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私とむげん堂 4
むげん堂の思い出話も4回目。
そして最終回。
■さて、おしまいです。
ただの散文で、本当に誰得なお話達も最終回です。
今回は、なぜ書いたか、について。
「書きたかったから」
で、まとまる話なんだけど、本人はグダグダ書きたいみたいなので、良ければお付合いください。
◇◇◇
私は自分でも寂しいくらい、10代の学校の事や家庭の事等をかなり忘れてしまっている。
同じ感じの人は多いのでは?と思う。
修学旅行は何処へ行ったとか、自分が誰とお昼を食べていたとか、何の漫画読んでた、何を思っていた、どんな風にグダグダしていた、とか。
部分的にぼんやり曖昧な所があったりも。
必ず、どこかしらの糧へと変化しているんだとは思うけど。
社会に出て、仕事の数字や成績をあげる。
大切な事は目の前の仕事。
稼がないと、税金払えないし、家にも住めない。
会社での、上に下にの人間関係のバランスはとても気を遣う。
社内政治を失敗すれば、うまく行く事も行かず会社員生命の終焉へ。
お給金は、忍耐・ストレス込々のもの。
忙殺でも、目が死んでても。
大人なんだから、当たり前の事。
でも何だかゆっくりバランスを崩していって、次第に家族への態度も変わり、過ぎ去った彼氏だった人達にも愛想をつかされていった。
そんな先日、納戸から発掘された学生時代のバンド音源を聞いてから、ちょっと色々思い出してみよう、と思い始めた。
今より、周りにも自分にも忖度なく、ストレートに一所懸命だった頃を。
そして全体を思い出すきっかけになるのは、私の普遍的ラインにいるむげん堂かな。と、思った。
なぜ普遍的ラインにむげん堂がいるかって
「安売りは僕らの誓い!」から発生していると思う。
品々がお手頃なので、ちょっと寄ってみよう、ちょっと買ってみようって事が、普段の日本の生活からは出会えない物に出会わせてくれる。
しかも、それって些細だけど楽しめたり。
メディアや環境に振り回され過ぎない、本能にある動物的感覚。
むげん堂って、そんな本来の性質を静かに刺激してくる気がする。
それが、私のかつて10代の日常の中にあったんだ。
なんと素敵な事でしょう。
あと、ちょっと、町の雑多な定食屋さんの生姜焼き、感。
とびっきり高級だったり、凄く美味しい三つ星ものではないけど、小さい頃から家族で行っていて、愛着がある。
家庭の味以外の自分の舌の基準になる感じ。
部活帰りのごはん屋さんでも良いかも。
日々の中の、ちょっとくだけた感じも相まって。
特に、むげん堂通信の題名やコメントが手書きな所はそんな所を強めている気がする。
同じ手書きの「~の巻」っていう漢字も、毎回違う。
スタッフさん手書きの最後の言葉も、毎回内容が違う。
パソコンのフォントにはない、良い手垢感。
生姜焼きの具合や玉ねぎの大きさが、いつも微妙に少し違う。
そりゃまったく同じではないよ、人の手が掛かっていること故にね。というのと同じ感じ。
生感、と言うか。
たくさんの「便利」は、助けになったり、違う事を時間を費やせる。
でも、「便利」は、便利になった物事をないがしろにしていいとは、言っていない。
そゆとこ、大事よ。
みたいな感じが、むげん堂に感じる。
社会人になってからは、引っ越しもあって、むげん堂に触れない月日が、かなり暫くあった。
私自身、足が向かなくなっていたな、とも思う。
実家に戻って来たこれからは、また、何かのついでに寄って。
お香焚いて、むげん堂通信読んで。
また離れたとしても、ここで振り返ったことを思い出して。
むげん堂が醸し出している、気張らなくてもいいんじゃない?
っていう雰囲気が、とても心地良くて大好き。
何かをけなす事なく好きな物事を素直に好きと言え、嫌いなものはただ嫌い。
そういった、何の優劣もない自分の本能を、ありのまま受け取れるような、フラット感も良い。
さ、次はいつ寄ろうかな。
おしまい。
◇◇◇
元祖仲屋むげん堂
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Photo:blue river