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辺境イスラムの文化人類学調査に着手

某民族の共同研究にさそっていただいた。


うれしい。

はっきりいって超うれしい。


しかし、これまであつかったことのない民族(文献を読んできた蓄積がない)。いや宗教はイスラムなんですけれども(だから誘われた。)

某たいへんな端っこの地の民族のことなので、これまでパキスタンの風呂もない、電気もあまり来ない、電話(国内)の電波もほぼとどかない(家の上部のいっかくにだけ届くので、かけるひとはそこからかけられるが受信はできない)山中に1年近く住んで、しっかり帰ってきた窮乏への耐久力が評価されての抜擢らしい(しかもすぐ長期でいけるというすっとこどっこい)。


しかしウイグルもそうなんだが、国のはじっこの民族というのは大国の舵取りにおいて、その民族のまんまんなかを国境でぶった切られたりしやすい。言語も文化もほぼ同じかつ親族さえ相互にいたりするのに、行き来もほぼできない対立が構成されていたりする。


しかもその民族を含むひとつの国はイスラム嫌いの国で、「イスラムの研究をします♪」などとのんきにいおうものなら調査許可がおりないともいう。


ううむ。


どのように研究したらよいのだろう。

   

イスラムはイスラムなのだが、その言語の民族の大多数は違う宗教である。

かれらのその一部がイスラムだっていうことって、文化人類学的にみたらどういうことなん、というのがわたしの担当する問いなのである。

共同研究は歴史学班と言語学班と文化人類学班の共同である。

まあ歴史学というのは文献で対象を追うものなので、集団における大義名分の推移や、王さまなどの代表者の文言などといったものを扱うことが主になる。

そこでは女性の生活や、家畜のあつかいかた、家庭の食事やそこでの会話、つきあい、世帯の暮らしにおける宗教のみえかたなどといったものはあまりみえてこない。


そこがわたしのもっとも関心のある領域なので、まあバランスがとれているというべきか。


ところで、巨視的にいうが、イスラムがその民族に伝播したときに、ほぼ全民族的にイスラムへの改宗がなった民族と、その一部だけが改宗することになった民族がいる(中国の回族[フイズー]とか(漢民族の一部))。

それって相互に一緒にあつかうべき?それとも区別すべき?というのを一度自分の目でじかに確認してみたかった。

わたしはウイグル(テュルク系)からペルシア(インド・ヨーロッパ系)、アラブ(アフロ・アジア系)といった西の民族に惚れこんでいる(日本をでないでいたとしたら、一生お目にかかれないような距離感のつきあい、宗教というものを目にすることができるという意味で)が、そうした乾燥地の民族ではない場合、それでも「イスラム教徒」という人々には同じような宗教感を感じることができるのか、それとも違うのか、ということを一度どこかで言語化してみたいと思っていたのだ。

ううむ…行くとしたら東南アジアかな?でもなぁ、嫌いというわけじゃないんだけど、肌にあわないんだよなぁ(タイ飯は好き)。

血がたぎらないというか(迷惑)。

余談だが、中国好きの人間のあいだでは、雲南などの南好きは南にしかいかないが、
新疆などの乾燥地好きは、徹底して乾燥地にしか行かない(当然だがわたしは後者。一度だけ昆明、大理に経験値的にいってみたことがあるが、中国にいるのにたぎらない自分の血にからだがびっくりしっぱなしだった(笑))。


そこを、一生に一回だけだ!!(まだやる気なんか…)とぐぃぃとまげてここなのである。


一度、イスラム研究といっても文句をいわれない国のほうで、当該の民族と会った。

きつい。

うぉぉきついな。なんか「よくそんなに他人なんかと家で一緒にいられるね!」というあのウイグルに感じた「変(ぐにゃり)」感(ヒエラルキーと既存の秩序がない感)がない。


チャンスがあって、「イスラム嫌い」の国のほうも見にいくことができた。


きついきついきつい。なんでそんな目でみるん。「お前邪魔」感をひしひしと感じる、え、これあのなじみ深い日本感じゃね。


イスラム感も別格である。


いや礼拝はしてるし女性はかぶりものもかぶってる。
メッカに行っている人もおられるみたいだし(記念写真を方々でみる)、イスラムっちゃイスラムなんだろうけど、


たとえば某所で、人々が急に歌のようなものをうたいはじめたので、何かと聞くと「ここにはアッラーがいると感じられるので敬意をはらった」とかいわれたりして、そ、そ、それは大多数のひとたちのほうの宗教の考えかたでアッラーを理解していry


ああやっぱりイスラムというのは「あれ」のことじゃないんじゃないか(まだ仮説)。
信じるということは「あれ」を伝えられるということじゃなかったんだ。ていうか「あれ」(わたしも「わかる(仮説)」まで6~7年はかかった)が体感できてなくとも、あの大きさの神を実感できてなくとも、あの孤独感(2人きり感ともいう)をしらなくてもイスラム教徒でいいの?(日本の事例しかみたことがなかった)


うぉぉぉい(個人的悩み)。


現地ではかれらは大多数の宗教のひとびとのほうに「イスラム教徒の連中はおれたちとは飯をくわないんだ」といわれていた。


対立の旗印になったっていうことなのかなぁ(歴史学的視点もちょっと深めないと[→当方歴史学者のできそこない]。余談だが、イスラムの宗派の違いも民族的違いの見出しに近いのでは、と思うところがある。)

きつい。


きついけどすごいおもしろい(筋力のいる面白さ)。


肉体的にはすごいきつい(「邪魔者」感にたえながら、すすめる手順をつねに再構築しつづけるところというか、まあ飯食えばなおる程度のはなし[カリオストロ])。


耐えてすすむぜこの先にあるのは何だ。


自分の想像をこえた、ほぼ研究(文化人類学的長期調査というのは、しんどいのでまああまりされることではない)されていない民族のイスラム。



ちょっともうちょっと留学とかして人脈を地道にひろげながらやれたらとか思うのだが、それをしたら3年とかじゃすまなくなってしまう(いったいいつ定職に…)。

ちょっと運もたのみながら、もう少し深めてみます(方々に手伝ってもらいながら、まだ場所をさがしている)。



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