いが!
旅のプロ!使い込まれた味わい深いバイク。
カッコいい!

「お互いに良い旅をしましょう!」と、素敵な言葉をもらった。

「また旅の途中でお会いしましょう!」と、思わず返した。

カッコつけたセリフも、こんな出会いがあるとつい口にしてしまう。もっと旅の話をしたかったが、先を急ぐライダーを止めることはできない。二人のバイクを撮影して、おじいちゃんライダーの背中を見送った。またひとつ、素敵な出会いに恵まれた。

福島県に入り、高速を出て磐梯吾妻スカイラインに突入した。バイク雑誌では、お勧めの道として必ず登場する。だが、アメリカンバイクで走るべきではない。苦難の連続であった。そして、寒い。今までの東北旅は温暖な気候が心地よかった。海から山へと移ることに油断があった。暖を取るためにも、とにかく今日の宿を目指そう。すると、秋元湖でサンセットに遭遇した。大谷海岸ではサンライズ。ここ秋元湖ではサンセット。空と雲、そして山間に沈んでいく夕陽。寒すぎて辛くても思わずバイクを停めて、カメラを取り出した。燃えるような空。今日もまた、素敵な景色を見ることができた。消えていく太陽に「ありがとう」と呟き、再び宿へとバイクを走らせた。

こういった景色に出会えるのも、旅の醍醐味。

裏磐梯に佇むペンション。情報通り、オードブルからメインのステーキまで、とても美味しかった。釣り人や家族連れのお客と並んで、一人パクパクと頬張っていたところ、オーナー御夫婦の三歳になる娘さんが、目の前で真剣な顔してパズルで遊んでいた。旅の宿としてペンションを選ぶことはほとんどないのだが、とてもアットホームでいい宿を見つけたと思う。御主人と話をすることができた。入れ替わるように奥様とも話をした。

福島県相馬市出身の御主人。その付近に住んでいた奥様。実家のすぐそばまで津波は来ていたのだが、何とか無事であった様子。しかし、その直後に原発事故が発生した。実家や被災地に娘を連れて行きたいけれど、万が一を考えてしまうと難しいとのこと。福島は地震や津波の被害の他にも、原発事故という難しい現実と向き合っている。こうやって話ができる機会も稀だ。自分の思いや考えを伝えてみようと自分が東北に来た経緯、被災地のこと、東京での生活、自分にできることは何か、東北に来るまで抱いていた思いと、東北に来て感じたことを話してみた。

すると、こんな言葉を聞くことができた。

「強要はしたくない」

震災から三年半が過ぎて、ようやく訪れることができた。実際に東北へ来てみてわかったこと。俺はボランティアへ行く人を見て、素直に凄いなと思っていたが、自分にはできない行動力を妬んでいたのかもしれない。そんな自分が嫌だなと。人それぞれ自分の目的があって、人それぞれ自分のタイミングがある。自己正当化することで、逃げているのかもしれないと思っていた。

「自分なりの向き合い方でいい」

それをペンションの御主人や奥様に教えられた。
今回の東北旅で出会った人達から教わったことなのだ。

「また来てください」

「来てくれて、ありがとう」そう言ってくれたのだ。

 南三陸の復興商店街で、俺のバイクを見たおばちゃんが、俺にこう言った。

「何処から来たの?東京?まぁ遠い所から、ありがとうね」

俺にできること。
東北のファンでいること。
また東北に来ること。俺が見た東北を伝えること。俺も強要してはいけない。

「もやもやした気持ちが晴れたなら、良かったです!」と、笑顔で締めてくれた御主人と奥様。東北に来てよかった。

このペンションを、最終日の宿にして本当に正解であったと思う。部屋に戻り、帰路を調べるため地図を開く。旅の終わりが近づき、少し寂しくなった。

九月二十日、六日目。ペンションの御家族に別れを告げ、東京を目指した。福島県内は、非常に寒い。途中、陽を浴びるためにパーキングエリアのベンチで横になった。絵にかいたような、日光浴。自然の力はすごい。直射日光を浴びると、身体が温まってきたのだ。急いで帰る必要もない。もしかすると、旅を終えたくないのかもしれない。そんなことを考えながら、しばらく目を閉じていた。

東北自動車道のパーキングエリアで昼食を食べ、お土産を買う。関東に入ると、いよいよ現実世界、日常生活に戻ってきたことを実感した。旅は帰るまで気を抜いてはならない。また、東北に行こう。まだまだ見ていない東北があるはずだ。寂しさに包まれていたが、それ以上に充実感で満たされていた。この旅は間違いなく、自分にとって大きな経験となったはず。それは年月を経て、この文章を書きながら改めて実感している。そして結婚願望のない俺が、この旅を通じて自分の家族を作りたいと思うようになった。家族って凄いな。羨ましいな。素敵だな。力になるのだなと。結婚に対しての意識が、少しずつ変わっていく旅となった。

十月。東北旅の余韻が残るなか、二日連続で日帰りツーリングに出た。初日は茨城へ牛久大仏を見に、二日目は山梨へ河口湖でほうとうを食べる目的とした。東北へタフな旅に出たせいか、茨城までの走行距離が少し物足らなく感じていた。農産物の直売所で併設しているレストランへ行き、ビュッフェスタイル形式で大量のサラダを食べることができた。いつになく健康的な昼食を満喫し、世界ギネスにも認定されている牛久大仏を拝んできた。あまりの大きさに圧倒され、しばらく茫然と眺めていた。

翌日は、ほうとうを食べに山梨へと向かった。河口湖付近にある、外観が独特な造りの有名な店。ほうとうは勿論、それ以上にいなり寿司が美味かった。そこから望む富士山を撮影してSNSにアップロードしたところ、小学校の同級生が結婚して山梨に住んでいるらしく、その写真を見た同級生が富士山を眺めることができる絶景スポットを教えてくれた。実際に行ってみたところ、河口湖の向こう側には美しい富士山の姿があり、息を飲む絶景と出会えたことに感謝して、SNS上ではあるが礼を伝えた。

十一月。箱根へと向かった。もう肌寒い季節。有名温泉街ではあるが、日帰りのバイク旅にはちょうどいい距離感だ。選んだ温泉施設に間違いはなった。気軽に来ることができる距離と、箱根温泉のクオリティ。またひとつ、お気に入りスポットが増えた。


第10章 2015年「西国」

前年は、クルマやバイクの旅によく出た一年となった。その間にもカヴァー作品を宅録して、祖母のために作曲した「Daylight」に歌詞をつけ、ボーカロイドで歌を乗せた。以前から、デモとして存在していた「Reborn」という曲では、初めて英語詞に挑戦した。メロディは十代の頃に思いつき、ずっと頭の片隅に記憶されていた。二十代の頃に「Reborn」というテーマを掲げて生きていたが、前作で記した通り、二十代の終わりには心が病んでしまい、本当の意味での「Reborn」を成し遂げる必要があった。大好きなパンクロック。横山健の影響を大いに受けた楽曲が出来上がり、カッコ悪いぐらいストレートなことを歌詞にしたくて、日本語詞を英訳する形を取った。そうしてデモ曲ができたのが、二〇〇九年頃。そこからギターも弾き直し、アレンジを加えてイントロ部分のギターを付け足した。

二〇一五年一月。ストックされていた、ほぼ完成形の自作曲とカヴァー曲をラインナップした、個人創作のアルバムをパッケージングした。全十一曲。そのアルバム解説書も書き上げ、完成された音源と併せて相棒に手渡した。そのため、収録曲の解説については割愛しよう。だがひとつだけ記しておきたい。解説書の最終ページに、こう記した。

「大切な家族、祖先に感謝を込めて。これが俺の人生だ」

前述した「Reborn」という曲の最後に「This is my TRUE STORY.」という歌詞が出てくる。直訳すると「これは私の真実の物語です」となるが、それを「これが俺の人生だ」という日本語訳にした。「BLUE BEAT」は自分が描く、現実と理想の青い世界。「Reborn」は約五分の曲に詰め込んだ、俺の物語。その一文を、解説書の最後に残した。創作活動に、ひと区切り打つ。過去の自分を認め、肯定して前を向いて歩き出せる。そう思っていたし、完成した充実感を言葉で表現したかった。そして作品を相棒に渡すことで、共作を経験させてもらった感謝と、これからの二人の音楽活動へ何か刺激を与えることができれば嬉しいと思ったのだ。

事実、この先は宅録作業をする時間が減っていった。次の活動へ向けたモチベーションは見当たらない。後ろ向きではなく、完成したことの意味が大きいからだ。好きな時にギターを弾こう。それでいい。

三月。毎年のように行っている伊豆へ、バイク旅に出た。今回は、宿も飯も新規開拓だ。まずは下田を目指した。海側、山側のどちらを選んでも、それぞれの魅力がある伊豆へのルート。自分のお気に入りとしては、東名道から小田原厚木道路が定番だが、新規ルートとして圏央道で湘南方面に出て、西湘バイパスに入る。そこから箱根ターンパイクへ入り、伊豆スカイラインへ抜けるか、海沿いを走り真鶴から熱海方面へ向かうかという選択肢がある。バイク旅を始めた頃は、西湘バイパスから真鶴を抜けて、熱海へ向かうコースを選択していた。走り慣れてくると、伊豆スカイラインで一気に伊豆高原方面まで走ることが増えた。今回は久しぶりに熱海を抜けて、海沿いを走って南下するコースを選んだ。

伊豆に来ると、毎食海鮮丼でも良いと思ってしまうぐらい海の幸が美味しい。今回の店でも、まず一食目の海鮮丼を食べた。腹を満たした後は宿を目指す。途中、立ち寄って遊ぶことはしない。海沿いを走り、海の幸を食べ、宿で湯に浸かり、美味い酒と肴を堪能する。今回はいつもの旅に比べて、少しばかり贅沢をしようと決めていた。

肉より魚を喰らう三十代。

全室オーシャンビューの宿。大きくはないが、高級感がある。部屋飯。バイク旅で来るイメージの宿ではないかもしれない。だが海好きの俺にとっては最高の宿だ。部屋から見える景色と、海岸から眺める景色の両方を写真撮影した後、温泉に入った。風呂から上がり、海を眺めながらビールを飲む。最高の贅沢だ。特に何をするわけでもない。そうやってのんびりしながら夕暮れを待って、晩飯をいただく。散在覚悟で、冷蔵庫に入っていた白州を飲む。気持ち良く酔っ払えば、後は寝るだけだ。

もう気軽に飲めなくなった白州。

翌日、下田から西伊豆へ向かう。この日も美味しい海鮮丼を食べるため、下田にある店を探した。丼に乗せる魚を選べるのが売り。その名も「ファイブチョイス丼」で、ブリ、アジ、カツオ、カンパチ、金目鯛を選んだ。

ファイブチョイス丼

とても贅沢な丼ぶりを満喫して、西伊豆を目指し出発した。春が近づいているとは言え、まだまだ寒い三月。途中、道の駅で缶コーヒーを買い、文字通りホット一息つく。少しだけ桜が開いているのを見つけ、写真撮影をした。のんびり走っても、宿にはかなり早い到着が予想される。今回の旅は宿も楽しみにしているため、チェックイン受付開始時間早々に着くよう走ることにした。

次の宿は高級というよりも、こだわりのある宿だ。到着してから数時間、顔がニヤニヤしっぱなしなのが分かるほど魅力的な宿であった。西伊豆の高台にある全六部屋の小さなホテル。どう表現すれば良いのか。雑誌「ライト二ング」から飛び出したような、アメリカンな世界観で溢れている。その場に行くと少年になってしまうような、男の秘密基地のようだ。自分の好きなものだらけということもあり、ずっと写真撮影をしていた。アメリカン雑貨やグッズ、バイクにサーフィンボード、ギターなど、数えきれない物で囲まれたカフェスペース。最高だ。

アメリカンな古着屋、雑貨屋のような店内①
アメリカンな古着屋、雑貨屋のような店内②
アメリカンな古着屋、雑貨屋のような店内③
アメリカンな古着屋、雑貨屋のような店内④

