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海外にでたウイグル族は

ウイグルというとそっちの情報が多い(察して)。
ていうか日本にいてると本当にそっちの話題しか転がってこない。



けれども、実際にウイグル族と一緒に長い時間をすごしてきたわたしには、その前に考えるべきこともあるのではないかと思われたこともあったため、中国という環境でかれらがどうすごしていたか、それをわたしがどうみていたのかを少し書いてみたい。

わたしもかれらと中国とのかかわりについてはいろいろ見聞きした。
民族語教育と漢語教育とがえらべるが、民族語教育(ウイグル語で授業をうける)のほうをえらぶと進学先が制限されるから漢語のほうを選んだとか(「双語」というのもあった)。
大学では礼拝や、モスク訪問、断食は禁止であるとか(学生間で密告される。断食明けの水と軽食をとる仕草などは、みる人がみるとわかってしまうらしい)
長いスカートやスカーフの着用も禁止で、女の子たちはみなジーパンをはいていた、とか。

カシュガルにいたころには、伝統的な建築がたちならぶ地区での強制立ち退き×取り壊し等にも遭遇した。



だがひとりひとりのつきあいはそれぞれで、大学生だと「漢民族の学生のなかにもいい子がいる」とか「この先生は漢民族でもいい先生だ」とかいうウイグル族の人の姿もまた当然あった。

しかしそういったことを考慮しても、「漢民族」を蛇蝎のごとく忌み嫌っている人ももちろんいた。


[還珠格格」おてんばお姫さま役の趙微がとてもよかった。

そのころはやっていた歴史物のドラマ「還珠格格」には、チベット人とウイグル人が出演するシーンがあった(と思う)が、どちらも色違いの同じ民族衣装だった(よねぇ…昔の記憶なのでちょっと定かでない)。漢民族の異民族観、これでええんか(ウイグルとチベットなんて全然違うやん)、と思ったが、アラは人のことのときはよくみえるもので、
でも漢民族がマジョリティの国で暮らす気持ち(こころもとなさ?)というのはどういうものなのかなというのは、いまだに明確にことばにしにくい(でも「還珠格格」はウイグル男子にも人気だった。ウイグル語吹替もあったんじゃないかな)。


あくまでわたしの近くにいた人々から感じるわたしがいえることといえばこのぐらいだろうか(はしょってはしょって)。

そしてわたしの友人(大学生)は、預科(民族学生のみがおこなう大学入学前の漢語研修)終了後は上海の大学に進学した。進学先はできたばかりとおぼしききれいな大学で(郊外、行くのがめっちゃ大変だった)、彼女たちの二段ベットがつめこまれた部屋は、彼女以外の学生すべてが漢民族だった。
同じ大学にはほかにもウイグル族の学生がいたようなのだが、かれらを同室にはしないのが大学の方針のようで、
まあ、漢文化によりなじんでほしい、というよりは「もらう」という大学というか国というかの意図はあるんだろうなぁとは思っていた。

でも彼女はウルムチの家族とのつながりも強く、彼女の帰省につきあうと、わたしたちは彼女の両親にウイグルクッキー数キロ等をもたされたりしてそれを上海にはこぶはめになったりしていた(わたしも彼女と手分けをして列車にのせて運んだのだが、正直背骨が折れるかと思った)。こんなにクッキーばかりどうするのか、これだけの量があると何日かけて食べられるかなどと思っていたら、到着した瞬間に彼女はそれをウイグル族の友人・知人にわけ、その日のうちに全部はけてしまった、ということがあった。


というわけで上海に住むウイグル族の学生同士のネットワークも強く(クッキー他ネットワーク!)、彼女はほかの上海にある大学にウイグル族の彼氏もいたし、一皮むくと、よりウイグル族化していたようにもみえた(新疆の食べ物のストックも、ネットワークのおかげで常に山盛りあった)。

そんな彼女が義烏でのソマリ人(イスラム教徒)の貿易の手伝いののちにトルコにわたったと聞いたとき、ひそかにうれしかった。

トルコはウイグル族と同じトルコ系言語の民族の国で、語彙も文法もほぼ一緒、海の見える丘や遺跡の残る街並み、スーパーでみられるのは大量のヨーグルトやパン、肉という点などからも、
ウイグル族がもっと発展していたらトルコのイスタンブルのような街をつくっていたんじゃないかなとさえわたしは思っていた。
だから彼女はイスラム的にもウイグルとしてもイスタンブルで幸せになるんじゃないかと思っていた。


