放浪文化人類学者のはじまりはじまり⑥イスラム教徒であるということとは
イスラムだといわれれば唯々諾々と従うといったものとしてイスラムが存在しないのであれば(※ファトワー[イスラム学者のだす判断]のようなものには「法的強制力がない」とはいわれているのは知っていたが、だとしたら個々人にとってのその取捨選択の基準とは、そこにおける「敬虔」の意味とは、とわたしなどは思う)、イスラムであるということはどういうことなのか。
イスタンブルのウイグル族と一緒に暮らしていると、日々イスラムが口にされていた。そしてそれは、そうした「規範」のようなところをはなれた、個々人の誰かとの関係性という点において耳にすることができた。
元イマームの妻氏が、自身の夫婦の関係についてかたりながら
「私が夫と良く過ごすことはサワッブ(正しいこと)になる。夫となぐりあいながらすごすことはイスラームの正しい道ではない。 子供を産んで育てることは良いこと。豚を食べないことは良いこと。スカーフを被ることも良いこと。すべてはより良い生活を送るため。」
といっていた。
それって………半分は(豚とスカーフ以外は)日本でも普通のことってこと?
「穏やかな夫婦関係」は豚とスカーフと同じもの?
滞土10年目のウイグル族互助機関で教師をしていた女性は、朝食の席で、食べるのに使っていたスプーンをみせながら
「すべてはアッラーが与えてくれるもの。このフォーク、スプーンもアッラーがものを食べられるように与えてくれたもの。だから スプーンで食事をぶったらサワッブになる。スプーンで人をぶったらグナフ(Guhah、罪)になる」
といった。
え~っと………やっぱり普通にしていたら功徳もりもり、なんですか??
しかし「これはスプーンの規範…とでもいうべきものなのかな?」と思ってもみたのだが、元イマームの妻宅でわたしは、実子のやりようにいら立った元イマームの妻氏が、まさにスプーンで子供をぶとうとしているのをみた。
それで「はっ、これは規範を破っている…ということにされるものなのだろうか(日本人的発想)」などと思っていたのだが、
そもそも誰かと何かを共有して「あの人あれを守ってる?」「守ってない」なんていう空気のなかに生きているような人が「それには豚が入っている」なんてトルコで口にするもんだろうか。
それは日本でいう「規範」ではなかったんじゃないだろうか?
ヘイレンギュル(わたしの友人で単身トルコ人女性13人とルームシェアをしてウイグル族の社長の会社で働いている)の住むアパートでは、日々夕食を近くの店からのケータリングでまかなっていた。その意味で、彼女はトルコ人のつくる料理を受け入れていた珍しい1人ではあったのだが、
その夕食の配達は午後5時だったため、5時ジャストに食べる人には、それは良い料理が残っていたという。
ヘイレンギュルは午後10時前後に帰ってくることが多かったため、じゃがいもだけになったような料理をよく食べていたという。
あるときめずらしく早くに帰ったヘイレンギュルが、台所で料理のなかに3個の鶏肉があったのをみつけた。ヘイレンギュルは残りの13人も食べられるよう、1個を少しだけ食べた。そしてしばらくしてふと台所にたちよったとき、ルームメイトの2人が残りの2個を1個ずつ食べているのをみた。2人は
「気にするな。食べてしまえ」
といったという。しかしヘイレンギュルによれば「イスラムでは、そういうことはありえない」のだという。 そしてそこへ 3人目のルームメイトが来たとき、その3人目は
「わあ、いい料理がある。 残りの皆のために残しておかなければ」
といったのだという。ヘイレンギュルは、彼女について
「スカーフを結ばず、礼拝をしない彼女が、そのことは知っていたのだ」
という。イスラムのなんたるかを彼女はその側面で実践していたのだと。
礼拝していなくとも、スカーフをかぶっていなくても、同居人に料理を残しておいたことだけで、賞賛ってされるもんなん??
じゃあ日本人でもふつうにえらくない?ていうか、そんな普通のことを「イスラムでは」なんていわないと、口にできないものなの?