外に出て、高台から望む西伊豆の海をバイク越しに撮影した。今までにないぐらいカッコいい写真が撮れた。この宿で初めて経験したことが、バイクをルームインしたことだ。一部屋のみ可能なのだが、この日は空いており、御主人がその部屋を勧めてくれたのだ。ベッドに横たわり愛車を眺めることができるのは、とても贅沢な空間である。

ルームインできるバイク。
外に停めても絵になる。

その日、客は俺一人。そのため、食事をしながら御主人とゆっくり語り合うことができた。オーナーシェフである御主人は、独立してホテルを開いた。西伊豆は夕陽がとても綺麗なことで有名。この宿の高台からも、綺麗な夕陽を眺めることができた。「このホテルでプロポーズして、そして結婚したカップルが三組います」というエピソードを聞き、本気で結婚相手を探す決心をした。東北のバイク旅では、家族が作りたいと思った。そして西伊豆の旅では、結婚を意識した。予定も目途もないのだが、そろそろ好き勝手に旅ができなくなるかもしれないという、根拠のない予感がしていた。男の秘密基地であり、ロマンチックすぎる場所。不思議な宿との巡り合せは、今後の旅や出会いの序章であったのだと、今なら言える。

翌日。静岡県三島へ向かい、絶品の鰻を食べた。

石橋屋以外の鰻を、静岡で食べたのは初めてかもしれない。

東名道へ向かい、インター近くの土産屋で買い物をして帰路に着いた。贅沢の中に、何かを予感させる不思議な旅であった。

何かやり残していることはないか。個人創作という音楽と向き合ったことで、自分にとって大切なことを成し遂げる重要性を感じていた。そして、思い出したこと。二〇〇七年、自分にとって人生のターニングポイントとなった旅。秩父巡礼。そして、坂東巡礼。日本百観音巡礼の残り三十三ヵ所、西国巡礼へ今こそ行くべきなのではないかと思ったのだ。もうすぐ四十代へ突入する。もしかしたらこの先、結婚や転職など大きな環境の変化があるかもしれない。東北被災地を旅したことで、タイミングの重要性を学んだ。そして、自分の家族が欲しいと思った。二十代の終わりに経験した失恋から、まともな恋愛をしていない。過去と向き合うことを含め、未来を見据えた巡礼に出よう。こうして、西国巡礼の計画を立て始めた。

関西地方を中心に点在する札所。ツーリングマップルで場所を調べていく。坂東と同じように、何度かに分けて旅へ出ることになる。シフト休みや有給をうまく活用して、四回に分けて旅をする。バイクで行くとなると移動距離が厳しい。バイク巡礼というスタイルを貫きたいが、天気のこともある。想定する移動時間で回れないこともあるかもしれない。ハプニングも考えればリスクが大きい。移動距離、移動時間、札所の位置、その道程において都合の良い宿を探し、その位置関係を調べ、ノートに計画プランを書き出す。タフな旅だ。ほぼ計画が完成した状況で、バイクにするかクルマにするか決めかねていた。第一弾に出る巡礼旅直前に、雨という天気予報を目にして、ようやくクルマ巡礼に変更することを決めるこができた。少し残念な気もしたが、結果的にはクルマ巡礼で正解であった。

西国巡礼第一弾。四月十三日、初日。バイクからクルマに乗り換えての巡礼旅が始まった。本日は宿に向かうだけの移動日。目指すは渥美半島の最西端にある、愛知県伊良湖。新東名道を利用して、ひたすら西へ向かって走り続けた。荷物を大量に積めることができ、この日のような雨にも耐えられる。今回は関西方面の巡礼。移動距離も長い。ロングドライブに向いている愛車を、最大限に利用しようじゃないか。アメリカ産の日本車。このクルマも、バイク同様アメリカンと位置づけたい。途中、PAで昼食を取ることにした。海鮮丼を食べる旅が多いことを踏まえ、選んだのは牛タン定食。満腹になり、この後どうするかを考えたのだが、目的地の宿へ向かうしかないため、ひたすら運転を続けた。

愛知県に初上陸。静岡県より西へ、ロードトリップをしたことがない。雨の道を走り抜け、辺りも暗くなり始めた頃、ようやく伊良湖の宿に到着した。

四月十四日、二日目。昨夜からずっと雨が降り続いていた。本日は伊勢湾フェリーにクルマごと乗り込み、三重県伊勢市に上陸し、和歌山県にある札所一番を目指す予定だ。宿をチェックアウトして、すぐ近くにあるフェリー乗り場へ向かった。

車ごとフェリーに乗って、海を渡る。

片道切符を購入して乗船したところ、出航してからしばらくの間は客席に座っていたのだが、中国人観光客の団体があまりに騒がしいため、デッキに出た。そして押し寄せる、船酔い。何も楽しめない航海が終わり、三重県に上陸した。伊勢神宮の近くを通るルートであったが、今回はスケジュールの都合上、立ち寄ることを断念した。知らない土地では時間に余裕を持って動きたい。メインである西国巡礼を進めないことには、この旅が成立しない。

バイク旅で使い込んだツーリングマップル。事前購入した関西版に各札所をチェックして、どのルートが最善かを検討してきた。コンビニに立ち寄り、そのツーリングマップルを広げて、昼飯処を探した。

選んだのは、和歌山の郷土料理「めはりずし」が食べることができる店。
めはりずしとは、高菜が入っている握り飯を、さらに高菜で巻いたもの。これが絶品であった。いつかまた食べに来ようと思うが、気軽に来ることができる距離ではないため、お土産にその高菜を購入した。

めはりずし、美味。

札所一番、青岸渡寺。駐車場にクルマを停め、那智山に入った。雨で霧が掛かった幻想的な風景に向かって、階段をゆっくり登っていく。秩父、坂東の巡礼から約八年。この階段を登りながら、ようやく西国巡礼に来ているのだと気持ちが高揚していることに気がづいた。札所に到着し、まずは旅の始まりをゆっくりと噛みしめてから、納経帳を買うことにした。本堂で般若心経を読み上げ、御朱印をいただく。感慨深く納経帳を眺めながら、すぐ近くにある世界遺産那智大社を訪ねた。家族の健康と、無事に結願できるよう願いを込めて、手を合わせた。

幻想的な道を行く①
幻想的な道を行く②

いよいよ、西国巡礼が始まった。秩父や坂東の巡礼をしているような、切迫感や焦燥感のある旅ではない。自分がこれから何処に向かうのか、この先も旅を続けることができるのかどうかもわからない。そんな中での節目となる旅。日本百観音を結願させること。八年前の旅物語が、時を経て再開されたのだ。

この日の目的は果たせたが、もうひとつやりたいことがあった。以前より、熊野古道を歩いてみたかったのだ。札所の近くに大門坂というのがあり、車を停めて散策することにした。どの旅に出ても、写真とは違う印象を受けるものだ。今回は少しだけとは言え、その地を踏むことが出来て良かった。いつか、熊野古道を目的地とした旅ができればと、大門坂夫婦杉を眺めながらぼんやり考えていた。

本日の宿は、那智勝浦。夕朝の飯はハーフバイキング。そこに並んでいたのが鮪飯だ。那智勝浦は鮪が有名。刺身よりも、その鮪飯が美味。腹を満たした後は、部屋で納経帳を開いた。札所一番目の御朱印を眺めながら、まだ白紙のページをめくり続ける。この旅の物語は、まだ始まったばかりだ。

御朱印帳

四月十五日、三日目。今日は紀伊半島を海沿いに走り、和歌山県の西側を目指す予定だ。国道四十二号線。エメラルドグリーンの海に並走する単線電車。最高の景色を目の当たりにして、バイクで走りたいなと思った。いつの日か、和歌山へバイクツーリングに出よう。道の駅も素晴らしい。同じ海ではあるけれど、今まで見たことのない海がそこにはあった。

写真撮影をして、しばらく潮風を浴びる。雨や荷物、移動距離を考えればクルマで正解なのだが、バイクで来たかったと思わせる場面が多々あった。房総半島や伊豆半島を旅したことは何度もあるが、この紀伊半島は桁違いにスケールが大きい。

クルマ旅も悪くない。というか、楽しい。

札所二番、三番を回り、宿へ向かった。西伊豆の夕陽も絶景であったが、ここ加太の夕陽もまた素晴らしい。和歌山県を走り抜け、いよいよ明日は大阪府に入る。次の札所は難所として有名らしい。どうやら、山登りをするようだ。気合いと不安が入り混じる中、夕陽に見惚れながら美酒に酔いしれていた。

四月十六日、四日目。札所四番、施福寺。ここに半端な気持ちで来てはいけない。心を折りにくる坂、階段、そして獣道…。他の巡礼客と挨拶を交わしながら、ひたすら道を進んで行く。山を登って行く。すると、地元の方が声を掛けてくれた。その優しさが力になる。自分はバイクやクルマで巡礼をしているが、歴史的に考えれば昔は徒歩で回っているのだ。改めて巡礼というのは自分自身と向き合って、そして他者に感謝する修行なのだと思った。歩いても、登っても、見えてこない頂上。何度も自分自身との対話を繰り返す。秩父巡礼へ出発した日のこと、坂東巡礼へ出発した日のこと。そして、各巡礼で結願した日のことを思い出していた。繰り返すが、この旅は不惑を迎える前に成し遂げたかった。迷うとは選択をすること。悩むとは覚悟を必要とすること。秩父巡礼では迷い、坂東巡礼では悩み、そして西国巡礼では、再び迷い悩み続ける自分と向き合うために始めたのだと、頂上に着いて再確認することができた。

札所五番、六番、七番と回り、札所八番に到着した。ここの階段も長くて厳しいものであったが、不思議と頑張ることができた。誰に頼まれたわけではなく、自分でやりたいからやっていること。旅に出て、わざわざ苦しい思いをする必要はないのかもしれない。観光旅行とは少し違う、自分と向き合う旅。他力本願な人生を打破して、自ら切り開いた道を歩き出したい。一人で旅に出るということは、日常生活圏内から外に飛び出すということ。自分と向き合うには、それで十分かもしれないが、巡礼という旅の目的を追加することで、自分の人生が真実味を帯びてくる。非現実の旅をしながらも、現実味のある時間を過ごす。巡礼旅に出て気づいたこと、そして学んだことだ。

札所九番、興福寺。広大な敷地の札所には、外国人観光客や修学旅行生などで賑わっていた。御朱印をもらい、足早に宿へと向かった。興福寺五重塔を眺めながら風呂に入り、宿の夕飯はないため、晩酌を求めて夜の街を散歩した。雰囲気のある街並みを歩いていると、一軒の居酒屋を見つけた。思い切って入ってみたが、結果的に大正解であった。三十年以上続く焼鳥屋。ちょっとぶっきらぼうな大将と、十席もないカウンターだけの狭い店内。演歌ではなく、ジャズが流れている不思議な空間。焼き鳥とビールを楽しんでいると、隣に座っていた女性が話し始めた。その方も一人旅の最中とのこと。旅人の会話は弾み、日本酒の味見までさせてくれたその女性から、最後は一杯奢ってもらった。店を出て、夜風に当たりながら散策。二軒目を決め兼ねていたが、コンビニでエチゴビールを購入し、宿へ戻ることにした。ライトアップされた五重塔を眺めながら、再び露天風呂に浸かり、風呂上がりにエチゴビールを流し込む。新潟の地ビールを、奈良で味わう。旅のメニューは自由なのだ。

渋い赤提灯の店。

四月十七日、五日目。巡礼札所ではないが、宿から近い東大寺へ向かった。中学生時代の修学旅行以来だ。甘酸っぱい青春を思い出しながら大仏様と御対面した。ここでも記念に御朱印をもらい、次の札所を目指した。いよいよ京都府へ突入する。

札所十番、三室戸寺。京都府宇治。緑が多く、鶯が鳴いている。風情がある素敵な札所。険しい道のりを経て辿り着く札所もあれば、癒される札所も存在する。ゆっくりと散歩して、クルマに乗り込んだ。札所十一番、醍醐寺。池や庭園を眺めながら、御抹茶をいただくことにした。次の札所を確認する。今度は滋賀県だ。札所十二番、十三番、十四番と回り、札所十五番は再び京都へ。西国巡礼第一弾はここまで。そして、三重県にある宿へと向かった。