中国にいたときはパスポートをつくるのも、ビザをもらうのも大変じゃなかったのかなと思うのだがそのあたりのことはわたしはそばでみてはいないので、なんともいえない。
だからよくはわからないのだが、
わたしが彼女に「トルコでの留学(彼女の夢)を終えたときはその後はどうするの?」(永住ビザをとるのか、家族を呼び寄せるのか、いずれにせよ帰る気はないんだろうなと思っていた)と聞いたとき、



「新疆に帰る」



といわれ、わたしは彼女を三度見した。





あらためて周囲をみてみれば、人々はせっせと新疆に帰っていた。学生は学校の休みには新疆に帰り、
不法に出国してきたひとたちは、トルコ国籍が認定されると
「これでやっと新疆に帰れる!」と涙を流し帰国していた(トルコ国籍の意味とは…)。
男性も女性も成功した人たちもこぞって新疆に帰り、親族との食事会の様子を録画編集してトルコのウイグルたちにみせたりしていた。
そんななかでどうしても帰国できないのは、ややこしいことをしたとおぼしきごく一部の人びとだけだった。
トルコでは毎日黒い布をすっぽりとかぶっていた女性が「新疆に帰るから」と白い花柄の半袖ブラウスとタイトスカート(帰国にそなえて新疆仕様になった)で挨拶にきた、うきうきとした姿を、いまでも忘れられない。


え、でも、でもさ、トルコはイスラムの国じゃん。イスラム教育もうけられるじゃん。宗教活動をしたりしても(礼拝したり長い服をきたりしても)密告されたり罰されたりなんてしないじゃん(多少ケマリズム等はあります)。
それって国の宗教・インフラ<家族、ってこと?(イスラムとは…)
ウイグル族にとって、トルコ<中国?
中国って実はいい国?
あるいはその内実は、国の宗教的意向や施設の充実などどうでもいい<とにかく家族、ってこと?(小さな民族集団が大陸でいきるということの意味をつきつけられたような、そういうこと…?)
国の宗教や政治になんか、かれらは本当は興味ないってこと?
家族がいるならば、そこがどんな国でもオーケーってこと?

正直舌をまいた。


わたしの友人はウイグル族同士のルームシェアなどには近づかず、トルコ人女性13人とのルームシェアをしていた。それは
「面倒くさいから(ウイグルとのつきあいが)」
という理由からだった。
彼女の交友をみていると、その商売に関しても(会社としておこなう大口の場合などは)、取引に移行するのは妹と母親が新疆でリモートでも対処できるようなときだった(代価未払いで商品を新疆にもっていき売上はあとで渡すといったことをする)。
彼女のところに海外から泊まりにきて世話を要求するのも、妹と母親を知っている人間(あれ?わたしも?!(笑))で、
お金を貸しているのも、新疆に逃げられても妹が取り立てにいける関係だけだった。

彼女は、イスタンブルのウイグルの店で買い物をして、店主に「ウルムチのどこに住んでいるの?」と聞かれたりしても、違う地名をいっていた。あとでわたしが「あそこにあなたの家はないじゃない」というと「祖母の家があるから完全に嘘じゃない。それに、正直にいうとかれらにわかられてしまうじゃないか」といった(biliwaldughu)。

わかられて何が悪いんだと思うのが、わたしにとっての「社会」との距離感である。

そんな彼女が、おいしいと何回も通っていたイスタンブルのウイグル食堂があった。
そこの客に、知り合いのウイグル族の女の子をみつけ、親しげな頬をつけあう挨拶をしたりしていたことがあったのだが、そのあとで彼女は「あの子は実は妹の知り合いなんだけど、彼女にはわたしが妹の姉だとは知らせていない。」といっていた。


「だって知り合いになる人間は少なければ少ないほどいいじゃない」

そんなウイグル食堂にかよいつづけて10数回目、彼女は食堂のオーナーの女性に
「ウルムチのどこに住んでいるの?」
と聞かれた。

かよい歴が長かったせいか、彼女は正直に彼女の家のある地区の名前をいった。そして店主の女性のほうは、矢継ぎ早に
「父母の名前は」
「近所の人の名前は」
「何人キョウダイ(キョウダイは性別長幼の差なくウイグル語では一語)」
「父母の仕事は?」
と聞いてきた。
そして最後の質問でコックの夫のほうが、「ああ!」と気づいたように手を打ち「私たちはもともと知り合いだったのだね」といった。

この会話後、レストランを出た彼女は
「こういうふうになってしまうのMundaq bop qalidu」と顔をゆがめた(しかし、彼女は店主たちを「悪い人間だとは思っていなかったから」ということも同時にいっていた)。
なるほどこれが「なってしまう(qaliduかい)」ことなのか、と感心しているのが人類学者のわたしだった。

