Kohta.Watanabe

photographer/movieの暇つぶし文 ハウツーなどは基本ない。

Kohta.Watanabe

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最近の記事

そうして僕たちは小ささを求める。

僕たちカメラマン、特に人物や家族写真を撮る者たちの中ではある意味ではあるが大きいカメラに対する絶対的な信仰がある。 頑丈でメモリーカードを二枚させて常にバックアップがあり、AFは早く確実で絶対撮れて欲しい時に撮れなければならない。 それが商業カメラマンの求めるカメラの一つだ。 だが私は度々カメラは小さくなければならないと仲間たちに熱弁している。 上にあげた条件は私としては欲しいところではある。ただこれらを求めてくると、やはり堅牢性や電気が通れば熱も発するので筐体はどんどん

    • 写真家脳とカメラマン脳

      写真家脳とカメラマン脳の話を、僕はよく飲み会で話す。 写真で生計を立てる人間は、大きく二つに分類できるという話だ。 自分の感性や見たものを伝えたいという強い思いを持つ「写真家脳」。そして、求められたクエストを自分の技術でクリアし続ける「カメラマン脳」。 この二つは、同じ「写真」という大きな土台の上に立っているけれど、気質は全く異なる。 僕は「写真家脳」だ。常に自分の脳内にあるものをアウトプットしなければならない。そうしなければ、僕の脳はゴミ屋敷のように情報で埋め尽くされて

      • 戦い方を忘れた僕へ。

        これは、僕自身への遺書だ。 もう一度、自分を立ち上がらせるための、静かな祈り。 僕はカメラマンだ。 どこにでもあるスタジオで、どこにでもいるカメラマンとして働いていた。いまでも家族写真や記念写真を撮って、生活の糧を得ている。 大学2年の頃、ある日突然、親や周りの大人たちが敷いたレールに、何の価値も見出せなくなった。 あの頃、彼らはただ善意でアドバイスをしていたのだろう。 でも、僕にはその善意が、薄いプラスチック板のように透けて見えた。 そしてその後ろにある自分の意志もまた

        • 写真への熱意が、僕と他の人々の間で乖離している。 僕はカメラマンだ。もしかすると君はカメラマンではないかもしれないし、写真を撮ることがないかもしれない。 それでも、僕は写真が好きだ。とても好きだ。 写真を撮っていない僕は、まるで半分死んでいるような気もする。 君にとって生きることと同義のものがあるだろうか。急いで見つける必要はないし、それが物である必要もない。 僕はただ、写真を愛して生きる事と同義になっている。 それだけ今は理解してくれれば良い。 僕は、カメラマンになる

          陰鬱な煙草と温い珈琲と写真

          忙しかった秋冬を超え、2月に入り一瞬ではあるが暇ができた。 心身を削り撮影してきたがそのツケが回ってきたのか強烈な鬱の時期に差し掛かっている。 私は大層な人間では無いがクリエイターという存在の端くれである以上、私も何かを作る人間なのだが、クリエイターというものは極めて難儀な生き物で何かを生み出す為に何かを犠牲にする生き物である。 いわゆる等価交換。どこかの金髪兄弟が地面から槍を生やすのと同じように何かを犠牲にしている。 ある者は睡眠時間を、ある者は精神の健康を。 私はどち

          陰鬱な煙草と温い珈琲と写真