イスラムの人間の身体にたいする考えかたをきいたーエジプトでの文化人類学的フィールドワークから
エジプトでアラビア語の先生に
「イスラム教徒は、その外界だけでなく、自分自身の身体の内側をも神とみなしていると考えていいか」(そういう仮説が観察から導きだされた)
ときいたときに、先生から3つのYou tubeをみせていただいた。
どれも著名なイスラム学者による臓器移植に対する回答(イスラム法学的判断)である。
イスラム学者(アーリム、複数形はウラマー)は、『コーラン』や預言者の言行録等の文献を参照して、問題に対するイスラム的な回答を探すひとびとである。
2つがサウジアラビア(アラブ人)のイスラム学者のもので、1つがエジプト(アラブ人)のイスラム学者のものだった。
以下にみていくひとつめは、サウジアラビアのシェイフ※・マガムシーによる「死後の臓器提供への決定」である(翻訳は複数の先生方との共同作業)。
※部族の長老、首長、知識人あるいは教師であるウラマーを意味するアラビア語。
↑上記の動画は削除されてしまったので御参考までにご本人のほかの動画をあげておく。
ふたつめは、エジプトのイスラム学者シャーラ―ウィによる「臓器提供に関するアル・シャーラーウィーのファトワー(イスラーム学者が信者の要望に応じて発行する法学的意見)」である。
シャーラーウィ氏はサウディアラビア等でも活動されていて、アラビア語圏ではひろく知られているイスラム学者である。
以下、「I」はインタビュアーを示しており、「S」はシャーラ―ウィ氏を示している。
最後に、サウディアラビアのイスラーム学者ウサイミーンによる「ウサイミーンによる臓器移植と寄付への決定」である。
これらのYou tubeからみるに、イスラムでは臓器移植にたいして、否定的であることが基本なのかなと思う(他にもいろいろみていかないといけないのではあるが)。
しかし、わたしがもっとも興味をひかれる点は、その「否定」は「臓器移植」はだめという話のためではなく、ひとの身体というものはそもそも神に属するものであり、ひとはその所有権を持たないということ(だから贈与などできない)、くわえて、ひとりひとりは唯一無二の存在である、ということを話すためにその話がなされている、という点である。
わたしのみたエジプトの事例:
おばあさん(60代)が、朝に髪を洗ってかわかさないまま仕事に行き、帰宅時に風邪をひいていた。おばあさんがそのことを家で「これではハラーム(禁忌)だ」といっていた。
ここでいわれている「ハラーム」とはなんだろうか。
これは、神から預かった身体のあつかいを、わたしは間違ってしまった、という意味での「ハラーム」である、と思う。
(自分が風邪をひくのは宗教上の過ち!?といわれると日本人には「えええ?」と思われるかもしらんが、身体を正しく扱えなかった、身体から否定のサインがでた、と思えばそうなのである。ただそれで他者に罰されたり白い目でみられたりはしないし、こういう「ハラーム」は日常的にいつでもみられる、「もっとしっかりしなくちゃ(独り言)」くらいのニュアンス)。
正しく食べ、正しく寝て、正しく…という生活の「規範」がイスラムに出現するのも、それが理由になるのかな、とわたしなどは考える。女性が男性を誘惑しやすい自身の身体をかくしてその社会生活を送るのも、神から預かった身体をその性質にあわせてオペレーションする、という意味になるかと思っている。
そして人間には、よこならびに同じ人間は、存在しない。
なぜ臓器移植に免疫抑制剤が必要かといえば、人間はそのパーツを含めひとりひとりひとつひとつが唯一無二のものであるからである。それは、目の前にいる人間も自分も「同じものでできている」と、他人から自分にパーツをうつしてもよいような、ロボットの部品のようなものではないように「つくられている」からである。
つくったのは誰か。
神である(この意味で、その「神」は生物全体自然の秩序にもちかい)。
”腎臓が2つあるのも、1つあげてもいいものとして余計に神がひとのからだに腎臓をつくったとあなたは思うのか。2つでなければならない理由があるからだ”。
そして”人の一生というのは、人間がその神から預かった身体でもっておこない、それを完全なままで維持して死にいたるべきだ。人の身体(というその全体性)はそれ自体で生きていても死んでいても聖なるものだからである”。
などといわれると、わたしもわたしの人生という唯一無二を生きねば(他の誰とも同じではない)という気になる(免疫のせいで移植ができないってそういえばそういう意味だよな、などと)。
そうして身体というものが神のものであるからこそ、自殺もその思想にのっとって一般に「禁じ」られているし、その思想にのっとって、女性が眉をぬいて流行のかたちにそろえることや、つけ毛をして縮れ毛(エジプトでは多い)を覆い隠したりしてその神の造形をたばかることも「禁じ」られている、ことがある。
実際にはキャビン・アテンダントなので眉は整えなければならないとする女性がいたり(嶺崎 2015:127)、縮れ毛がいやなのでとかつらをかぶっていた女性や、自身の結婚式にだけロングヘアーのかつらをかぶったりしていた女性(やっぱり縮れ毛)もわたしはみていたのだが、
そうした眉をそっていた女性なども、よくよく聞くと、退職したら眉は残しておこうと思っていたりするのがイスラム教徒だったりする(つまりそれは心には留めおいていたという。「環境が許せばやりたいが、いまはやれないでいる」というひとびとにわたしはたびたびあったことがある)。こうした個々人の実践の遅延もまた許容される社会の空気のありかたが、イスラム社会のわたしの関心ある部分でもある。
こうしたYou tubeをほかのエジプトの人にみせたりして、どう思うかを聞いていたりもしたのだが、やっぱり移植は禁止なのかな、というわたしに対して、大概の返事が「でもわたしは移植したい」だったりして、単純じゃないなぁと思うのはこういうときである。禁止されてるから「だめ(あきらめよう)」ではないのである。
ある女性は
「売ったりするのではなく家族にあげるものならかまわないはずだ」
といった。
またある女性は
「息子のためになら臓器提供したい。息子の身体はわたしにとって自分のからだのようなものだから(息子1人の母子家庭)。」
といった。
またこれを翻訳するのを手伝ってくれたイラン人の男性にわたしが
「臓器移植はイスラムでは禁じられているんですよね」
といったところ、
「それはわたしがその現場をよくみて、ひとびとのいうことをよく聞いて判断すべきことだ」
といわれた。
「だめ」という際の基本的なものの考え方のわくぐみがあり、そこから各自の個人的な事情と切実さとが他者をもひろく説得できたとき、その針のあなをラクダがとおっていくのだろうか(多分に私的で公的にはならない理由でかも)。
ひとのその身体は神のつくったものとして神聖であり、その身体の内部(神)と身体の外(神)、すなわちどっちをむいても「神」のなかで(この場合「他人」も「神」にふくまれる。※この話は別なトピックでの話になります)、たったひとり(唯一無二のわたし)で「見て(視覚)」「聞いて(聴覚)」、その行動の是非を神(身体と世界を含む)に問いながら、ひとり人生を歩んでいくのがイスラム教徒になるということだとわたしは思うのだが(要するに他人の話は聞かないヤヴァイやつの可能性もあるといっている)、
日本語を母語として生まれるといろいろやっかいなんじゃないのかな、とわたしなどは思ったりしている(規範の理解の仕方など、横並びを強制されやすい言語のなりたち)。
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