本日の宿は自分らしくないというか、巡礼旅には似合わない。とてもオシャレな日帰り温泉施設に、小さな宿泊棟、有名シェフのイタリアン、和食、スイーツ、ベーカリーのブースがある。開放的な温泉を満喫して、和食ブースに足を運んだ。旅の疲れを十分に癒す。第一弾では愛知、三重、和歌山、大阪、奈良、京都、滋賀と走り抜け、約半分となる十五の札所を回った。この旅では、クルマが正解だと何度も噛みしめているが、最後の日もそれは同じであった。初めてのロングドライブ。ガソリン代や高速代を惜しみなく使えるのも、今だけかもしれない。

四月十八日、六日目。東京に戻るという予定以外、この日は自由。朝風呂を満喫して、再び和食ブースに足ぶ。最初からわかってはいたが、一人で来て、一人で泊まるような場所ではない。それでも楽しむことができたので、いつかまた来たいと思う。ベーカリーブースでお土産を購入し、帰路に着いた。高速道をひたすら東京へと走らせ、巡礼ではお土産を買わないというポリシーを忘れていた。それは、サービスエリアで目移りしている最中に気がついた。走行距離約千五百㎞、五泊六日のロードトリップ。次は札所十六番、清水寺から再開予定だ。

西国巡礼第二弾。五月七日、初日。今回は列車旅を選んだ。京都周辺に札所が集まっていることから、クルマは使わずに電車で向かい、街を歩いて回ろうという計画にしたのだ。

一人で新幹線に乗ることがないため、東京駅発車時刻よりも相当早めに着いてしまった。この旅のために新しい鞄を用意した。どうせなら、とことん楽しみたい。年齢を重ねると行きたくなる街、京都。そんな高揚感を抱きながら、久しぶりの新幹線に乗車した。

京都に到着し、まず宿へ向かうため地下鉄に乗り換えて、四条駅を目指した。目的地の駅に到着し、PASMOをチャージするため精算機を探した。自分の前には外国人観光客が精算機を利用していたが、すぐに順番が来たので、チャージを済ませた。すると、その外国人が声を掛けてきた。英語が話せるわけではないのだが、アメリカ旅にも行った経験があるし、英会話を習っていたこともある。そして、何故か街で外国人に話しかけられることが多い。

その外国人の話では、どうやら五千円札を入金しようとしても、札が返ってきてしまうとのこと。実際に、その札を入れてみたところ、確かに戻ってきてしまう。日本語で表記されるメッセージが理解できないため、どうすれば良いのかわからないという相談であった。その外国人は、五千円札が二枚しかなく、小銭も持っていない。そこで、俺の千円札をチャージして、改札の外で両替した後に千円返してくれれば良いよと、身振り手振りを交えて伝えたところ、理解してもらえた様子であった。片言の英語で会話をしながら、両替できる場所を探す。コンビニか銀行に行こうと言われたが「俺も東京から旅で来ているためわからない」と返したところ、そこから何故か友好的になった。窓口で両替を済ませて千円を返してもらい、互いに素敵な旅をしようと言って別れた。こういった小さな出来事が、旅を楽しませてくれる。高揚感だけでなく、地に足をつかせ、巡礼へ向けて気を引き締めさせてくれたりもするのだ。

宿でチェックインを済ませ、阪急電車と嵐電を乗り継いで、嵐山へ到着した。まずは京都感を味わいたいと甘味処を探した。近代的な和の造りが素敵な店に入り、ロールケーキと御抹茶のセットを注文した。とても美味しくいただき、次の目的地へと向かった。渡月橋に着くと、屈強な男たちが「人力車はいかがですか」と、観光客に声を掛けていた。だが何故か俺には声が掛からない。心当たりがあるため、掘り下げないことにしよう。そして、ずっと行きたかった場所へと向かった。

嵯峨野、竹林の道。秩父巡礼を経験してから、森や林、山、緑の多い所へ行くと癒される。その中でも、京都の竹林は行きたいと思っていた。写真で見るよりも、現地での景色、そして雰囲気が素晴らしい。不思議な感覚になる。癒されるのとは、また別の感覚。これは旅でしか味わえないことであり、言葉にするのは難しい。竹林の先にある神社で、えんむすびの御守りを買った。これは他力本願なのか、後押しなのか。結果は、いずれわかる。

念願の竹林。

宿周辺の街へ戻り、温泉を探したが見つからず、有名な銭湯があると聞いて行ってみることにした。思わず外観を写真撮影してしまうほど、歴史のある昭和の建物に見惚れてしまった。中に入ると、番頭の渋いおじさんに「兄ちゃん。ここは世界の縮図なんやで」と笑顔で語られ、外国人観光客あるあるを話してくれた。奈良で入った居酒屋と同じように、ジャズが流れる銭湯。ボロボロの脱衣所で裸になり、いざ浴室へ入ると明らかにチンピラのお兄さん達が先客として風呂に入っていた。熱湯に四苦八苦していると、チンピラのお兄さんが「ははは!熱いだろ?これが最高なんや!」と、声を掛けてきた。しばらくしてお兄さん達が去って行き、長湯どころか普通に入ることも諦めて、俺も風呂を出ることにした。それでも楽しい時間に変わりはない。名残惜しいが、風呂上がりの一杯を求めて散策を始めた。

最高。銭湯にハマるのは、西国巡礼から9年後のこと…。

京都の街並みを楽しみながら歩いていたのも、湯上りの直後だけ。店を訪ねても、ことごとくフラれてしまった。歩き始めてから約一時間。ようやく見つけたお店の晩酌セット。時間限定メニューで、店に飛び込んだ時には終了二分前であった。笑顔で迎えてくれた店員さんに、晩酌セットを頼んだ。生ビール中ジョッキ一杯、本日のおばんざい三品、さつま知覧どりの黒焼きのミックス盛り合わせがセットで、千円。このセットメニューがとても美味しかった。店員さんは皆とても優しく、一人飲みの俺に気を遣って話しかけてくれた。その三人の店員さんは、福祉業界経験者。うち一人は現役とのこと。そこから話は盛り上がり、ジョッキとグラスのビールをおかわりして千円以上使ってしまったが、何とか二千円以内で収めることができた。これも作戦だとしたら負けであるが、俺自身が楽しかったから大満足だ。

宿に戻り、もう少し飲みたいとホテルのバーへ向かった。この宿を選んだ理由は自分の好きなサントリーウィスキーが並ぶバーがあること、ホテルの隣にスターバックスがあることだ。白州を飲みながら、ゆったりと過ごす。明日は札所を回る。初日の旅は上々であったと、一人酔いしれていた。

日付が変わった深夜。SNSに公開することは不適切かもしれないが、前作にも書いた「心の師」の命日ということもあり、メッセージを書いた。原文を一部変更して記しておく。

(心の師の名前)様

(名前)さん。もう八年か。ちょうど八年前のこの日、俺は確か水戸にいた気がする。坂東巡礼の最中だった。宿で

連絡をもらった時の衝撃は今も忘れないよ。

自分と向き合うために秩父巡礼を始めて、そこで坂東と西国の存在を知った。
(心の師に)社会人にしてもらい、たくさんの出会いの場をもたらしてくれた。
だからそこを辞めるということに覚悟が足りなかった。身体を壊し、精神を壊し、一人で悩み、一人で秩父巡礼へ出た。そして俺の決断を受け入れ…いや諦めてくれたという方が正解だったかもな。

次へ向かうために出た坂東巡礼中、再び病に倒れた時、札所で読み上げる般若心経は健康回復を願うものとなった。それぐらいしか俺にはできなかったよ。そんな時でもさ、俺がいつか四国八十八箇所お遍路したいって言ったら、特集していた雑誌を読み終わったからやるよって言ってくれたりとかさ。いつも優しかったよな。当時、みんな知っていたことだけど、俺は清原和博が好きで坊主にしたり、巨人や世間と闘う姿を自分と重ねてみたりして勝手に投影したりしてさ。今じゃあの人お遍路してるんだぜ。仰木監督と会いたい、語りたいって。自分のためには頑張れないって。なんとなく感じるよ。坂東巡礼中、そんな感じだったもの。

奥さんは憶えてないかもしれないけど、お遍路行くときは(心の師を)連れて行くって言った。だけど、あれ撤回する。四国で会おう。どうせ毎日のように旅してるんだろうから。そん時は会いに来てくれよな。

(心の師は)わかってると思うけど、俺は捻くれてるから命日には手を合わせないことにしてる。しかも今年は京都にいるんだぜ。あれから八年経って、ようやく西国巡礼に来れた。というか、来る決意をした。もう(前職で)働いていた年数よりも、辞めてから流れた月日の方が長くなっちまったよ。あっという間だよな。

坂東巡礼がその後、(名前)さんの供養へと変わり、結願した帰りのアクアラインで見た光の道…まだ憶えてるよ。あの独特の言い回しが、聞こえたもの。

だから今日、西国巡礼の続きをやるよ。清水寺からなんだ。(名前)さんのため、なんて言ったら「知らねぇ…」って煙に巻くか。それかいつも言われてホッとしたアクアラインでも聞こえた、あの言葉をくれるかもしれないな。

「ごくろうさん」

ありがとう、(名前)さん。またな。

節目には必ず、心の師がいる。
いつもいるわけではない。それは自分で語りかけてみて気づいたことだ。

五月八日、二日目。スターバックスでコーヒーを買い、清水寺を目指して歩き始めた。早朝の祇園。自分は若くないと自覚しているが、この街に来るとまだガキだなと感じる。大人になって、夜の祇園を味わってみたい。そんな事を考えながら歩いていた。

札所十五番、清水寺。修学旅行で集合写真を撮影した場所。二十年以上経過しても、変わらない景色がある。時間の流れを噛みしめながら、ゆっくりと散策した。

京都の街を歩く。建築物だけでも風情があり、観光になる。清水寺付近の坂もまた良い。巡礼を始めたのが朝早かったのもあり、朝飯を求めて店を探したが、まだ開店していなかった。結局何も食べずに、札所十七番へ着いたのは午前九時半。仕方がないので次の札所を目指したが、空腹に勝てず、翌日の朝食候補にしていた店へ向かった。有名なお茶ブランドの飲食店。午前十時半という微妙な時間に腹を満たし、このペースで行けば、午前中に予定していた札所巡礼が終わる見込みだ。ひと息ついて、札所十八番へ向かった。小さな札所でも観光客が多い京都。西国巡礼の札所は、観光客や巡礼客が多い印象を受ける。残すは札所十九番。地図で場所を確認し、早々に出発した。

記念撮影をしながら、次の札所を目指す。途中、本能寺に立ち寄った。歴史に興味がなかったことを少し後悔しながら、無知な自分でも知っている本能寺を眺めていた。照りつける太陽。まだ五月だというのに、異常なまでに暑い。札所まであと少しのところで、氷の文字に誘われた。メニューの写真を見ると、かき氷の大きさが豪快だ。まだ午前中だなんて、関係ない。小豆と栗、小皿には白玉が添えられた抹茶氷。関東にある美味しいかき氷の店を知っているが、この店もまた美味い。空腹よりも、暑さと疲労でペロリと平らげてしまった。

札所十九番に到着したのは、午後十二時半ごろ。夜を含めて、たっぷり時間ができた。何処に行こうか考える。情報を集めた結果、商店街にある市場へ繰り出すことにした。テイクアウトの生ビールを片手に、買い食いをする。酒の肴を求めて、歩き回った。午前中の疲れも吹き飛んだので、京都を満喫しようと再び祇園方面へ向かった。

京都土産を求めて、扇子屋に入った。すると、一人の男性客が店員さんと何やら話し込んでいる。気にせず扇子を探していると、その男性客と話終えた店員さんから声を掛けられた。…なるほど。美人店員。そして、京都弁。自分も話し込んでいることに気がづいたのは、しばらく経ってからであった。お勧めの扇子を買い、夢のような時間はあっという間に過ぎ、店を出て歩き始めた。

しばらく上の空であったが、祇園に到着する頃には我に返った。京都の伝統芸能を観賞できる舞台。外国人観光客しかいなかったが、日本人の俺でも楽しむことができた。劇場を出ると、外は少し暗くなっており、祇園の街に灯かりが燈り始めていた。この道を歩いているだけでも楽しい。

