アモールとプシュケー〈3〉灯火
第3章 灯火
明くる日の夜──優しく深く求め合い、それから梢に宿るつがいの小鳥のように、ふたりは互いに寄り添い合った。
ともに俯せに寝そべり、寝台に両肘をついて半身を起こす。
アモールは、ヘラスだけでなく、青きナイルやペルセポリス、さらにはもっと遠くの不思議な習俗をもつ人々の国など、実に様々な土地を訪れたことがあるらしかった。
実際に見聞きしたことから伝承の類まで、話の尽きることはなかった。
なかでも、羽衣を隠されて地上の人間の妻となり、ふとしたことから羽衣を見つけて空へ帰っていったという天女の物語が心に響き、またあのおはなしが聞きたいと、毎晩のようにせがむプシュケーだった。語り終えたアモールの、寂しげな抱擁と口づけに、自分がその天女になったようで愛おしく思われるのだった。
美の女神のように麗しく、永遠の処女神である炉の女神のように慎ましく、世間に煩わされることなく良人とふたりで暮らしたという天女に憧れ、そんなふうに清らかで美しかったらどんなにいいだろうと、ため息をつくプシュケーだった。
アモールの語る異国の物語に空想の翼をはためかせながら、プシュケーは時折首を伸べて、暗闇のなか唇でアモールのそれを探した。小鳩がついばむようにくすぐったく、アモールはやわらかく笑みを含んで唇を差し出す。そしてふたりはともにほほえんで、肩を寄せ合うのだった。
今度はプシュケーが、故郷のことを話す番だった。家族で慎ましく食卓を囲むこと。楽しき兄姉らの中でも特に気の合う、二歳違いの兄がいたこと。その兄とふたりして、おぼろげにしか思い出せない詩の一節を探し当てようと、書庫の書物という書物をひっくり返したこと。葡萄の収穫祭、朝露のおりた野の香り高い花々、一番初めにきらめく曙光のこと──。
軽い羽がかすかにそよぐ涼やかな心地に揺られながら、眠りの陽だまりに浸されて、ふたりは静かに夜に身をゆだねていた。
ふと、プシュケーは耳をそばだてた。
「アモール…? いまなにか、音がしたような気がして…」
「音…?」
「なにか、羽ばたくような──それとも風の音…?」
「──ああ…そうかな…きっと、窓の外で鳥が羽ばたいたのだろう」
少しけだるげに、アモールはつぶやいた。それから、急になにかはっとしたように身体の向きを変えた。
「…ね、今また。扇ぐような…風かしら…? 外ではないわ」
ここに来て初めてのことだったので、身構えたプシュケーはアモールに身をすり寄せた。未だ謎めいた宮殿だった。
「…いや、私には何も。きみは耳がいいのだね…大丈夫だ…ここには悪いものは近づくことはできないから──けれど、そろそろ眠ろうか…今日は疲れたんだ……」
「そうね……」
眠たげなアモールは、けれどわざわざ半身を浮かせ、妻を抱きしめて、大丈夫だ、ともう一度つぶやいた。
プシュケーも良人の背に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。ほとんど眠りかけているアモールの脇腹に敷かれた腕を、自身も眠気とたたかいながら、なんとか引き抜く。仰向けになってくれたのが、ありがたかった。
いつもなぜか先に眠りに落ちてしまうのを訝しんでいたプシュケーだが、今日こそは眠るまいと懸命に目を開けていた。知恵の女神アテナの鳥、梟の丸い眼を思いながら。
先ほどの羽ばたきの音も気になっていた。窓の外どころかすぐ近くで聞こえたはずだが、鳥でも迷い込んだのだろうか。小さな鳥のせわしない羽音ではなく、なにかもっとずっと大きな翼の立てる風のようで、けれどそれにしてはごく軽くかすかだった。そういえば、アモールが掛けものの居ずまいを整えただけなのかもしれないとも思えてきた。
「プシュケー……まだ、起きているの…?」
眠たげな、ゆっくりした調子でアモールがささやく。
プシュケーは何も答えず、息をひそめていた。