それにしてもスカーフってなんなん、礼拝ってあなたたちのあいだでいったいなんなん。
なんか「規範」ってそこになくない?自分で判断すればいい領域だけしかなくない?ちゃんとしていれば宗教的なことなんて何にもしなくてよかったんじゃない???(日本人的発想)
イスラムって何をしてればイスラム教徒の人びとも一緒に尊重しあっていられるの(本当は他人を気にしている時点でイスラム教徒(inトルコ系)に向いていないし、不特定多数のイスラム教徒のあいだにでてくるのさえもそもそも避けたほうが…のだが)。
ヘイレンギュルは「他者の取り分を食べてはいけない。取るのに適した量だけをもらうことが必要だ。メッカからメディナに行った人びとも、良くしてくれた人びとが、くれるもの全部をとったのではなく、自分に必要な分だけ取ったのだから。」という。
そういうヘイレンギュルは、アパートに泊まらせてやった友人女性(ウイグル族)が部屋に大量のガラクタ(なかばゴミ)を残し新疆に帰ってしまったとき、途方にくれながら
「彼女はイスラム教徒じゃない」
とわたしにいった。
……それって…自分に対し不快なことをやった人がイスラム教徒じゃないってこと?そういうこと?ていうかあなたのことばの選び方、自己中すぎない?
そこにいるひとたちは、非難と肯定をイスラムの用語をもちいておこなっていた。そしてそこでは
「イスラム教徒じゃない!」
なんてことばを、こんなにも安易につかっている。
今でも覚えているのだが、日本の研究会で、日本人でイスラム教徒の某有名な女性研究者に
「「イスラム教徒じゃない」っていわれたら、どう思います?」と聞いたところ
「ひどい侮辱だ。」といわれたのだが、それを聞いたときわたしは、
あ、この人はわたしの知っている「イスラム教徒」じゃないな、日本人だなと思ったりしている(「誰がいったっていう仮定のはなし?」ぐらいの切り返しはしてほしかったな、なんてな)。
でも、そう、それを「宗教」としてとらえて、そうしたトルコ系も日本系(笑)も「イスラム」のなかに包括する気でいる気なのなら、トルコ系のそれは、トルコ系に「民族化」されたイスラムだ、といってそれを部分化していればいいのだが
まあわたしの研究意図は、ウイグルの、このいわく言い難いふるまいの出どころがなにかを知りたい、というほうにあるので、その解明に向かう。
イスタンブルのウイグル族の人びとのイスラム的なことばのもつ特徴は、
1 、きわめて日常的な、個々人を基点とした関係性に向けられていること、
2、そうした関係性の評価が、礼拝、スカーフよりムスリムとしての価値をもつとされていたこと、
になる。
そこからは、これまでイスラム教徒であるということを定位するものとみなされてきた礼拝(「六信五行」のひとつ!)、スカーフというものが、かれらにとっては2次的なものにすぎなかったということがみちびきだされるように思える。
そうしたあたりまえの日常的な関係性の評価が、礼拝や服装に優越するというものいいは,次の場面にもみられた。
元イマームの妻氏が「3人の子供を育てることは、私たちのイパデット(崇拝)、サワッブになる(※両語を並列してきた)。子供を育てたサワッブによって、天国に行ける。“天国は母の後ろに”ということばがある。母であることは、それだけで礼拝をすることと同じだけの、『コーラン』をよむことと同じだけのサワッブになる。母を満足させれば、人は天国に行ける。預言者は、誰を満足させればと問われ 「1番に母、2番に母、3番に母、4番に父」といった(有名な話)。イスラム教徒は、父母を満足させると天国に行ける。母によくしてやらないと、甚大なグナフになる。」
これはイスラムではよく引用される説話なのだが(母の重視)、やっぱりそこで礼拝や『コーラン』と同じだけなんていいかたするんだ…という。それは子育てをするという、ある意味どこにでもある「生活」。それは「宗教」なん?。「宗教」をやっていなくともそれらと同じように「生活」が評価されるのなら、信徒である意味って???
これを聞いたのは,彼女の生まれたばかりの子供が泣きやまず、彼女と筆者とで必死であやし寝かしつけた直後のことだったのだが、放心状態の彼女は、母が子供を育てた苦労が今わかったといいながら、上記を語ってくれた。そのため、わたしは彼女がどんなにか実母を大事に思っていることかと思い聞いていたのだが、上記のかたりの直後、彼女は「故郷にいる父と母は頭の中がとても単純だ。生活の苦労を話せば 泣いてしまうだけだから、かれらにトルコでの暮らしのことなど知らせないことにしている。」とはきすてるようにいった。
えっ、「母を満足させれば」………じゃなかったの???とつっこみかけて、わたしは思った。
かれらは、つねにかれらが日常としておこなっていることをイスラムをもちいて表現していた。ゆえにこれは、彼女の実母の話ではなく、彼女自身の「わたしはちゃんとやっている」でしかなかったのではないか、ということなのである。
to be continued.