祇園にいるという現実に酔いしれていた。通りの店が開き始め、興味本位でメニューの値段を確認したが、気軽に入れるものではない。祇園という響きだけで、一見さんお断りの印象がある。どうぞお気軽にと言われても、入る勇気がない。だが、せっかく来た京都。初めての祇園。悩みながら歩いていると、どうにか支払うことができそうな店を発見し、思い切って入店することにした。湯豆腐の店。大人の雰囲気を味わいたくて勢いで入ってしまったが、とても美味しかったので満足だ。店を出る頃にはすっかり暗くなっており、夜の祇園が素敵な場所であると再確認できた。そのまま散歩して、鴨川の納涼床を眺めていた。そして、職場の人から勧められたことを思い出した。

「京都に行ったら、先斗町で呑まなきゃ」

その言葉に妙な説得力を感じ、先斗町の飲み屋街へ足を踏み入れた。いかにも金持ち社長のような風貌の男性が、舞妓さんを連れて練り歩いている。夜の京都って感じだ。無知な俺が太刀打ちできる街なのか…少し不安になってきた。何処の店にしようか決めることができず歩き回っていたが、とあるバーに入ることにした。

鴨川を眼下に飲める店。響の十七年を注文。すると、マスターでもあるイケメンのバーテンダーが話しかけてきた。他のお客に見せる、強気で勝気な発言。その疑問は、すぐに解決した。この業界を生き抜いてきた背景に、ひどい人種差別があったようだ。そのバーテンダーは韓国人。業界で、そして世界で色々なことがあったとのこと。思わず、響をおかわりしてしまった。そして名刺をもらい、京都へ来ることがあれば飲食店を案内しますよと言ってくれた。女性の一人客がいるのも、何か理解できる。このマスターの強気な発言と笑顔、そして酒を求めて訪れるのであろう。旅の一期一会は、とても貴重だ。巡礼という範囲に限らず、一人旅をしているとわかること。熱く語り合ったところで、宿へ戻った。しばらく部屋でくつろいでいたが、もう少し飲みたい気分になり、ホテルのバーへ向かった。関西は山崎。白州、響、山崎とサントリーウィスキーを満喫。シメ…いやトドメの一杯だ。

五月九日、三日目。朝飯を食べに、おばんざいバイキングの店へ向かった。朝は品数が少ないようだが、地元農家の美味しい野菜を中心に、特製粥、味噌汁、数品のおばんざいが並んでいた。粥がとても美味しく、数杯おかわりをしても約五百円という、財布にも身体にも優しい朝食であった。

ホテル横のスターバックスで、食後の一服。東京へ向かう新幹線の出発まで、時間がある。チェックアウト後、京都タワーの展望台へ寄ることにした。京都の街並みを眺めながら、西国巡礼第二弾の旅を振り返ってみた。もっと滞在したい。巡礼に限らず、京都は何度でも楽しめそうだ。

西国巡礼第三弾。五月十七日、初日。今回は、再びクルマでの巡礼旅。京都山科を目指し、宿直勤務明けの午後二時過ぎに出発した。ひたすら宿を目指して、走り抜ける。すっかり日も沈め始めたが、京都は遠い。午後九時前に何とか到着した。チェックインを済ませ、大浴場の利用終了時間が目前であったこともあり、急いで湯に浸かって、夜の街へ繰り出した。雰囲気のある店を発見し、カウンターへ腰かけた。焼鳥とビール。せせりがとても美味かった。焼鳥を数本と、シメに鶏雑炊を食べた。これがまた絶品であった。素泊まりを選び、街ブラをして、ひとり呑みを楽しむ。本日の宿も、外国人観光客が多い。挨拶程度の英語ならば、緊張も抵抗もなくなってきた。

五月十八日、二日目。今回の宿付近にもスターバックスがあった。コーヒーにサンドウィッチを頬張りながらルートを確認し、早々に出発した。まずは札所番外へ。三十三の札所以外にも、番外というのが存在している。納経帳にも番外のページがあり、御朱印をもらえるのだ。その後は札所二十番を回り、二十一番を目指した。

昼飯は、京都亀岡のハンバーガーを食べた。和とアメリカンを融合したような店構え。急いでも事故につながるだけ。焦るなと言い聞かせるように、食事や休憩時間はゆったりと過ごす。肉体的なことも、精神的なことも、睡眠も、食事も、何気ないことでも、特別な気がする。日常生活における当然のことが、とてもありがたく感じることができる。巡礼に出ると、感謝の気持ちが強くなるのだ。

札所二十一番、二十二番、二十三番、二十四番は京都、大阪、兵庫と県境付近を走り回る。極端に小さな札所と、広大な札所が入り混じるエリア。荘厳な空間に身を置き、自然と背筋が伸びる。札所を順番通りに回るのは、ルートの効率が非常に悪い。だが秩父巡礼で決めたことを、坂東でも西国でも貫きたい。順番通りに回ることで、巡礼旅の物語が深まる気がしたのだ。

順調に札所を回り、宿のある宝塚へ到着した。明らかに浮いている。宝塚歌劇団の舞台を観に訪れたマダム達に紛れ込んで、巨漢の巡礼客が一人。そんなホテルの温泉に浸かり、部屋で缶ビールを飲んでいたが、思い立って大阪へ行ってみることにした。仕事柄、見ておきたいと思ったのが、あいりん地区。におい、景色、人…想像以上だ。写真撮影はせず、眼に焼きつけておこうと歩き回った。歓楽街と道路一本挟んだだけの、光と影。この感覚を持って、巡礼を続けよう。

五月十九日、三日目。この日も札所番外からスタート。納経所で番外の意味や西国を復興させた人物など、様々な教えをいただいた。札所を出ると、悪天候の影響が霧などの幻想的な雰囲気を作り出し、眠気も飛ぶほど感動した。そして、まだ番外札所が巡礼計画から漏れていたことを知り、慌ててルートを練り直した。

札所二十五番も幻想的な風景が広がり、札所二十六番では沢山の階段を登ることになった。札所二十七番は西国巡礼最西端に位置し、ロープウェイを使って、さらにそこから山道獣道を突き進むと、札所がようやく見えてきた。その札所は、西の比叡山と呼ばれるほどだ。

五月二十日、四日目。宿にしていた大阪のホテルから、東京へ向かった。途中、サービスエリアに立ち寄り、お土産購入と腹を満たしながら、長い道のりを走り続けた。

五月二十七日。巡礼の合間に、バイクで日帰りツーリングをした。
あまり行ったことのない場所にしようと、千葉県の銚子へ向かうことに決めた。

高速道路で行けるところまで東へ向かい、降りてからの一般道が遠かった。それについては、街中の看板や呼びかけの弾幕にもあった。高速道路を引き延ばそうという、力強い言葉達が連なっている。その言葉を心の底から願うと同時に、今はひたすら走るしかない現実と、銚子という選択肢を少し後悔し始めていた。

やっとの思いで辿り着いた銚子港。目当ての店が見つからない。同じ道を何度も行き来して、ようやく店を見つけることができた。昼飯時はとっくに過ぎている。これまでに経験したことのないぐらい空腹だ。ある意味、準備は万端。金目鯛の漬け丼とノンアルコールビールを注文した。まず喉を潤す。付け合せで出された金目鯛の皮揚げが、とても美味しい。思わずノンアルコールビールを一気に飲み干してしまった。やがて、今日の主役である金目鯛の漬け丼が登場した。伊豆稲取金目鯛最強説という、持論を覆すような絶品。唸るほどの美味しさ。バイク旅の腰痛と疲労も吹っ飛ぶ程…と言いながら、温泉にも入りたくなるのが、バイク旅。すると、店のおばちゃんが日帰り温泉の割引券をくれたので、行き先に迷っていた温泉問題が一気に解決へと向かった。

西国巡礼最終章。六月二十一日、出発前夜。西国巡礼四部作の最終章を明日に控え興奮を抑えきれずにいた。秩父と坂東、そして西国の納経帳を並べて、一人晩酌する。明日は全部持っていこう。初日は自身最長のロードトリップとなる。この日のためにタイヤも交換した。ガソリンスタンドやディーラーの店員さんに、危険だと警告されていたのもあるが…。とにかく準備万端だ。遠足前日のようだと言いたいが、個人的にはそれ以上の興奮である。早朝出発のため寝ることに集中しよう。

六月二十二日、初日。午前七時。京都の天橋立を目指し、いざ出発した。ひたすら西へ向かって走り続ける。午前八時半頃、静岡県のサービスエリアで朝食。和定食で腹を満たし、再び西へ。午前十一時頃、愛知県のパーキングエリアで休憩。そして午後十二時半頃、滋賀県のパーキングエリアで昼食。近江牛まんと近江牛コロッケを食べた。さらに走り続けること約二時間。午後三時頃、京都天橋立にある札所二十八番、成相寺に到着した。日本一のパノラマ展望台と刻まれた石碑があるように、そこから見渡す景色は素晴らしいものであった。

札所から程近い所に、本日の宿はあった。チェックインを済ませ、隣接する温泉施設へと向かう。ロングドライブの疲れを癒すため、ゆったりと湯に浸かり、キンキンに冷えた生ビールを喉の奥へと流し込む。晩飯をどうするか考えるため、ホテルのフロントで近隣の食事処や居酒屋が記された地図をもらった。しばらく眺めていたが、旅人の直感で決めた店に入ってみることにした。

素朴な食事処。再び生ビールを注文して、メニューを眺める。年配の御夫婦で経営している店。マシンガントークの奥様と、酒を飲みながら調理する御主人。三人で熱く語り合っていると、息子さんは俺より年上のようで「まだ若いじゃねぇか」と、愛情たっぷりの説教モードになった。嫌味が無い。そして、心地良い。生ビールをおかわり。合計三杯目のビールと、タコ刺し、カンパチ、ニンニクの丸揚げを味わっていた。酔いも回っているせいか食欲が増していき、御主人と協議してカツ丼を食べるという暴挙に出た。すると、一人の常連さんが入店してきた。

もうそこからは、吉本新喜劇を観ているようであった。というか、その中にいるような感覚で、笑いの絶えない時間が過ぎていった。気がつけば、御主人と常連さんと三人でビールを飲んでおり、何故か熱く政治談議になっていた。そして、その常連さんは「これも一期一会だ」と、四杯目と五杯目の生ビールを奢ってくれた。その後、その常連さんと人生談義に突入した。本当に吉本新喜劇に出てきそうなキャラクターの常連さん。笑顔が印象的な、底抜けに明るい人柄。突然「帰る!」と言って席を立つと、俺と何度も握手をして別れを惜しんでいた。西国巡礼を無事に達成できますようにと、繰り返し口に出して願ってくれた。出会ってわずかな時間でも、最後まで優しくて温かい人。たくさんの感謝を伝え見送った後、しばらくして俺も店を出ることにした。すると、店の御夫婦は息子が旅立つかのように、心配そうな顔をして見送ってくれた。この旅、この店では涙が似合わないと思い、素敵な出会いに感謝して、笑顔で店を出た。

街にある食事処。
ここでも最高の出会いがあった!