「もう、眠ったの……?」
森の奥、郭公がふと黙り込んだあとの静けさのように。
アモールは眠り込んでしまったようだった。
しばらく息をひそめたのち、暗がりのなか、そっと腕を伸ばして、手探りでアモールの肩先にふれてみる。そしてやわらかな頬にふれる。
首もとや耳朶にそっと指を添わせると、アモールはいつもくすぐったそうにほほえんで名を呼び、やさしく抱きしめ返してくれるのだった。けれど、いまの彼は身じろぎもしない。
肩先に頬を預けると、アモールのやわらかな髪が瞼にわずかに触れる。するとどこか遠くで星のかがり火が、一面の花園から一輪を探し当て、うす青い花びらの縁を淡く燃え立たせるのだった。
愛おしさで胸がいっぱいになり、プシュケーは身を起こすと、良人の頬にそっと口づけた。ぎゅっと抱きしめたくなるのをこらえ、ためらいがちな両の手のひらで頬を挟んだ。
たとえば自分の身体のどこかが痛む時であろうと、これほど優しく心を込めて触れたことは一度もない──それなのに、アモールにふれるときは、いとおしい気持ちを静けさに変えて、そっとふれたくなる──その不思議を、味わいながら。
揺り起こして、もう一度抱きしめてほしいと思うけれど、この静けさを味わっていたいとも思う。
プシュケーは、ゆるやかに波打つ髪を後ろへやると、良人の肩から続くしなやかな腕に頬を寄せて身体を横たえた。
眠りに憩う人の安らかな面差し、とりわけ、波立つ感情や世事のせわしさを離れて休らう瞼を眺めているのが好きだ。アモールはどんな顔をして眠っているのだろう…ちらりと、思い浮かべるでもなく考えてみる。
それから、夕刻に唱えた、アフロディーテと若き恋人アドーニスへの讃歌をふと口ずさむ。不意に気恥ずかしくなってアモールに向けては口にできなかったその詩片は、花々の咲き匂う木陰で交わされた、甘やかな誓いと戯れの調べだった。
その、優しい花の香りのような静けさ。
初めてこの宮殿に運ばれてきた日の、夜のことを思い出す。
あの晩、うとうととまどろみかけた彼女の傍らに、アモールがそっと身を横たえたのだった。
それは、誰かに触れられたというより、甘く清らかな春の香りに取り巻かれ、花びらのかけ布にくるまれたような心地だった。プシュケーは、声を上げることも身構えることも忘れて、胸深くその香りを吸い込んだのだった。
彼女はよく花々の傍に跪き、細い茎をひととき休ませようと、花冠を手のひらにふわりと抱くことも多かった。そのため、花の精がそれと同じことをしてみようと、気まぐれに現れたのかもしれないとも思われたのだった。
優しさというものに香りがあるのなら、きっとこのような、やわらかな香りなのだろう。それはどこか月の光のように、甘く密やかだった。
外は、おそらくもうそろそろ満月を少し過ぎた頃。こんな夜更けには、天頂に月が光を咲かせ、窓の外は明るいのだろう。
窓の垂れ布を開ければ、部屋の中にも光が差すのだろうか。
プシュケーは首をもたげると、窓のある方を透かし見た。
その少し前、宵の口に──彼女の心からの嘆願に負け、アモールが重い口を開いたのだった。
両親に、彼女の無事をそれとなく、早い段階で知らせてくれていたのは、まずひとつ安堵だった。
ゼフュロスが使いに立ったとのことだったが、西風の神の突然の来訪に、ふたりはさぞ肝をつぶしたことだろう。
近いうちに、両親と顔を合わせて、幸せに暮らしていることを伝えたい。
けれど、仮に再会できたとしても、良人が何者なのか、確かなことは何も説明できない。
何より、わたしはなぜ、姿さえ見せようとしないひとと、こうして暮らしているのだろう。
