そこら辺の女の戯れ言。
今回は身の上話。
先日、父の命日だった。
亡くなって丁度20年。
私が13歳の時に亡くなった。
小学四年生の頃から、入退院を繰り返していて、大きくて絶対な父がこんなにも弱くなっていく姿を見ることは、子供ながらに、とても嫌だった。
お見舞いへも、そんなに行かなかった。
悔やむかと言われれば、そうでもない。
小学生の頃は、管がたくさん刺さって弱っていく姿を見るのが心細くて怖かったから。
そして、父はそんな風に思われたくないだろうなと思い、父の前で怖くないフリするのが、そして、フリをしているのがバレるのではないか、との思いから、足が向かなくなった。
当時、<父親>というものが死ぬとも思ってもいなかったし。
時は過ぎて、私は中学生になった。
父は日に日に細くなり、話せなくなった。
字もかけないくらい、ずっと病床で寝たきり。
そして、9月を幾ばくか過ぎた日の朝方、亡くなった。
びっくりはしなかった。
特にもう短いと聞かされていた訳ではないけど、漠然と<死ぬんだろうな>と感じていた。
お葬式は、たくさん人が来ていた。
覚えていることは、お寺の門から祭壇までの石畳みに並ぶ人の列、学校の友人や先生が来たこと、<お身元へ>とかかれた手紙をもらったこと、ずっとカノンが流れていたこと。
火葬場で、最後に、手紙を入れたこと。
この手紙は、何を書いたか覚えていないけど、大好きな歌詞の一部を書いた記憶がある。
泣いたかどうかは、覚えていない。
知らない親戚が、まだ娘さん中学生なのに…
的な言葉をかけてきて、
あなたたちも何れ死ぬでしょうよ、父の死を悪く言ってんじゃねぇよ。と思った。
お葬式を終えて、通学復活した時に、友人から、隣のクラスの担任の先生が、朝のホームルームで、私の父が死んだことを泣きながら話していたと聞いて、クソな先生だなって思って嫌いになった。
いくら年上で先生でも、入学して半年、国語の授業くらいしか接点無い私の家族の何を知って泣いているんだ、このくそアマが。と思った。
父が亡くなり、すぐに、今度は母が病になった。
父が亡くなった事からの虚無感と、一人で私を育てなけれなならない事から、うつ病になったそうだ。
今度は、ただただずっと寝てばかりいる母の姿を見ることになった。
私には、どうにも出来なかった。
そして、通院だけでは、良くならず、入院した。
私は一人っ子だったので、その間、叔母が面倒を見に来てくれていたけど、なれない同居生活は、叔母のストレスにもなり、長くはなかった。
家では猫と私で、友人もいて、高校生の頃には彼氏も出来て、ずっと一人ではなかった。
母も、入院したり、家にいたりしていて、全く会わないわけでは無かった。
不幸せではなかった。
学校も楽しかったし。
よくグレなかったね、と言われることがあるが、グレることに興味が無かったことと、伝統校で規律がしっかりしている女子校に通っていた事もあって、その道へは行かなかった。
多分、隙間は大いにあった。
友人や学校の環境、親の教育に、恵まれていた。
友人達は、私の父が死んだことや母が入院していることを思い、気遣ってくれていたが、もう大丈夫だよ、と、中学校舎の階段を上りながら言ったのを覚えている。
母が、ちゃんと治ったのは、私が高校を卒業してからだった。
通院も服用薬もなくなった母は、パートを始めた。
人づきあいをしだして、自分らしさを取り戻した。
今は、パートはしていないけど、穏やかに自分時間を楽しんでいる。
<死>は、とても身近で呆気ないとはよく言ったものだけど、ほんとそうだな、と感じる。
そして、身動きがとれなくなり、どうにもならない事のきっかけも、ほんとそこら中に転がっている。
先日、仏壇の前で手を合わせた時に、
一先ず、五体満足で、何とかまた働き出したし、紆余曲折あったけど、生きているから、まぁ大丈夫だよ。と伝えた。
あと、せっかくの体に切り傷を多数付けて、ごめんなさい、とも。
今父が生きていたら系の話は、死んでるんだから知らんがな、だけど。
あなたが亡くなってから20年経ちましたが、まぁ無事に母娘なんとかやってます。って感じ。
ほんとは、お酒飲みながら偲びたけどね。
今お酒辞めているからね。
まぁその意味も込めて書いてみたよ。
そんな今日この頃。
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