六月二十三日、二日目。午前六時半、出発。約二時間走り、京都府と福井県の県境付近にある、札所二十九番へ到着した。次は滋賀県。琵琶湖に浮かぶ、竹生島に構える札所を目指した。西国巡礼の札所は、色々と凄い場所にあるものだ。滋賀県の琵琶湖長浜港に到着し、フェリーの乗船券を購入した。敵は船酔いと二日酔いだ。昨夜の愉快な常連さんを思い出していた。琵琶湖に、大切な思い出を吐き出すわけにはいかない。そんな不安をよそに、何事もなく竹生島へ到着した。

札所三十番、宝厳寺。ヘビやトカゲに出会える大自然溢れる島。ゆっくり見て回っても、帰りの船までは時間がたっぷりあった。日向ぼっこをして待つ。それにしても暑い。天気に恵まれた最終章。このまま結願まで、快晴であってほしい。あと札所は三つ。

昼飯時ということもあり、せっかくなので近江牛を堪能したかった。贅沢しようと店を探す。勘を頼りに入った店で、ノンアルコールビールと肉を注文した。あっという間に溶けて無くなる近江牛。ここでのエネルギー補充が必要であったことは、その後の札所で痛感することになる。

札所三十一番を回り、札所三十二番観音生寺へと向かうと、結願目前に試練が待っていた。階段の数、千二百段。過酷な札所四番と、前作にも記した秩父巡礼札所三十一番での出来事を思い出していた。秩父巡礼札所三十一番では、事前に納経所の時間を調べもせず、ギリギリ間に合うかもしれないと焦ってバイクで向かった。到着すると、真っ暗な山の入口に階段が見え、登り始めてみれば二百九十六段あるという石碑を発見。暗闇に向かって登り続け、頂上にある納経所を訪ねたが閉まっていたのだ。翌朝、再び訪ねると「午後四時で閉まっていた」という事実が判明。納経所のほとんどが午後五時に閉まるため、その札所もそうだと思い込んでいた。そのため、階段を二往復することになったという教訓だ。

往復しても約六百段。今回の札所は千二百段だ。ほとんど倍である。西国巡礼だけでなく、秩父や坂東も含めて総括するような時間を与えられた気分だ。何度も休憩をして、絶対に登るというシンプルな目標に向かって足を動かした。西国巡礼札所四番ではたくさんの人が訪れていたため、すれ違う際に挨拶をしたり、声を掛けたり、時には励まし合ったりしていたが、この札所では人の気配がない。孤独な階段との対決だ。何かメッセージを与えられているような、そして結願前に改めて考えさせられているような気がした。立ち止まる度に呼吸を整え、運動不足を痛感しながら頂上の方を睨みつけ、笑いながら畜生とつぶやく。ようやく辿り着いた頂上で御朱印を眺めながら、西国巡礼の厳しさを改めて痛感した。

札所三十二番との激闘を終え、宿にチェックインした。本当は、翌日の最終日に札所三十一番と三十二番を回る計画であったため、明日は最後の札所を残すのみとなった。感情的になるよりも、今は疲労困憊だ。彦根城を眺めながら湯に浸かることのできる大浴場。湯上りにフリードリンクとしてビールが飲めるシステムだ。遠慮などせず、最高の一杯を飲み干した。晩飯をどうするか。宿の横に蕎麦屋がある。豪快に再び肉を喰らうつもりでいたが、蕎麦屋が気になったので入店した。

近江牛すじの煮込みつけ蕎麦。
特製しじみの佃煮入りいなり寿司。
滋賀地酒大吟醸、松の司。
選んだメニューは、すべて大正解。戦の後の飯。最高の夜となった。

六月二十四日、最終日。西国巡礼結願、そして日本百観音巡礼結願の時を迎える。この日は、自身三十八回目の誕生日でもあった。そこに結願の日を設定したのだ。残す札所はひとつしかないため、ゆっくりと出発準備をした。午前十時前、岐阜県にある札所三十三番を目指し、出発した。

午前十一時半頃、札所三十三番華厳寺に到着した。味わいながら、そして噛みしめながら歩く参道。自然と涙がこぼれていた。人目も気にせず、感情の赴くままに歩き続け、勿体ぶるように写真撮影をしていると、本堂が見えてきた。いよいよ百回目の般若心経を読むときが来たのだ。

気がつくと、号泣していた。途方もない巡礼だと思っていた、八年前。自分の世界は狭い。その狭い行動範囲で、狭い思考回路で傷ついた、傷つけられたと自己愛に酔いしれていた、八年前。被害者意識のままバイクで向かった、秩父巡礼。そこから広がった、自分の世界。そこから辿り着いた、今日という日。この時に残した言葉を、一部変更して記しておく。

三十八回目の誕生日に万感の思いです。生まれてきたことを後悔したこと、命を絶とうとしたこともありました。秩父巡礼、坂東巡礼で自分と向き合って生まれ変わりたい。西国巡礼に出ることで、あの時のこと(秩父巡礼や坂東巡礼に出た時の気持ち)を忘れず、不惑を迎えたい。覚悟を決めて生きていきたいという思い。この日本百観音巡礼にかけた八年間という時間は、仕事に勉強に旅にと、充実に満ちていました。自分の誕生日は感謝を伝える日。毎年、先祖の墓参りと(心の師の名前)さんの墓参りに行っていましたが、今日はここから語りかけてみました。そして、自分と関わる大切な方々へ感謝の気持ちでいっぱいです。

 ありがとうございます。

 これからも、よろしくお願いします。

六月二十五日。秩父巡礼札所三十四番、日本百観音結願所、水潜寺。西国巡礼結願と日本百観音結願の報告を済ませた。「魂」に記した秩父巡礼、坂東巡礼、そして西国巡礼を経て、ひとつの旅物語が、今ここに完結した。

日本百観音巡礼結願。秩父、坂東、西国の御朱印帳。

第11章 2015年〜2016年「家族」

二○一五年、五月。西国巡礼第二弾直前のこと。前々から話が浮上していた、ある女性を紹介するという酒の席に呼ばれた。二○一四年ぐらいからあった話だ。前作「魂」にも書いた、失意のどん底にいた時期。二十代が終わろうとしている時の別れから、恋愛に対する積極性は薄れていた。時代を追って記してきたように、音楽で自己表現する創作活動に没頭し、たくさんの旅をして、興味のあった心理学を学び、自分の時間を満喫していた。そんな中、男としては如何なものかと、自問自答し、女性との出会いの場に顔を出すようにしていた時期もあった。交際に発展しても長くは続かなかった。三十代も後半となり、漠然とした不安…この先どうなるのかと考えた時に、自分は結婚するのか、子どもはできるのかという疑問を抱くようになっていた。

中野区に施設があった頃、今現在は退職されているが、当時勤務していたあるベテラン職員と話すことが多かった。その方も、波乱万丈な人生を送っている。以前は人間が違ったという。人として最悪であったと。その方が原因で離散した家族。すべてを失い、絶望の淵をさまよっていた。孤独な余生を送るのだと、覚悟を決めようとしていた矢先、あまり気が進まない飲み会の席に呼ばれたらしい。

「その隣に座っていたのが、今のカミさんなんだよね」

自分のことをあまり語らない職員さんであったが、俺には何故か教えを説くように色々なことを話してくれた。人生はわからないものだと。

「〇〇さんはね、今パートナーを必要としていないから独身なんだよ。もしも必要とするならば、必ず現れるよ。もしくは存在に気づくはず」

その方が言うと、なんだか説得力がある。
言葉が優しく染みてきた。そして、その言葉が現実のものとなる。

話を戻そう。とにかく紹介を受けることにした。紹介者と当人、自分の三人で酒を交わし、カラオケを歌い、後日飲みに行く約束をして解散した。そして、二人で初めて会った日。注文した一品目を、床に落としてしまうハプニングがあった。最初からカッコつける気などなかったが、この件をきっかけにリラックスできた気がした。二軒目の店で、自己開示をした。ほとんど知らない人に向かって、やるべきことではないのかもしれない。もうこの年齢でカッコつける気などなく、自分を大きく見せようとも思わない。むしろ小さい人間であること、自分の悪いところなら幾らでも語れること、良いところがもしあるとするならば、勝手に探してくれと伝えた。話をしてみると、人生で起こっているエピソードの種類や時期が、互いに酷似していることがわかった。そうなると一気に親近感が湧く。その勢いで、翌日ドライブへ行く約束をした。

湘南の海を眺めながら食事ができるレストラン。街が一望できる夜景。その日から交際が始まった。出会った日を含め、会うのは三回目。不思議な感覚だった。確信はないけれど、予感はしていた。今後、長く一緒にいるかもしれないと。

六月。西国巡礼最終章へ出た。誕生日でもある最終日。三十三番目の札所を目指すべく、ホテルをチェックアウトした。するとフロントスッタフから、メッセージを預かっているとの報告を受けた。封筒を開けるとFAXが一通入っていた。一気に感情が高ぶった。結願後、岐阜で一泊する予定であったが、彼女に会いたいと東京へ帰ったのだ。そういう意味でも、大切な一日となった。

その日を境に、距離は急激に縮まっていった。それと同時に、衝突することも多かった。俺には受け入れ難いことが幾つかあったのだ。ここで書くことはしない。自分が小さいと思えば、それで済むかもしれない。自分の感情を整理するには時間が必要。瞬発力で表現する言葉は、誤解を生みがちだ。だからと言って冷静に言葉を選んだつもりでも、感情的になることが多い。そう簡単には、大人になれないものだ。「言うこと」と「伝えること」は違う。理解できないならば感じてもらうしかない。傷つけられたから、やり返すのではない。何に傷ついたのか理解できないと言うならば、伝えるしかない。我慢しているだけでは、潰されてしまう。

七月。相棒のいる新潟長岡へ向かった。クルマのトランクには、旅行鞄とギターケース。定番となった、ウェルカムラーメンの青島食堂。腹を満たした後は、楽器屋で愛用しているアンプメーカーから新発売されたミニアンプを購入し、近所の公園でアウトドアセッションをした。緑を眺めながら弾くギター。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。夜になり、スーパー銭湯で語り合う。その瞬間に突如として生まれる感情や自覚している性格、ずっと変わらない価値観など、相棒の前では素直な自分をさらけ出せる。醜いと思う部分。カッコ悪い部分。そんなことを露天風呂に入りながら語る時間が、この数年は定番であり、自分にとって重要な時間なのだ。

翌日も、長岡の美食と美酒を満喫し、ギターを抱え、談笑した。自分の第二故郷としている長岡。この土地に来て相棒と過ごす時間は、自分らしくいるための癒しなのかもしれない。時には熱く、真面目に語り合うこともある。残念なくらい馬鹿話が尽きないこともある。自分の生活や環境に変化があったとしても、この場所と相棒との関係は変わらない。そうであってほしい。

ある日、長年お世話になっている方に、結婚した理由を聞いてみた。すると「別れる理由が無かったから」という返答があった。それを聞いた俺は、プロポーズしようと決心した。出会ってから三か月後の八月、俺達は婚約した。

直前に、彼女と二人で山梨へ旅に出た。以前、バイク一人旅をした山梨県にある萌木の村。そこに連れて行こうと思ったのだ。旅の主導権は握らず、移動手段は提案された各駅停車の旅を選んだ。美味しい料理と美味しい酒。この旅の最中にプロポーズすることも考えていたのだが、実行するのが難しいと判断して見送った。結果的には、その数日後に婚約したのだが。

婚約したが、結婚するという実感はなかった。どうなるのかもわからない。いつ入籍すれば良いのかも、何もわからないのが現実であった。そして、翌月。彼女は祖母を大事にしていることを以前から聞いていたこともあり、その祖母がいる九州へ旅することにした。そこに御両親も来るとのことから、挨拶する場にしようと決めたのだ。

九月。二人で九州へ向かった。御両親と両家の祖母、親戚の方に会う事ができた。事前情報が色々とあり緊張していたが、結果として結婚の話を切り出してもらうという、ありがたい場面もあった。優しく受け入れてもらい、本当に感謝している。その夜は、酔っているのと疲労とで朦朧としており、何を話したかの記憶はあまりない。食卓に並んだ料理の味さえ、大変失礼ながら憶えていない…。

十月。俺の地元にて。婚姻届の準備は万端だ。いつ提出するのか決めずにいたが、夜になって二人で区役所付近をウロウロした。数字、日付にこだわるべきか悩み続けたが、強引な語呂合わせを思いつき、今がいいんじゃないかと夜間窓口へ向かう決心をした。婚姻届は受理され、二人は夫婦になった。

結婚式は挙げない。そこで、結婚の報告をしたい人や感謝を伝えたい人の所へ、バイク行脚する結婚旅をするのが面白いのではないかと、妻に提案した。いつかやってみたいということになり、この件は温存することにした。結婚式は、花嫁が主役だと思う。その花嫁が特にこだわっていない。それでも、本心はわからない。いつか何かやりたいと、俺は頭の中で随時企画している。

