『アモールとプシュケー』あとがき|アモール編
それぞれの登場人物の特徴・設定の背景を解説する記事。今回は愛の神アモールです。
エロス、クピードー、キューピッドなどさまざまな名前で呼ばれ、古来より、幼児から壮年まで様々な姿で描かれています。細かい説明は省きますが、古い時代には、カオス(空間)、ガイア(大地)、タルタロス(冥界)と並ぶ四人目の原初神。
と描写される青年〜壮年の神。最も力のある神とも言われていたようです。
一方、時代が下りローマ神話の頃になると、美の女神ヴィーナスの息子でいたずら好き(というかほぼ悪童)、という、小さな天使のような姿となりました。
今回のアモールの人物造型は、いろいろ読んでぜんぶミックスしました。頼りになるようでならなかったり、いたずら好きのところもあったり。
基本路線があくまでも優しい恋人…になっているのは、それが本質的にみんなが望んでいるであろう恋愛関係だからです。
アモール...受苦の愛(=利他的な愛)
クピード...情熱的な欲望(=利己的な愛)
エロース...原愛
恋の矢を放って人々を恋に陥れるという役割から、クピードという呼び名はやむなしとは思うのですが、「欲望」の二つ名で呼ばれて、心中穏やかならぬものがあるのでは...などと外野ながら思ってしまいます。プシュケーに、アモールと呼んでほしいと言ったのも、彼としてはそのような性質でありたいと願えばこそ、ではなかったかと思っていて。
そのあたりから、プシュケーに「アモール」と呼ばれるのが無上の喜びなのではないかと思ったわけです。プシュケーになつく猫、みたいなイメージもどこかにあったり。
愛の神(恋心と性愛を司る神)なのに、配偶神はプシュケーのみ、というのが不思議といえば不思議。ギリシャ神話時代のエロースは「愛」を神格化した存在なので、あまり人格を持った存在としては扱われなかったのでしょうけど...。他の原初神やゼウスあたりは、いろんな神々を誕生させ分化させる必要上とても多産なのですが…。
アモールが恋の矢で手傷を負ってプシュケーを恋するようになった、というのが通説のようですが、ここは少々不明瞭。
アプレイウスの翻訳本を2冊読み比べてみると、(比喩として)恋の矢に刺されたようなものだ、と述べている(ように思われる)訳と、実際に恋の矢のせいだと明言しているものと、解釈が分かれているようです。
前者の訳では、物語の中盤(冥府に行く前)に、プシュケーはアモールの子どもをすでに授かったと書かれていて、後者だと、いずれそうなるだろうから、と書かれている……という違いもありました。ラテン語はわからないけれど、動詞の時制や助動詞の活用の関係で不明瞭なのでしょうか…。
プロローグでは神的な、人間のプシュケーを圧倒してしまう彼も、プシュケーが居心地よくなるように《神様出力》を徐々に絞っていき、だんだんふつうの恋人のようになっていきます。そしてさらにアモールは、プシュケーを愛し、同質化したいがために、だんだん人間的になっていき、溶けたロウ(約70℃)でやけどするようになる。ちなみに、70℃というのは偶然にも、人間が1秒で火傷しうる最低温度みたいですよ。(一応調べました)
彼は《愛》の神なので、愛にまつわる様々な要素をひとつひとつ体験していくことになります。
共感→同質化したり、時に暴走して自分のために愛したり、相手のために愛したり。愛が募ると心中したくなったりとか🤔
私が個人的に是非とも!と願っていたのは、アモールが「本当の愛とは」という課題に、際限なく駆り立てられる道から降りてほしかったこと。永遠に追求し続けるのはちょっと酷なので...。プシュケーを「本当の愛を知っている人」に見立てて、その人を愛することで「足るを知る」ほうがいいと思うの。
もちろんプシュケーにも「本当の愛とはなにか」なんてわからないとは思いますが。
でも、私の期待は半分しか叶わず、結局アモールは、人類ひとりひとりを愛するという汎愛/博愛への道を勝手に歩み始め、著者権限で止めることもできなかったので、彼らしい道を歩んでいってもらうことになりました。
(あの、人類を…と、書きましたが、たぶん生き物みんな含まれそうに思ってます。)
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