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世界的な宗教を文化人類学的に調査するにあたって考えたこと

イスラムを調査しようと思ったのは、まあウイグル族の調査をしていると
「イスラムだから」と発表内容を片づけられることが多く(ゼミではなく外部で)、「イスラムだからしょうがない」「イスラムだからあたりまえ」といったコメントが鼻につき、それで何かを説明したような気になったまま、重要な何かをブラックボックスにほうりこまれている感触がゆるせなくなったというのがある。

わたしのそれまでの研究は、ウイグル族の人びとの住居空間のつかわれかたからみた人間、の軸が東アジアとはずれている、なんで?という問いだったのだが、それが「イスラム」が原因だとすれば、え、わたしも今日からイスラムに「入信します」っていったらそれ理解できる?わたしもそういうやりかたで空間をつかいこなせる?ということにおちいったのである。


イスラムを信仰するってどういうこと?


それを一回ときほぐさなければ前にすすめない、そう思えたのだ。

しかしそもそも大した仏教徒じゃないのにわたしは「信仰する」っていう意味わかってる?

ううむ。

ウイグル族の友人のイスラム化をみて(テキスト「イスラム教徒のイスラム化」↓)、イスタンブルやカイロにいったウイグル族の人びとのイスラムの取り組みを見て(予備調査)思ったのは、
ここの人びとは、なんらかの切実な理由があって、大人の理性によってイスラムであることを再選択している(親からの自然な継承、ではない)、
せざるをえない何かがかれらにはある、
イスラムこそがなんらかの理想といいうる精神状態の基盤があるということにでもなろうか。


だから、わたしも真剣にイスラムをみなくちゃいけない。
そう思えたときにわたしが考えたのは、次の2つだった。



1、わたしもイスラムを信じる必要があるのか(調査のため、というのではなく、わたしという人間にもそれは必要なものなのか。信じるべきものなのか。)



2、信じないでいいとしたら、なぜなのか



である。


信じる必要があるのだとしたら、かれらはわたしの先輩である。わたしはかれらから真理を学ぶというスタンスで、かれらに疑いをもたずそのみているものを学ばせてもらう、という調査方針になる。

…神って………いるのか?
いきなり大変な問いに…。

しかし信じないでいいのだとしたら、それはなぜなのか。

それが虚構だからか。
それとももっと別の理由があるのか。


この点を曖昧にして、人びとのあいだにはいってそれを見ることはできないと思った。それを何だと思って書きとればいいのかわからなかったからだ(実際わからなかった。他のかたはこんなこと悩まずに調査されているんですかねぇ…)。

虚構だと思うのだとしたら徹底的に見下すための材料あつめになる。
それしか方法はないのか。


この答えをだすために、わたしは結構時間をかけた。
この確信がなければ、調査はできない。
先方からわたしに「改宗しろ」というような話がでたときにも対処ができない。
もう大学院は卒業していたから、ゼミはない。ひとりでやるのだ。
図書館から連日貸出冊数の限界まで本を借り、読み続けた。


そんななかでわたしがみつけたのは、
あいだは飛ばすが、
‶キリスト教およびユダヤ教は牧畜民の宗教だ”という分析の本である(参考文献)。

その本の著者は、イタリアに行って、教会という祈りの空間に、なんで血だらけの死体がぶらさげられてるの?何でここの人は皆それ平気なの?
という日本人としては至極まっとうな感覚(あまり誰も疑わないけどいわれてみればそう)をおぼえたことから研究を始められており、その本にはイスラムに関しては何も書かれていなかったが、

イスラムはキリスト教とユダヤ教と同系列の宗教である、のであれば、

ああ、

わたしは至極すとんと落ちた。


イスラムもまた牧畜民の宗教である、可能性がある(ウイグル族も古い時代は牧畜民だった)。

だから牧畜を知らない農耕民の末裔であるわたしは、信じる必要がない、可能性がある。


これがわたしのだした(暫定的な)答えであり、それがゆえにわたしは徹底的に「他人のもの」としてイスラムを書きつづけた。
かれらのイスラムを「驚き」をもってみつめつづけた。

実際みつけたのは、「え、これ??」というかたちのものになったので、わたしは結果としてそれを「わたしの」宗教にして見ることをしないでよかったと思っている(そもそも「こんなこと」も知らずに「入信する」などと考えたりしていたとは…)。



まあいろいろとわたしの場合はです。


イスラム、興味深いです。




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