新居探し。お互いの勤務地を考慮して、中間地点のエリアで検討した。不動産屋のおすすめで、場所だけ先に決まった。それが、東京都東村山市の久米川だ。商店街が複数あり、生活しやすいと評判が良い。実際に内見を含め、街を散策してみると物件よりも街を気に入ってしまったぐらいだ。都心にはない雰囲気。街は決まったが、物件には悩まされた。いくつか見てきたが決め手にかける。その最終判断を妻に任せた。俺は良いかもしれないと思っても妻が決定を出さなければ、その意見を重視した。優柔不断。妻は自分自身を優柔不断であると思っている。だが、生活の拠点という重大な選択を迫られた上での妻の判断は、正しいと思わせる何かがあった。そうやって決まった物件。すべてが良いわけではなかったが、妻の方が前向きな反応を示したのだ。

「築年数が自分と同い年だし」

何かを決める時の判断は、人それぞれ。これからその物件、そのマンションで二人は暮らしていく。十一月半ばからの契約であったが、新生活を始めたのは十二月からとなった。

妻は精神状態があまり良くなかった。この時の記憶はあまりない様子。前作や今作で書いているように、俺自身の精神状態や精神世界、複雑で屈折したアイデンティティの確立など、他者から見たら面倒臭い性格であることは一目瞭然である。そして妻もまた様々な葛藤、アイデンティティ、人生哲学など複雑な葛藤、心を持ち合わせている。言ってしまえば、メンタルが常時健全ではない。だからこそ互いに理解し合える部分と、相互協力できるのではないかという必要性を感じて、共に生活しているのだと思う。

俺が言うと怒られるかもしれないが、妻もまた面倒くさい人間なのだ。交際開始から結婚まで約五カ月。まだまだ未知の部分は多く、共にした時間は少ないかもしれない。それでも一緒に過ごした時間の中で感じたこと、見てきたもの。自分には何ができるのかを考え、動いてみて、悩み続けた。すべてを記録することはせず、抽象的な表現で書くしかないため、文章で想像させることが難しいのだが、とにかく色々あったのだ。短い時間の中で泣いて、笑って、怒って、伝えて、教えて…。他人の事はわからない。

でも、自分が経験した時間から言えること。愛と言うよりも、魂を込めて向き合った日々だ。そして、安易な言葉を使うならば、とても疲れた。自分勝手な表現をするならば、献身的な日々を過ごしたと思う。そこから今度は、一緒に生活をすることになったわけだ。

十二月は互いに、新しい環境に慣れることで精一杯であった。楽しいことは、特別なことではない。特別なことをしなければ、楽しいわけでもない。不慣れな生活だけれども、不慣れだからこそ楽しくもあり、謎であった夫婦生活というのを自分が行っているという、不思議な感覚を味わっていた。結婚した友人に聞いたことがある。当時、独身の俺は結婚願望がなかったため、他人と一緒に暮らすということが想像できなかったのだ。細かく教えてくれた友人には申し訳ないが、まったくピンとこなかった。

二○一六年一月。毎年行っている秩父巡礼札所二十三番音楽寺と、札所三十四番水潜寺へ妻と向かった。例年ならばクルマで行くのだが、久米川に在住していることもあり、電車で秩父へ行き、秩父でレンタカーを借りることにした。自分の大切な場所であることは、西国巡礼から帰った翌日に水潜寺へ連れて行った際に説明済みだ。一人で旅してきた巡礼。人生においては二人旅となったことを報告した。

二月。ある事で俺は不愉快になった。話をするのも嫌になってしまったのだ。数日間、まともに話もしなかった。妻の体調が悪くても、何とも思わなかった。そんな時、仕事以外の予定を入れないことが多い俺が、何故か連日予定が入っていた。妻以外の人達と話す機会が続き、仕方なく向き合うことができたのかもしれない。そんなある日、購入した自転車が納車されたと連絡があり、店へ取りに行った。その足で多摩湖へ自転車ツーリングをした。寒いながらも、久しぶりに笑い合った。そしてこの日、なんと子どもを授かっていることが判明した。

俺は父親になるのか。子どもを授かったことの喜びはあったが、それ以上に実感が無かった。毎週、産婦人科へ同行し、おなかの中の赤ちゃんを確認する。これがライフワークとなり、毎回楽しみでもあった。だがしばらくして妻の悪阻が始まり、見ているだけで辛い気持ちになった。本当によく耐えていたと思う。

二月の終わり頃、初めてインフルエンザに罹ってしまった。互いに実家へ帰り、隔離生活を送ったところ、母体への影響はなかった。インフルエンザそのものは辛くはなかったのだが、服薬も終わろうとしていた矢先、良性発作性頭位めまい症を患った。急にぐるぐると回りだし嘔吐した。どちらかと言うと、めまいの方が辛かった。職場は施設が閉鎖する時期で、中野区から豊島区の移転で多忙を極めていた。そんな中で足を引っ張る形となったが、休むしかなかった。

三月になり、約二週間休んで仕事復帰。すると今度は、妻の悪阻がひどく入院することになった。互いに満身創痍だ。そして施設移転が完了し、勤務地が豊島区となった。

四月。職場に迷惑を掛けていることは自覚しているが、以前から常に転職を意識しているのも事実。不満というべきなのか。恵まれていることもあると同時に、疑問に思うことも多々存在する。投げかけたり、発言してみたり、行動に移したこともある。しかし小さな規模の組織において、少数派でいることはとても無力なのだ。疑問を抱いたまま、消化不良で過ごす日々。この仕事に就く前から転職サイトに登録をしていて、現職を始めてからもチェックは続けていた。

数年に一度、転職活動を行うのが決定には至らない。だが久しぶりに、採用面接へ行くことになった。書類審査を通過して、面接に来てほしいと言われたのだ。場違いな程、今の仕事について熱く語った。嫌いではないのだ。外の世界が知りたい。そして今の職場で当たり前になっていること、常識的に捉えていることを疑っているのだ。絶対的になってはいけない。そう思っていた。採用面接に行きながら、カウンセリングを受けているような感覚。自分自身の整理整頓。やはり、この仕事をずっと続けていくつもりはないという気持ちが根付いていた。子どもが産まれるという変化に対して、安定を求めたい。それは妻も同じである。仕事を続けていく中で、自分に変化をもたらすしかないのか。結果として、不採用になったことは面接の段階でわかっていたことだが、仕事を続行することの覚悟はできていなかった。

妻の悪阻も随分と回復し、動けるようになってきた。仕事復帰することが決まり、緊張している様子であった。大きなおなかを抱えながら、職場へ向かう。彼女の闘いは、毎日一番近くで見ていた。共に涙を流した日もあった。無理はして欲しくなかったが、退職しようと決めていた仕事を、最後まで全うして欲しい気持ちもあったのだ。収入面で言えば、共働きでいる方が生活は安定する。しかし妻は結婚願望がずっとあり、自分の子どもを待ち望んで、自分の家族を持つことを夢見てきた。それが現実となりかけている。

独身時代から、そして俺と出会ってからも情緒不安定な状態で出勤して、過呼吸になってしまう程のプレッシャーと毎日闘っていた。退職時期は決めていたが、会社の都合や依頼も考慮して先延ばしにしていたのだ。断れない性格もあり、会社の都合にあわせてきたが、そろそろ決めてもいい頃だ。出産及び育児休暇も考えたが、退職する方針で話を進めていくことになった。それならばできるところまで、体調を優先しながらとは言え、やり尽くしてもらいたい。

一月下旬に話を戻す。御縁があり、前職の総務経理チームと飲むことになった。自分は違うチームに所属していたが、客観的かつ俯瞰的に事業所を観察しているチームで、ちょっと面白い印象があった。そのチームのグループ長は、退職して立ち去る最後の日に見送ってくれた唯一の方なのだ。誰にも会いたくなかった。だが、その方に見送られたことは救いであった。異動になった人、退社した人など現状はバラバラでも、顔を合わせれば昔話に花が咲く。このチームの話であれば胃を痛めることもない。そして今だから聞ける裏話も、このチームだからこそ。そんな宴の席で、退社して事業を立ち上げた方が、辞めた経緯と当時の直属上司について話を始めた。

当時、俺は反抗的と言うべきか、協力的ではなかったかもしれない。その上司が後から入社して、俺の仕事を否定したのだ。しばらくして直属の上司となり、俺が約一ヵ月間の外部研修から戻ると、勝手に管理システムを作り始めていた。まったくと言っていい程、コミュニケーションが取れていなかったのだ。飲みに行ったことなどない。スタッフであるアルバイト達とは頻繁に飲んでいた。そんな背景を話すと「○○(元上司の名前)さんは、体調を崩してしまったこと、辞めてしまったことを心配していたんだよ」と、言ったのだ。そんな事はあり得ないと思った。でも冷静に考えれば、不都合なことや嫌いなことには興味がないため、自分勝手に解釈しているだけなのかもしれないと思った。辞めた経緯は前作にも記したが、その上司のことなど俺は気にもしていなかった。だが、上司の方は気にしていたと言うのだ。その事実を知り、一席設けようかという提案を断る理由がなかった。今までならば会う理由はなかったが、自分の気持ちを素直に伝えたいと思えたことは大きな変化であると思う。

二月。その仲介してくれた元総務経理チームのメンバーと、別チームの社員、そして元上司と自分の四人で、酒を交わした。ゆっくりと当時のことを語り始めたところ、元上司は静かに頷き、何も言い返さず受け止めてくれた。ありがたかった。強がって虚勢を張り、素直に相談できなかった自分を曝け出すことで、今これからに目を向けることができる。過去は変えられないけれど、自分自身が過去を認めることで歩き出せる。十年掛かって、ようやく向き合えたこと。この場を設けてくれたこと、そして向かい合ってくれた元上司に感謝する。

再び話を戻す。時期は五月。妻が仕事に行き、俺は休日。結婚してもライダーでいることに、妻は理解がある。妻も中型自動二輪の免許を持っているのだ。そして、プロポーズした日、初めてバイクの後ろに乗せた。それ以来、妊娠発覚もあって自転車すら乗ることはないが、俺がバイクに乗ることを否定しなかった。バイクを売却しようかと考えたこともあったが、賛成も反対もせず、乗りたいのならば乗るべきだと言ってくれたのだ。

そんな背景もあり、久しぶりに一人でバイクに乗った。以前のように旅へ出ることもない。そのため、いきなり長距離というのは厳しいものがある。東名高速入口付近のスターバックスでコーヒーを飲みながら、一人思案していた。朝食を抜いて、昼飯処を探す。目的地は小田原だ。

走りなれた高速道路も久しぶりのため、とても新鮮だ。年々バイクに対する恐怖心が芽生え始め、バイクを降りることも考えていた。結婚して子どもができたとなると、事故を起こして怪我でもしたら悔やまれる。そんなことを考えながら、プロポーズ直前に自分の感情整理ができていないと思い立って、伊豆へ走りに行ったことを思い出していた。

前作にも、そして今作にも書いた、あのカッコいい御主人がいる伊豆の宿。そこへ向かう道中は、最悪の気分であった。このバイクをもう少し倒せば楽になるかもしれない。そこまでの精神状態であった。こんなバイク旅は初めてだ。そんな中で、やはり宿の御主人と奥様の存在は大きく、病んでいた心が少し癒されていくのがわかった。

そんなバイク旅を経て、今は東名道から圏央道に入り、西湘バイパスを目指して走っている。好きな場所へは何度でも行く。改めて、伊豆には行きたい。海が見え始め、小田原に辿り着いた。

店に入り、地魚丼を注文する。腹を満たし、約一年半前に行った箱根の日帰り温泉へ向かった。京都でもそうであったが、ここでも外国人観光客に話しかけられ、道案内をすることになった。英語が話せるわけではない。それでも、アメリカのホームコメディドラマをよく観たりしているせいか、今回はコミュニケーションが上手く取れたと自画自賛した。別れ際に「良い旅を!バイバイ!」と言い、その後に入った温泉は格別なものであった。湯上りはラムネで喉を潤し、途中お土産を購入して、帰りの高速道路サービスエリアでは、再びスターバックスでフラペチーノを堪能。美食、温泉という不変の王道コンセプト旅。たまには旅へ出るべきだ。日帰りでもいい。許される限り、一人旅の時間は必要だと思う。

