強く儚い者たち(岩田奎『膚』感想)
句集『膚』をいただいたので感想を残しておこうと思う。
句集の出だしがほとけの句であるのが素敵だと思った。しかもどちらも良い句である。そしてこの句集の方向性をよく示している二句でもある。
というのも、この句集に通底しているのは、この世の一隅を描いた瞬間の儚さと、そこに垣間見える、この世とあの世の境界だと思うからである。
一句目は実景よりは観念と空想世界に軸足のある句だが、二句目はことごとくこの世の実物を詠んでいる。この句集はおおかたこの二者を行き来するような世界で構成されている。そしてどちらも、人と、人の創るものの弱さで繋がっている。
こういった句では生死に肉薄した感覚を詠んでいる。
ことばという人間の道具、水蜜桃の妖艶な断面、金柑の人肌を思わせる質感、いずれも生死をつなぐ素材として丁度良い素材である。
しかし我々にとって共感性が強いのはやはり実のある句である。
雪の句は、起きてくる幼い子供を詠んでいる句だろうか。彼はまだ知らないが、私はもう知っている雪のこと。静かな内省的な抒情である。
かりそめの車はレンタカーのことだろう。述べ方ひとつでイメージは大きく変わる。磯遊びをする時間もまたかりそめのもの。
噴水の裸婦像は確かに誰かをかたどったようなものではない。「誰でもない」ことが重要になる場面というのは存在する。現代ならばなおさら。
美味しそうな壺焼でさえも、儚い側面を切り取ることができる。
私はCoccoの「強く儚い者たち」が好きなのだけれど彼の句たちはこのフレーズがしっくりくる。彼は儚い世界を強いまなざしで詠んでいる。しかし彼もまたこの世の儚い構成員の一人である。
因みに、彼は高校の後輩であり、大学の後輩でもある。それ故に常に意識している存在だったし、その才覚に嫉妬していないと言えば嘘になるけれど、それでも彼の才覚には目を背けられない力があると思っている。
これからも尊敬しつつ追いかけてゆきたい。