暗闇の中でさえ、アモールが人間であるようにはとても思えなかった。春の精のようにも思われたが、西風の神と親しいようだから、あるいはその眷属なのかもしれない。愛の神クピードの神殿に捧げられる、薔薇や百花の花飾りと同じような香りが、その肌からやわらかく立っていたから、もしかしたら愛の神に連なる存在なのかもしれない。この立派な宮殿からすると、神と人とが血を分けた半神か、その血を濃く受け継ぐ王族かなにかなのだろうか…。それとも、若い男性というものはみな、このような甘い花の香をまとっているのか。
わたしはいつ、このひとに見初められたのだろう──なにもかも、わからなかった。
灯りがないとはいえ、これほどまでにまったく見えないというのも不自然だった。おぼろげな輪郭くらいは見える時があってもいいはずだ。それも、この宮殿の不可解な事柄のひとつだった。
姿を見ないでほしいと言われたけれど、目も鼻も口も人間と変わらないようだし、怪物のような恐ろしげな顔立ちにも思えない。そもそも、どのような容貌をしていても、心変わりするわけでもないのに。
それとも、心ならずも何らかの罪を犯した人なのだろうか……あるいは、お父様に敵対する国の人なのか。
それにしても、顔を見ただけでは、何者なのか、わかるはずもないだろうに──。
ふと、書物に記された異様な物語が脳裏をよぎり、プシュケーは刹那、ぞっとして身を震わせた。故郷の書物庫で偶然手に取ったそれは、人目を忍ぶべき内容だった。読まない方が良いと思いながらも、どうしてもやめることができず、片手で巻物を広げ、片手で軸に巻き取りながら、息を潜めて読みふけったのだった。それらは、詩人らによって、まことのこととして詠い継がれてきたもので、あらましだけは風聞としてすでに誰もが知っていた。
双子の兄への邪恋に身を焦がし、拒絶され続けた果てに己の涙に溶けて泉となったビュブリス。
愛欲を抑えかね、妻の妹を小屋に監禁して通い詰めた、トラーキア王テーレウス。その残忍な仕打ちと、姉妹による恐るべき復讐劇。
父王への抑えがたい恋情に苦しんだ末、祭りの夜に身を偽り、暗闇の中で酒に酔った父に抱かれて、且つは絶望し且つは背徳に悶えながら罪の子を宿したミルラ。
それは、愛の矢をもってすべての恋を司る愛神クピードさえ、関与を否定したという罪業だった。
けれど、恋情に燃える唇が熱烈に唱えた祈りは、時にアフロディーテの心を動かし、有り得べからざる力をその者に与えるという。たとえそれが人の道にもとることであっても。
アモールほどやわらかく心地よい声を聞いたことは、これまでに一度もないと断言できる。
けれど、女神にしてみれば、恋の顎に差し出された悲運なる生贄の、耳を欺くなどたやすいことだろう。
故郷での暮らしのうちに、とりわけ親しくしていた兄の姿が目交いをよぎる。
このひとは一体、何者なのだろう。なぜ、あくまで素性を隠し通そうとするのだろう。
何者なのかと訝り惑ってきたけれど、もしや誰よりも良く知る人物だったとしたら。
わたしは毎夜、罪の手に抱かれてきたのだろうか──怖ろしさに身をすくませ、震えながら、プシュケーは掟の女神テミスに加護を祈った。
心を落ち着かせようと、何度も深く息を吐き、吸い込んだ。そのたびに、ふわりと、優しげな花の香りが鼻腔をくすぐる。
おそるおそるアモールの肌に頬を寄せ、なめらかな肌からそよめきたつ芳しい花の香りを深く吸い込んだ。
アモールは、不浄なる事柄に手を染めるようなひとには到底思われなかった。
きっと、これらすべては、思い乱れた心に取り憑いた悪夢の神のつぶやく譫言には違いない。
けれど、良人が何者なのか、知らずに生きていくことなど、できようはずもないのだ。
それに、白い神殿に現れるあの死の天使を、ほんものの良人の姿と入れ替えたかった。
アモールの口づけを受けながら、高まり合うと別の腕に抱き取られてしまう。二心を抱いているようで、プシュケーはひそかに罪の意識に苦しんでいた。
プシュケーは良人の腕を離れ、臥所から抜け出した。
わたしは今から、おそらくはこの宮殿の主たるひとに、背くのだ。