二日後、安産祈願のため川越へ行くことにした。まず神社で目的を果たし、食べ歩きという名の散策をした。たくさん歩くのは妊婦にとっても良いことらしい。

交際を開始してから丸一年。その日、産婦人科の定期健診で子どもは娘であることがわかった。何となくだが、男の子ではないかと夫婦で予想していたことから、少し動揺してしまった。そのまま公園へピクニックに出掛け、一周年を祝いながら名前を考えたりした。不思議な感覚だ。女の子の父親になるのか。相変わらず実感はない。

数日後には、鎌倉へ出掛けた。鎌倉は楽しかった。江の島は…。これは夫婦二人の話。おなかにいる娘にも、二人のやり取りは聞こえていたのかもしれない。妻の動揺が伝わっていたかもしれないという方が、より現実的か。行きと帰りで、口数が全く異なる日帰り小旅行であった。

五月は、心の師が旅立った月。命日に墓参りはしないのがポリシーであったが、妻とおなかの子どもを墓前で紹介した。結婚しろってずっと言っていたから、少しは安心してくれたかな。

六月。三十九回目の誕生日を迎えた。西国巡礼結願から一年。あっという間だ。この一年で環境が大きく変わった。妻とおなかの子ども、久米川のマンション。そこで迎える誕生日。妻は悪阻、俺はインフルエンザとめまいを発症してしまった時期に、大好きなギタリスト「Ken yokoyama」の武道館ライブのチケットを持っていたのだが、そんな背景もあり行くことができなかった。そのライブDVDが発売され、誕生日にプレゼントしてくれた。そして観賞会を開くにあたり、大好きなアップルパイとスターバックスのコーヒーも用意してくれた。パンクロックな妻に感謝している。その後、久米川エリアで有名な焼肉屋へ向かった。物件探しをしている頃、とある不動産屋が久米川を勧めてくれた際に教えてくれた焼肉屋。その店の付近に、系列の精肉店もある。そこでは何度か買い物をした。誕生日のランチに焼肉とは贅沢だ。たっぷりと肉を堪能し、昼間からビールを味わった。リクエストを聞かれ、サントリーウィスキー知多を呑みながら手料理が食べたいと希望した。日常生活と大きく差がないため、それでいいのかと問われたが、なるべく普段通りに過ごしたいと伝えた。今まで一人旅で満喫してきた美食。リーズナブルでコストパフォーマンスの高いものもあれば、それなりの金額を払って食べたものもあった。旅食も良いが、家族食という贅沢を味わいたい。誕生日に妻の手料理を食べる。旨い酒が呑める。こんな贅沢は他にない。旅では味わえないことだ。毎年、家族に感謝する日として過ごしてきたが、今回は不惑を目前に、最高の贅沢を味わえた一日となった。

七月末。妻が退職する日。その雄姿を見届けに、いや出迎えに行った。仕事の悩みも色々あったけれど、たくさんのお客様と温かなスタッフ達の笑顔に励まされてきたと、よく話をしてくれていた。その出会いを物語るように、たくさんのメッセージとプレゼントをいただいた様で、帰宅後に並べて眺めている後ろ姿をしばらく見つめていた。号泣している。プレゼントも嬉しいが、心遣いに感動していた。これだけたくさんのメッセージをいただいたということは、素敵な人達と仕事をしていたということ。そして、その出会いを大切にしていたのだということ。あれだけ辛い思いをしていたのは、それだけ責任を感じていた。闘っていたことも、愛されていることも、すべてにおいて尊敬する。心を込めて「おつかれさま」と、最大級の賛辞を贈った。

八月。横山健のシグネチャーモデル「グレッチ ケニーファルコンジュニア」を購入した。グレッチギターへの憧れ、横山氏のモデルが発売されたという興奮。欲しいなぁと思っていたが、ついに我慢できず買ってしまったのだ。愛用していたギター二本と機材を下取り。実家に帰り、アンプにつないで弾きまくる。少年時代に戻った気分だ。

九月。結婚式を挙げないことで計画していた行脚も、妊娠が発覚したことで中止というか保留にするしかなかった。そこで、ウエディングフォトやマタニティフォトを記念に撮影するのはどうかという話になった。都心にあるスタジオでは落ち着かないし、何より二人らしくない。そこで、最寄り駅沿線にあるスタジオを探してみたところ、素敵な写真館を発見することができた。

撮影当日、主役はガチガチに緊張していた。そこはプロのカメラマンとスタッフ達。撮影は和やかに進行し、終盤はリラックスして楽しんでいる様子であった。

翌週、恒例の長岡へ。妻とお義母さんに許可をもらい、単身クルマで向かった。出産直前の妊婦をおいて、一人旅する。こればかりは理解してもらうしかない。理解されなければ、諦めてもらうしかないのだ。快く送り出してくれた家族に感謝している。買ったばかりのグレッチと、去年長岡で購入したミニアンプ。合流して早速弾いてもらった。翌日もギターセッション。胎教として、妻のおなかに向かって流している布袋氏のギターインスト曲を演奏し、それをスマートフォンで撮影した。相棒が伴奏するリッケンバッカーと、甘いトーンを奏でるグレッチ。東京にいる妻へ、動画を送信した。こういう遊びを教えてもらったのも相棒からだ。ギターを弾く以外は、青島食堂のラーメン、小嶋屋のへぎそば、美味しい居酒屋、団子屋、バッティングセンター。毎年恒例、どれも楽しみにしているイベント。そして、風呂に入りながら熱く語る。あっという間の三日間であった。

十月。妊婦は歩いて運動しないと、安産というか、子どもがスルッと出てこないらしい。近場の散歩や、電車を使って休みに出掛ける機会を増やした。久米川の街を満喫しながら、その日を二人で待っていた。上旬、先日の写真館へ作品を受け取りに行き、帰りに途中下車をして公園に立ち寄った。

スーパーで買った惣菜などを広げ、ちょっとしたピクニックを開始。小学生の子ども達が遊んでいる中に混じって、明らかに歳の離れたチビッ子がヨチヨチ楽しそうにはしゃいでいる姿を見て、思わず微笑んでしまった。子どもに目が行くようになったのも、不思議な感覚だ。すると、横山健が所属しているハイスタンダードの新譜が、予告なしで本日発売されたという情報が入ってきた。ピクニックの帰り道にCD屋へ寄り、無事に買うことができた。

タイトル「ANOTHER STARTING LINE」

歌詞の世界観は、復活を遂げたハイスタンダードからファンへ発信したもの。このタイミングで発信される言葉達に、自分の人生を投影せずにはいられなかった。もう一つのスタートライン。

入籍した日、結婚記念日。おなかの中にいる娘に向かって、その日に出てきなよと話しかけていたら、なんと気の利く娘は言われた通りに誕生したのであった。

立ち会い出産。妻の闘いを今まで間近で見てきた。そして、夢でもあった出産という大きな舞台、大きな闘いに立ち会った。男は無力だ。ずっとそう思ってきた。そして出産に立ち会ったことで、その思いは確信に変わった。女は強い。そして、尊い。その日、帰宅した俺はノートを広げ、感情の赴くままに言葉を綴った。一部変更して、記しておく。

(妻の名前)と俺の娘、(娘の名前)が産まれた。

出産後、一度久米川宅へ戻って午後に面会へ行き、再び久米川宅で一人。(病院の名前)のファイルを開いて、(妻)が一生懸命に胎内の成長と母体の変化を記録して、メモを取り、期待以上に不安と闘っていたのかと思うと、涙が止まらない。(妻)にも言ったけれど、(娘)が産まれた喜びは大きい。けれども、(妻)が元気でいること、その存在が本当に大切なんだと改めて気づき、感動して涙している。よく闘った。その闘いに負けてしまったようで悔しいと、(妻)は涙していた。俺は身勝手に、それでもいいと言った。完璧でいる必要はない。それ以上に、(妻)が無事でいてくれることが、そこにいることが嬉しくて、何よりありがたい。大切な家族。ありがとう。

縁起でもない話だが、本当にずっと一緒にいたいけれど、万が一、俺がいなくなるような事になっても、俺は(妻)と(娘)の幸せを願っている。無論、この手で生きて幸せを感じることが俺の願い、すべて。命が誕生したように、命が消えてしまうのも、この世の決まり。生きて、生きて、生きて、生きて、この命尽きるまで、俺は家族を守る。一番大切な二人。結婚記念日、(娘)の誕生日に誓う。

それからの毎日は新鮮であったが、日々格闘していた。睡眠不足は、俺よりも妻の方が大変だ。不規則な出勤時間や宿直夜勤がある俺は疲労を自覚して、休みは回復に努めたつもりであった。

自宅に帰れば、家族がいる。仕事の合間や外出先で子どもの写真を眺め、元気をもらう。少しぐらい疲れていても、大丈夫。そう思っていた。休日も回復できていないこと。自分の時間が確保できていないこと。仕事とプライベートのストレス解放ができていないこと。その時は気づけていない。今だからわかること。

俺は「父親」になったのだ。昔とは違う。もう今は大丈夫。十年前とは違うのだという過信。その後は序章、そして第一章の内容へと続いていく。


第12章 2017年5月

この章では、第4章の続きを記していこうと思う。

実家のリフォームを行い、妻と娘も一緒に引っ越して住む計画を立てた。今の時代は核家族化が進み、親と別居は当たり前だ。ところが妻は、二世帯同居案を受け入れてくれた。実家には母親と伯母がいる。両者とも未婚。独身という人生を選択したことで、嫁姑のような人間関係を嫌う。妻が嫁になってくれたことを感謝していた。かなり特殊な家庭であることは、妻にも説明をした。

リフォーム完了後には、頻繁に実家へ泊まるようにしていた。引っ越す前に、我が家の雰囲気を肌で感じてもらいたい。二世帯同居の話をすると、十中八九「奥さんが大変だ」という意見が返ってくる。もちろん、その通り。どう感じるかは当人の気持ち。だが、一般的な家庭環境や家族構成ではないこと、家族たる者とか、嫁と言うのはとか、そういったものは皆無であることを感じてもらい、そして俺達夫婦が精神的に問題を抱えている時期があり、お互いの家族を大事に思うこと、娘の世話や自分達の時間を作ることを考えると、メリットが多いと思ったのだ。

久米川での生活が終わる。カウントダウンが始まったことで、妻はセンチメンタルになり始めた。契約満期まで住むことも考えたが、娘のことや育児休暇の期限も加味すると、時期としては六月が妥当な判断である。そして少しずつ荷物を移動しながら事前に過ごしてみることで、精神的にも物理的にもスムーズに移行できるよう配慮した。久米川での生活にも愛着はある。地元に似ていて、住みやすい。だがストレス負荷が強まる空間でもある。特に娘が産まれてから、この環境は辛い。いろいろなことが近すぎる。そして、逃げ場がないのだ。実家に引っ越してからは、妻の逃げ場を用意しなければならない。懸念されるのは、娘が成長していくと父親である自分自身の居場所や、逃げ場がなくなるのではないかということ。そこで、自分の部屋となる書斎、寝床付きの衣裳兼物置部屋を確保した。将来的には娘に追い出されることになるであろう。

そんな中、前作「魂」の推敲や校正を行い、ようやく完成したものをインターネットで製本注文した。自主出版するつもりはない。ただ音楽の創作活動と同じようにパッケージングすることで、完成の意味が大きくなる気がしたのだ。

自分のために書いた文章。それを読んでもらいたい人がいる。読みたいと言う人がいる。そして何より自分で書いた文章に自分が救われたことで、この先にも同じようなことが起こる可能性があるとするならば、新作を書いて製本しておく必要があると思ったのだ。自分のために。家族のために。大切な人のために。

完成された前作を読んでみたが、誤字脱字や読みにくい文章があることに気がついた。再び推敲と校正をしなければならない。それでも、形になったのは嬉しいことだ。その第一版を受けて、いよいよ今作の文章を書き始めることにした。


第13章 2017年6月

久米川の景色をできるだけ見ておこうと、積極的に外出した。悲しみではなく、楽しかったものにしたい。そして、いつでも来ることのできる場所にしたかった。昨年も行った東村山菖蒲まつりへ、家族で出掛けた。ベビーカーを押しながらもう一年が経過したのかと、時間の流れを感じながら歩いた。有名な観光ポイントに、今更ながら行ってみたりもした。家族で歩き、一人で自転車に乗りながら、この街の景色を写真に収めていった。

