見出し画像

【青葉市子】人見記念講堂公演 捨ててもいいことを知っている強さ

1stの「剃刀乙女」から噂に聞いていた青葉市子を、ちゃんと聴くようになったのは、たまたま家の近所でやった公演「ユキノコロニヰ」に出かけたことがきっかけだったと思う。2016年1月、早稲田奉仕園スコットホール。うちから徒歩10分。教会みたいな会場で、真冬。早大戸山キャンパスのそばだけど、意表をつかれた。こんな変なところでほんとうにライブするのかと訝って、チケットは手に入れたものの、当日、入待ち行列の人に「これ、青葉市子の列ですよね」と訊いて不審がられたのを覚えている。CDでもYouTubeでもなくて、最初がライブだったことがすごくよかったんだと思う。季節もよかった。たしかお土産もあった。クッキーだったかな。

その年の10月に出たアルバム「マホロボシヤ」を、冬に向かう時期、ほんとうによく聴いた。アルバム実質1曲目の「ゆさぎ」の素敵なコード進行に、夢中になってしまった。全編ガットギターの弾き語り。テンポも全曲近くて、トータルで聴ける。暖炉の横で奏でられているような、すぐそばで奏でられているような、しんとした曲たち。冬のアルバムというものが世の中にはあるけれど、これがまさにそう。収録曲の個体識別はできなかったのだけど(いまもあんまり自信ない)、黒い紙ジャケットのこのCDはいまもほんとうに大事にしている。

2018年、アルバム「qp」が出た。繰り返し聴いた。とにかく「月の丘」に尽きる。浅草公会堂のライブに一人で行って、そうかー、こういう人たちが来るんだ、と思った。どういう人たちか。いろんな人たちだ。ここまでジャンルレスな客層のライブはそうはない。きょうもそうだったけど。ステージにはなんというんだろう、漁に使う色付きガラスのボールみたいな物体が置かれていて。どのライブでも舞台装置がステキな青葉市子ライブだけど、この時の印象は強かったなあ。そういえば会場でもらった不思議な雰囲気のポスター(筒状に丸められて、リボンで結ばれていたかな)をずっと部屋に貼っていた。

この浅草を機に、彼女の東京でのライブは行けるものは行くようになった。途中コロナ禍があったけれど、ツーマンで、代官山の「晴れ豆」でぎゅうぎゅうな会場の後ろ、カウンターの横くらいからずーっと見てたのもすごく印象に残ってる。きょう話してた21年夏至の日のアダンのオーチャードホールも、その時の暮れの折坂さんとのツーマン(投網をアレンジした舞台装置が素敵だった)も、昨年の有楽町や、年末の七尾さんとの大阪ツーマン、、、。チケットが取れなぬて行けなかった公演も多く、特に最近は海外ツアーに行くことが増えたので、日本で見られる機会は減ってるようにも思う。

そしてきょう。昭和女子大学人見記念講堂。アダンのオーチャード以来の、ストリングス五重奏を含む総勢10人。「3年かけていろいろ準備をしてきました」と青葉さんは言っていたけど、オーチャードとは全然違うライブだった。なんというか、青葉さんは、踏み出す一歩をよくわかってる。そして、捨てて(も)いいものについてもとても自覚的だ。きっと。昨年12月の大阪でも形は違うけど感じたことだけど、青葉市子は「闘わなければ」と思っている、と感じた。

たぶんアダンのアルバムをつくったところから彼女は変わったのだろう。世界が大きくなり、表現が「強く」なり、音楽家としての「腰が据わった」。表現をしたい、という気持ちがより強くなったのだと思う。欧州や北米のツアーを経験したことも大きかったのだと思う。有楽町のライブがはねたあとお話をさせてもらったときに、(日本のお客さんは)「おとなしいですよね」って言ってた。ちょっと物足りなさそうだった。だからきょうの第1部で、曲ごとに自然に拍手が湧いたのはとても素敵なことだったと思う。

第2部は圧倒的だった。来年発売予定の次のアルバム「Luminescent Creatures」の収録曲を「全部やる」ということだったけど、ほんともう、圧倒的だった。青葉市子は、表現のためならたぶんギターを弾かなくてもいい、というくらい思ってる。その兆候は3年前のオーチャードホールのときのキーボード演奏(アンコールのときだっけ)くらいからあったけど、きょうはたぶん半分くらいしかギターを弾いていなかった。ギタリストよりも表現者を選ぶべきだ、と思っているのでは。

そしてあの印象的な照明。サイリウムみたいな、綺麗だけど人工的なRGBの光。鋭いレーザー光。これまでの彼女のステージではありえないような、ホールの闇の中で暴れるそれらの光を従えて、黒い衣装で歌い込む青葉市子は魔女か巡礼者のようにも見える。まがまがしいSEと不協和音。普段の包み込むように天上から降るようなやわらかい発声を捨て、時に地声で歌われるフレーズ。いまだからしか歌えない歌がきょう歌われたと思う。

哀しく悲惨な終末の予感をはらんだこの現在の世界の行く末を想起し、強く意識して、でも一歩も引かず、くちびるを一文字に結んでフロントラインに立ち尽くす。その姿はまるで気高く雄々しい(おおしい)戦士のように見えた。青葉市子は前を向く。あした世界が閉じても。なんてなんて、なんて「アーティスト」なんだろう。

きょうの一夜はもしかしたら、ごく個人的な理由からあのような形になったのかもしれない。けれどそれをきょう集まった2000人はみな目撃した。どのように受け止められるかはわからない。でも、たぶん二度とない一夜。表現をする人の覚悟はほんとうにすごい。その凄さはみんなに届いたはずだ。終演後鳴りやまないあの拍手を聞けばそれはわかる。

2024/10/26

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?