女性たちの秘密ごはんーパキスタン牧畜民世帯のフィールドワークから
パキスタンの牧畜民の世帯では、日に5回~6回のお茶(とパン)の時間があった。
朝起きて茶を飲み(人によっては家畜の搾乳後に)、それからそれぞれの作業にでかけ(放牧など)、中休みをしてまた茶を飲み、昼に茶を飲み、午後にはあたりを歩いて家畜の様子をみては茶を飲み、寝る前に茶、または食事をとった。
ある日、男性たちがそろって遠くの畑や仕事にでかけ(畑仕事の人はお弁当持参)、朝と昼のあいだ、女性だけが家にいる時間があった(31人の拡大家族共住世帯なので、それでも10数人)。
そのとき、いつもバターの管理をしている女性(鍵のかかった彼女個人の箱にしまってある[鍵は首からさげている])が多めのフレッシュバターを箱からとりだし、皿のうえのパンにのせ、
女性だけで「あれ、今日はちょっと豪華だな(バター的に)」という茶をかこんだ、ことがあった。
なんだか静まりかえっていて、聞きにくい雰囲気だったのだが、この食べかたの名前は何?とだけは聞いた。聞いたことのない名前だった。
あんなの食べたことなかったなぁと反芻しながら、夜になり、大部屋でばたばたと布団を敷いている時間になって、いつもお世話になっていた英語を話す家長(男性)に
「〇〇〇という料理はなんですか?」
と聞いた。
その途端おこったことはなんというかいまでも忘れられない。
女性たちが黄色い悲鳴をあげて半分笑いながら布団に倒れこみ、男性たちが「えっ?〇〇〇だって?〇〇〇?いつ?今日?え???」と血気ばしって走ってきて、
それをみながら家長氏が梅干しを食べたような表情で「…今日食べたの?」と聞いてきた。
女性だけの秘密の食事だったのだ。
農牧作業のほとんどを担当していた根っからの農&牧夫の家長の弟であるH氏は
「女性たちはずるい、俺も食べたかった」
とかなり本気の声音でいっていて、たじろいだ。
その村には店も何もない。
そこでかれらが口にできるものは、家で収穫されて脱穀されて製粉されて練られて焼かれたパン、乳や乳を静置してとりだした乳脂、酸乳化させて攪拌してとりだしたりした乳脂、あとは木になった果実ぐらいしかない。
口にできる、ということが、なんという僥倖なのだろうと思った。
店で、レストランで、屋台で、どっちをむいてもお金さえあれば食べられるところにいると、地面と直結したあの村が少しなつかしくなる。
ときどき食べるものが足りなくて、わたしも飢えて「食べ物を…くだされ」と家の人にお願いすることがあった。
ビザの関係で街にいった際には、こっそり飴玉をたくさん買い込んで家にもってかえり、こっそり隅でなめた。
それがなんとなくばれて(誰にだろう)、H氏が
「飴をくれ」
といってきたことがあった。
「持ってるんだろう(にこにこ)」
う~ん、
と思ったが、舶来ものの味の濃いいキャラメル飴を何粒かこっそり渡すと、
それからH氏は
「Kumは飴をおれにくれた。だから好きだ」
と無邪気な笑顔でいうようになった。
この胃と感情がダイレクトに結ばれたH氏の素直な生き方がおもしろかった。
H氏は暇ができると、壁にかけてある楽器をかきならし、家族に美声を聞かせてくれた。
数年前、H氏が作業中に川(村の川は氷河の解け水で常時激流)に落ちて亡くなったということを知った。神様はやっぱりピュアな人からさきに連れていくのかなと思った。
とにかく日に何度もお腹がすいたなぁと思う日々だった。
ごはんまだかなぁ、と調理場をのぞいてみると、
女性が鍋をかきまわしながら、中身をぱくりぱくりとつまみぐいをしているのをみることがあった。
わたしがみているのにきづくと、いつも”食べろ”とわけてもらえた。
調理場には男性は入ってこない。
というより、これないので(そういうことになっている)、
山の放牧キャンプにいたときには80代のおじいさんに
「Kum、コップに水をくれ」と何度もいわれるのに、実に閉口していた(「乳搾りにいくぞ!」と上着をきて長靴をはいてバケツをもっていざ立ち上がらんとしているときに狙ったように[狙ってなかったんだろうけど]いわれるのでマジ閉口なのである…。)
わたしも「自分でとってくれ」とはいってみるのだが「男だもん!」といわれるのである。
食べる、ということを目指して
誰もかれもが働いていたあの空間なのに、
なぜ男性たちはその食べ物に最初にふれる権利を女性にわたしてしまったのだろう、とわたしなどは思った、部分もあったりした(バターの管理もしかり)。
チーズをつくるときにできたその乳脂のかたまりも、おばあさんからもらって子供たちと一緒に炉端にしゃがみこんでむしゃむしゃ食べた(乳脂はあとで丸めて屋根のうえで乾燥させて、冬季にスープにして食べる)。
近現代日本における「男性も家事を!」の声にはそうであるべきかなと思うところはあるのだけれど(条件も問題設定もんぜん違うと思うし)、
あのつまみぐいの光景をおもいだすと、わたしは「あれは何?」と思う(とにかく空腹だったことが多いので、判断がにぶっている部分もあるのはご了承くだされ)。
近現代の課題のほうは、食べることそのものより、その労働の分担のほうに焦点があたっているのだけど(あっちも31人共住じゃなくなったら違う部分もあるかもしらんし、それにスーパーで買う食べものと、自分たちの手でつくりだす食べものの意味もまた違うと思う。)、
あの飢えをおぼえざるをえなかったあの暮らしを思い出すと、
女性に食事をもってこられて部屋の奥で食べる男性たち、
実はその前に結構食べていたりする女性たち、
実は女性がいなければ食べることをゆるされていない男性たちと、
腹が減れば食える立場を許されている(のかもしれない)女性たちを思って
文明ってなんだろうな、と思っていたりする、部分もある。
※あちらでは、家畜の所有者はほぼすべてが女性で[全部個人所有]、女性は、未婚時における保護者の死去、婚姻や出産を契機に実家の男性親族から家畜おくられるものとされていたこともあり、いろいろ思うところがあった、というおはなしですわ(京ことば調)。
どちらかの性が得をしている、女性と調理労働は固定化すべきといったニュアンスのおはなしぬきで、現代日本ではなくあちらの「あの」環境で、そのあいだがつくっていたものはなんなのか、という意味あいでおよみいただけたら幸い…。
この家の家長氏のような社交的な人物の場合、つきあいでしょっちゅう外部でもてなしをうけていて、実は結構うらやましい。この民族だけだと思うのだが(この地域だけ?)、この家では、外部でもてなしをうけた場合、帰宅後家族にもてなしのメニューを申告するのが義務で、わたしなどは「ああそんなにすごいの(バター的に)秘密にしておけばいいのに…」というメニューを堂々と家長氏が申告するのをなんどもみていた(女性たちのこの食事のほうは秘密でよかったのがおもしろい…)。
でもH氏などの場合はもてなしをうけられるのは妻の実家ぐらい。