つまりひとびとの「つきあい」は、相手とのあいだで、関係を相手の親キョウダイをふくめた複合的な関係におとしこむことができたときに、初めて「はじまる」ということなのである。
わたしの友人の場合は、彼女の妹と母親を介すると「知り合い」が始まってしまう(父親の影が薄いのは、おそらく彼女が女性だから)が、トルコ人とルー厶シェアしているのであれば、そこから不必要な「知り合い」が生まれる心配は、ほぼないということなのである。

彼女にとっての「知り合い」が重い存在であること(お金を貸したり世話をしたり…商売で大金を動かす関係になったり…あれ?わたしも?!)は、みてとれる(すいません)。

「友達100人」できたら困るのである。

なんだあの能天気な歌は(ちょっと待て)。


そうした「知り合い」の存在はきわめて重要である(肉親の重要度はいうまでもなく)。
なぜならかれらの言動こそが彼女の「世界」になるからである。
かれらのことばは「わたし」のことを「思う」、彼女にとっての唯一の「言葉」である(「神」以外で、あえていうならば)。
トルコにいるウイグル族の人びとは、トルコの市販の食べ物には知り合い同士で「豚が入っている!」「それはハラールな食べ物ではない!」といいあいながら(「公共の情報」や公的な「ハラール」は「どこの誰かも知らない人間が口にした、「わたし」の信じるに足らない情報」である)、トルコの市販の食べ物を避けていた。そしてその結果としてもたらされる食事内容が、かれらの「イスラム的食事」になっていた(ハラール認証とか関係ない)。
ラマダンの開始日も、ライラトルカディルの日どりも、知り合いとの話しあいで決まっていた。それは偉い学者に教えられる、イスラム教徒が共通にいただく情報でもなかったのである(それでいいものなんですけどね)。
つまりかれらは「イスラム」「ムスリム/ムスリマ」という一体感からも、「ウイグル」の一体感からも、無縁だったということである(「国」への一体感とも無縁な分)。イスラムを、そういう“わたしたちの正しさ”のために使えるのであれば、学校施設や充実した知識人の陣営などなくとも、それを信じたかれらの暮らしを送ることはできた、とも考えられるのである。


だから、わたしがここに来る前に最初に思い込んでいた「トルコはイスラムの国だから、ウイグル族はここでは何でも食べられる」などという視点を、かれらはもってなどいなかったのである。


わたしが友人のところを一旦でてウイグルの学生たちがルームシェアしている部屋に居候先をかえたときには(調査の視点を変えるため)、彼女に「かれら(学生)にわたしのことを教えないでね」といわれた。

学生たちはといえば、そこで断食月の同じアパートのトルコ人世帯から善意で提供された料理を、トルコ人からはみえないところで捨てていた(同じ"イスラム教徒"同士やん!ご近所さんやん!)。
そして別のアパートに住むウイグル族の学生の「友人」が、「肉が手に入ったの!」と持ってきたときには、歓声をあげてそれをうけとっていた。
そうしてかれらは人間関係的に「知人・友人」間の内にこもった暮らしをしていた(かれらにとってトルコ人とは…)。


国に依存しない、国に期待しない、社会に依存しない、社会に期待しない


「ウイグル族」にも「イスラム」にさえも期待しない(集団としてのイスラムにも期待せず、自身の"イスラム"を保持することを望む、というか)


そして、家族と友人、知人の存在(誰にもカテゴライズできない)は、
国籍にも、国の宗教にも、なににも勝る。


ちょっと想像つかんよ。その渦中に生きている実感。


これがかれらという「イスラム教徒」(社会化しない個人にとってのことば)であり「ウイグル族」なのかと思ったとき、


わたしはメッカをみる視点もかわった。
メッカの巡礼をしていようが、
そこにいる人々は、周りにいる誰のことなど見てもいないというのがイスラム教徒である、という可能性がみえてきたからだ。
わたしはウイグル族にそう教えられてしまった気がする。


そして、この自由なひとたちが熱をこめてこの宗教に夢中になるのは、これがそういう人同士のつくるなにかに自分自身をしばりつけてしまわないなにかだと知っているから、という思いがしているのたが、そういう「宗教」ってあるんだ、とわたしはまだ目を白黒している(日本人だからさ)。


だから、日本でおこる「ウイグル族を〇〇しよう!」などという動きのほうから手をのばしてこられたこともなくはないのだが、
わたしには、あんなに近くにいつづけたのにも関わらず、わからない他者でありつづけた人々の「未来」をわたしが想定するなどということはできない、という気がしている。だからいろんな方面にごめんと思いながら(日本にいるとそっちの情報ばかり)、


孤独な宗教でもある(ようにみえる)イスラムにならって、わたしも前にすすむのみなのである。


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