怖ろしさに気もそぞろになりながら、絹の衣を頭からかぶる。手は無意識に、余った布地を脇にやり、ひもで腰回りを結わえていた。
間仕切りの厚い帳を何枚もかき寄せ、裸足のまま廊下に出る。真夜中の宮殿は静かで、穏やかなまどろみに憩っていた。なにか冒涜にも似た罪の意識にふるえながら、薄暗がりに目を凝らす。ふだん食事をとる部屋の寝椅子のところに、燭台があるはずだ。
壁際にか細い蝋燭の炎が揺れている。それをたよりに燭台を探し当て、蝋燭の炎を移した。手首に重みが掛かったが、おそらく耐えられなくなるほどではなさそうだ。
白い壁をたどって寝室に向かいながら、自分が夢遊病者のように青ざめ、今にも白煙となってかき消えそうな気のするプシュケーだった。
寝室に戻り、燭台を掲げると、炎が移らぬよう天蓋の帳を注意深く寄せて、良人に近づく。
高鳴る鼓動が夜を圧し、鳴り響いて彼を起こしてしまうかと思われた、長い一瞬の後。
まどろむ良人の顔に光がさした。
そこに照らし出されたのは、生きとし生けるもののうち最も優美なる生き物、愛の神クピードそのひとだった。
プシュケーは、刹那、息ができなくなって、浅く喘いだ。
一度でも神と交わった人間は、精を奪われ命を落とすと聞いたことがある。一夜にして老いさらばえたという話が、王宮の侍女たちの間で、まことしやかに語られるのも耳にした。
わたしはまだ本当に生きているのだろうか。目も綾なる甘美な日々は、もしや死後の夢なのではないか。
部屋に忍び込んだ日の神に意のままにされ、男を引き込んだ廉により厳格な父王の手で生き埋めにされた王女レウコトエー。密告者クリュティエは、裏切ったヘリオスになおも焦がれるあまりにやつれ果て、野原をさまよいながら天露と己の涙で渇きをしのぎ、やがて野の花になったという。
また、ゼウスにより純潔を奪われたカリストーは、怒れる妃ヘラによって黒い熊に変えられ、自身の唸り声に怯え野の獣に震えながら野山をさすらい、男を知った咎により処女神アルテミスの制裁の矢によって射殺されたという。
何か、おそろしい禍が身に降りかかるに違いなかった。
ふるえ慄く身体もそのままに、けれどプシュケーは目の前のそのひとから目を離すことができなかった。
──では、神の顔とは、これほどまでに美しく気高いものなのだ。
内側からやわらかく光のさしいづる無垢なる面差し。雲に恥じらう暁さながらに、象牙の肌をかすかに染める薄紅の頬。そこから続く形のよい顎。優美なる面輪と耳朶に、やわらかな茶色の髪が乱れている。瑞々しい唇は、安らかな微笑みをたたえ、規則正しい寝息を立てていた。どこかあどけなさにも似た若々しさは、朝露に芽ぐみ、萌え出たばかりのうすやわらかな新芽のようだった。
長い睫毛が、なめらかな肌に影を落とし、蝋燭の炎のゆらぎにつれて揺れながら、永遠の愛の神秘をささやいていた。
蜜蝋が溶けて燃え薫る、かすかに焦げた、甘い香りの中で──。
──自分はこのひとの抱擁を、愛撫を日々受けていたのか…この唇が自分の名を熱くささやき、口づけを交わし合っていたのか。
圧倒的に勝り、天の高みにいる神が、人間を心から慕うことなどあるのだろうか。このつまらぬ人間の身を抱いて我を忘れ、恍惚に抗おうとしながら身を任せていたのは、本当にこのひとなのか。
そのようなことがあろうとは、にわかには信じられなかった。
その眼が閉ざされていてさえ、畏怖を感じるのだ。瞳に見つめられたら、どうにかなってしまいそうで、夜に憩う美しい瞼が開くのが恐ろしかった。
その時、まどろむ神が首をわずかに傾け、身じろぎをした。
腕が震え、プシュケーは膝の上にくずおれそうになり、慌てて重い燭台を握り返す。炎を吹き消さなければ。
と、蝋の熱い雫が一滴、そして続けて滴り、神の清らかな頬の上に流れ落ちた──。
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