自由であること - 時代の空気。
持続可能な社会の実現にむけて避けてとおれない物理的なものと、持続可能な社会の実現にむけて避けてとおれない精神的なものと、自由と平和を根底にサステナブルな未来を目指す為のあれこれつらつらと綴ります。
今、僕の思う最後の砦は「何人も自由であること」である。
最後の砦、と書いちゃったけど、これを取り上げられたら今ある小さな幸せすらも無くなるってことで、これをちゃんと自覚してないといけないなと心底思っている。
で、強く意識した方が良いと思うことは、我々大人は、あらゆるものこから、次の世代の「自由であること」を奪わせるべきではないということ。というか絶対に奪わせてはいけないということ。その責任があると思う。
僕は昭和に生まれて、言いたいこと、やりたいことを自由にやってきた。親の忠告、友達や上司の厳しい言葉以外は、特に制約を受けずに生きてきた。つまり民主主義が民主主義として普通に機能していた。そして、それは愛のある考え方で、それが普通に自分以外の人の自分に対する姿勢だったし、自分の他人に対する姿勢だった。ある意味、いい時代だったんだね昭和は。しかし平成からそのムードは少しずつ変わってきたように思う。
ここに来て、それがとても素晴らしいことだったと再認識、再確認しないといけない切羽詰まった感じになっているように感じてならない。
もしも、あなたの孫や、あなたの子どもや、妻や夫や、恋人や、会社の同僚や、ほんとに身近な人の自由が奪われ、何かしらの制約を受けたら、それはとても悲しいことじゃないですか? そしてそういうことが確定してしまった瞬間、社会の成長はそこでパタッと止まるんじゃないかと思う。
成長が止まるっていうことは、発展も無いということで、すべてが画一化し、美しい絵も、ココロうつ写真も、思慮深い小説も、カラダ躍らせる音楽も、新しい技術も、夢のある科学も、人を思い遣る気持ちすらも生まれなくなってしまうんじゃないかと思う。
いま、そんなことを、痛切に、思い感じている。自由であることについて、時代の空気はどうだろう? 空気を読む、今はそれが必要な気がしてならない。正直、「空気なんてよむなシラケる」と言えたのは昭和で終わった。
大人は次世代の自由を守る。若い人は自らの自由を自ら守る努力をする。これからの時代は、自分たちの自由を守るために、大人も若い人も、空気を読んで読んで読み倒してもらいたいと思う。
そして、空気を読んで風を見つける。乗ってはいけない風と乗って良い風とを肌で感じることが大切と思う。ヒトにはまだ自然治癒能力というか、動物的な勘みたいなものが宿っていると信じたい。
明日はどこだ。明日はどっちだ。自由であることは、かけがえのないこと。自由であるために思考して欲しい。持続可能な社会のために。
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