引っ越しの準備を始めると、いよいよだなと感じるものだ。クルマに積載できる限り、事前に運べるものは移動させた。妻がセンチメンタルになっている頃、俺は無事に終わらせたいという、心配な気持ちが勝っていた。

そんな中、四十回目の誕生日を迎えることができた。引っ越しを直前に控え、ひと足先に実家へ移動していた。自分の家族達に囲まれて過ごしたいと、物欲や食欲のリクエストはせず、環境のリクエストだけ行ったのだ。すると、妻から手作り写真アルバムをプレゼントしてもらった。二人が出会ってから、結婚して、娘が産まれて、今に至るストーリーになっている。どうやら、この文章を書いている作業を見て、ヒントを得たようだ。どんなものでも手作りというのは本当にありがたい。心に響くものだ。昨年の誕生日もそうだが、特別なことや特別なものはいらない。家族の存在が特別なのであり、それは昔も今も、これからも変わらないこと。そんな大切な家族達に、花を一輪ずつ贈った。もちろん、まだ小さな娘にも。

退去立会日。荷物が無くなった部屋を見て、内見に来た日のことを思い出した。この街に来てから、いや妻と出会ってから、激動の時間を過ごしてきた。短い期間で色々な出来事が起き、色々な感情が生まれた。そして、この街に引っ越してきてからも泣いて、笑って、怒ってと喜怒哀楽の激しい生活を送った。二人の生活、三人になってからの生活。思い出が詰まった部屋…。

ありがとう、久米川。
妻の言葉、フレーズが気に入ったので、原文のまま記しておく。

 ひとりになる決意を胸に始めたひとり暮らしは、

 旦那さまと出会い…ふたり(夫婦)になって引っ越し。

 ふたりで始めたこの街での暮らしは、

 我が子が産まれて…三人(家族)になって引っ越し。

 たくさんの想い出を胸に、もっとたくさんの想い出をつくる街へ。

 自分と同い年のちょっとだけクセのあるマンション。

 一年七ヵ月ありがとうございました。

あの頃、十年前にもがき苦しんでいた自分自身が、十年後の未来を想像することができたか。想像ではなく、創造していくこと。想像から生まれる、創造という名の人生。その道は、未知である。振り返ると、実際にそう思う。

グレゴリージェンキンスブランカという、正体不明の作家。
その人の言葉が胸に響いたので、ここに記しておく。

「今」は

過去の自分が想いを馳せ

期待しながら

不安を抱えながら

決断と行動を重ねて重ねて

やっと作り出した航路を進み

辿り着いた「未来」である。

文章を書いて、自分自身の人生を整理整頓しながら、不惑を迎えるという現実と向き合い、未来を描けるかどうかを探り続けていた時間。このタイミングで、このような素敵な言葉と出会えたことにも、不思議な「流れ」や「縁」を感じずにはいられない。


第14章 「父親」

前作の第十一章で、自分の父親について触れてみた。父親の存在。それは俺自身にとって、大きな人生テーマのひとつだ。それを十年前に書き記したが、書いたことによる解決は、何ひとつしていない。

それでも再び父親について書いてみようと思う。前作では存在の確認がしたいという、安否ではなく、この世に存在した証拠が欲しいという感情を記した。感動の対面などいらない。どこかで期待していたのかもしれないが、何の思い入れもない人に対して、感動も何もない。

ある日突然、父親と最後に結婚していたという女性から連絡が来た。そして、父親が亡くなったという知らせを受けた。生きていた過程を知ることもなく、死亡したという知らせが届いたのだ。権利だからと、財産を受け取ることを勧められた。断った。権利があることすら、受け入れたくなかった。だが、そのことを強く反対され、仕方なくその女性と会うことになった。

待ち合わせの場所へ向かい、合流して喫茶店に入ると、一枚の写真を提示した。どうやら、そこに写っているのが父親のようだ。そして、晩年の父親について話し始めた。哀れな人間だと思った。都内にある、老舗和菓子屋の御曹司。最期は実家に逃げ込んだらしい。その女性も看取ることはできなかった様子。葬儀、納骨、墓参り、すべて拒否されたとのこと。日本のどこかに、母親違いの兄弟がいる。その兄か弟か姉か妹かもわからない兄弟が、いつか会ってみたいと言っているらしい。自分はそう思わない。父親に対して何の情もないのだから、家族でも何でもない人間に会いたいとは思わない。戸籍上、認知したとされているだけの男。自分の前には姿を見せなかった、父親に該当する人間。

書類手続きが非常に面倒で、何度も訂正を要求された。自分は放棄したいと言っているのにも関わらず、財産を取りに来たと思われているのも不愉快であった。金の大小を語りたくはないが、自分でもすぐに稼げる「遺産」が手元にやってきた。その金を握りしめパチンコ屋に走り、すぐに消費した。こんな反抗しかできない、当時の自分が情けなかった。

それ以来、その女性とは連絡を取っていない。もう関係のないことだ。存在の確認はできた。そして、死亡したという事実を、手に入れることができたのだ。母親から、話の流れで父親の性格について聞くことが稀にある。どうやら、俺に似ているらしい。ということは自分自身が考えること、感じることを通じて、どういう人間であったかを想像することができる。その想像を母親に伝えてみると、その通りかもしれないという返答があった。逃げ続けた人生。気が弱いのに、矢面に立ち、そして風上に向かわされる。言葉を扱う仕事をしていたようだが、その気配は何もない。俺の父親は、少なからずとも母親の中に生きている。美談ではなく、現実の話をしているだけである。

世の中には、こんな言葉がある。「最大の復讐は、許すことだ」と。久米川の心療内科で精神科医に言われた「許す」ということ。自分に対して、妻に対して、母親に対して、そして、父親を許す必要があるのかもしれない。受け入れようと思っていたが、受け入れる必要がないことも世の中にはある。そして、それに気づかせてくれたのは、自分にとって大切な人達だ。

父親の存在がなければ、今現在の自分は存在しない。そして、妻や娘にも出会うことはなかった。俺の両親は、自分の人生という物語に、解答が困難な難題を添える演出をした。結果論ではある。そんなつもりはなかったのかもしれない。無責任というか、想定外であったのかもしれない。環境に恵まれていれば解決することではない。自分がどう生きるかを常識的に考えても、息苦しさを感じてしまう現実を突き付けられたのだ。でもそれは、他者にはない物語。人それぞれ生き方が違うように、俺だけにしか味わえない、俺だけの物語なのだ。病的と言われる程、徹底的に考えて向き合う。生産的ではない破壊的な行動かもしれない。俺は、父親と違う人間なのだと立ち向かっていく。逃げるということに敏感になる。やはり、父親の存在は肯定しなければ成立しないが、父親の生き様は否定したい。

「自分の父親」がいなかったから「自分が父親」になることを恐れていた。それこそ逃げていたのだと思う。「自分の父親」みたいになってしまう。自分の子どもと向き合わない「自分の父親」みたいになってしまうと。そんな気持ちを整理する時間や、自分自身と向き合う余裕などないまま、俺は父親になってしまった。誤解を恐れずに言えば、なりたくなかった「父親」になってしまったのだ。

自分なりの父親になれば良いじゃないか。そう言えば簡単かもしれないが、問題の解答を教えられても、その過程や意味を理解できなければ、自分の解答として成立しない。精神科医の言う通り、問題を複雑化して、生活を破綻させてまで追求する必要はない。これは自分自身で解釈して、納得しなければいけないこと。いつまでも歩き出せないことなのだ。

「自分の父親」と「自分が父親」というのは、確かに別である。言葉では上手く説明できないのだが、自分には重なってしまうことなのだ。その重なってしまう「父親」を分離できれば、もしかすると少しは気持ちが楽になるかもしれない。娘には同じような思いをさせたくない。そこで、父親のことを知っておきたいと思った時に、この文章作品を「再生」してもらいたい。

俺は、自分の父親を知ることができなかった。だが娘には、自分の父親のことを知ってもらいたい。いつか反抗期が来る。父親と一緒に居たくない時期が来る。それでもいつか娘が親になった時や、俺が死んで何年も経って、急に興味が出た時でもいい。この文章を読み、俺という人間が何を考え、何を思っていたのかを感じてもらいたい。そして、自分の父親に対する葛藤、自分が父親になる葛藤を続けながらも、娘に対する想いは絶対的であることが伝わるようにと、強く願っている。


第15章 「再生」

この執筆作業における、終着点に向かうとしよう。何処に向かって行くのかわからないまま書き始め、書き終わろうとしている今も行き先は不明だ。人生は何処に向かって行くかわからない。地図を手にしたところで、迷子になるものだ。だが、それで辿り着いた場所、人、環境をどう捉えるか。そんな事の繰り返しで、少しずつ進んできた。およその方角に向かい、歩き出せるかどうか。十年前は何も決めていなかったし、地図さえなかった。そこから辿り着いた今を見てみよう。この先に対する不安は、十年前も十年後も、きっと変わらない。

究極の青を追い求めて。抽象的な表現で人生のテーマを決めた。青こそが自分自身を表現できるものであり、同時に追求していくものでもある。その思いに変わりはないが、もっと現実的な部分を考え始めている。芸術的な観点の追求を止めてしまうことは、逃避していることになるのであろうか。

谷川俊太郎の詩。青について書かれたものだ。ここに残しておきたい。
俺が、青を言葉で表現したかったことのすべてが、この作品には存在している。

どんなに深く憧れ、

どんなに強く求めても、

青を手にすることはできない。

すくえば海は淡く濁った塩水に変り、

近づけば空はどこまでも透き通る。

人魂もまた青く燃え上がるのではなかったか。

青は遠い色。

自作曲「BLUE BEAT」を追求していくことが、自分にとっては大切なのかもしれない。永遠に未完成の絵画と同じだ。誰が何と言おうと自分のために書いた曲なのだから、生き続ける限り向き合う理由がある。青という色を音で表現するというライフワーク。完成した時には、充実感から気持ちの「一時停止」ボタンを押したと記したが、どうやら「再生」ボタンを押すことになりそうだ。俺が青い世界に行きたいと思った時、音楽を「再生」しているのと同じように…。

西国巡礼を経て、日本百観音巡礼を結願した。次に考えているのが、四国八十八箇所遍路だ。いつか遍路旅に出ようと思っている。娘が産まれ、自分のタイミングで旅に出ることは難しくなったが、この遍路旅とアメリカのルート66をハーレーで横断することは実現したい旅であり、目標なのだ。夢。その言葉をあまり使ってこなかったが、不惑を迎えて、人生の時間も限りがあることに現実味を帯びてきた今だからこそ、目標から夢へとしたい。その夢は大きくなくていい。自分にとって大切なものであればいいのだ。

仕事について、これからも悩み続けるであろう。自分にとって、仕事がすべてではない。仕事が第一でもない。生活をするために必要なことではある。自分が成長するために必要なことでもある。今一度、原点に立ち返ってみよう。係長から教わったこと。復帰へ向けた気持ち作りは、まだ不十分だ。もう少しだけ、許された時間の中で自分ができること、やりたいことに取り組み、自信を持って復帰したい。それから先のことは「流れ」の中で見つけていこうと思う。

前作を書き終えた後、相棒との創作活動が始まった。そして今作を書き終えた後にも、再び創作活動をする予定だ。自分を表現できる場所があり、それを理解し共有できる人がいるというのは、本当にありがたいこと。音楽も執筆も作品を残すことができる。前述したが、いつか前作と今作の文章作品を娘に読んでもらいたい。

自分という人間が存在した証。自己表現。自己探求。創作も人生も、未だ完成されていない。これからも不安はつきまとう。何も変わらない。この文章を書きながら人生を振り返り、自分の「魂」を「再生」したことで、自分自身と向き合うことができた。次の十年に向かって、再び歩き出すことにしよう。そして十年後、きっと俺は文章を書き、音楽で自分を表現しているはずだ。

「This is my TRUE STORY.」

「これが俺の人生だ。」

四十歳…俺は新たな旅に出た。

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