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着物にかかった「気にし過ぎ」という呪い

 誰もあなたを見ていない。

 これが腑に落ちるまで、好きな服を着て出かけることにずっと抵抗を感じていました。特に着物は珍しいために目立ってしまう気がして、見られてる気がする、着崩れて変になってないかな、なんて。悩みを抱えながら着物で買い物したり旅行に出かけていたので、心の底からファッションを楽しんでいたとは言えませんでした。

 そんなこんなとしているうちに、着物の暮らしを続けて7年が経ちました。今なら過去の自分にこう伝えてあげられそうです。「節子、それ変やない。気にし過ぎや」と。

 誰かのために装うこと、その場に馴染む装いに調整することは、他者を慮るという一種の儀式のようなもので、気苦労は多くなります。TPOに合わせるというやつで、冠婚葬祭に何を着て行くべきかいまだに私は不安になります。

 けれど、秋めいた気持ちのいい日和だからと着物で出かけるのに、そんな悩みは似合いません。


 とはいえ、着物が目立つのは事実です。人は一瞬だけ視線をこちらに向けるでしょう。けれど、私だって高級車が通れば目で追いますし、きれいな花が咲いていたら立ち止まってしまいます。お散歩している犬を見つけると、可愛すぎてにこにこしながらガン見してしまいます。それと一緒です。すれ違う人々は、ただ着物姿が素敵だから見てしまうだけ。
 
 わたしのような心配性は「自分の着物姿が変だから見られているのではないだろうか」と邪推してしまいがち。そこまで卑屈にならなくても、と思ってしまします。それに、もしそうだったとして、だからどうしたというお話です。着こなしが変だと感じるのは相手の主観であって、私が気にしなければ問題ないはずなのです。

 街で色んな人とすれ違うけれど、家に帰ると誰一人思い出せない。他人への関心なんてそんなものなのです。むしろ、ガラスに映った自分の着こなしの方が注意をひくもので、人は自分のことしか見ていないのです。

 それでも自分の着こなしに自信が持てずに不安だという方は、以下の方々の着こなしを参考にしてみてはいかがでしょうか。美的センスに裏打ちされた遊びや抜け感、エッジの利かせ方が素敵なんです。


 「着物は目立つ」と思い込んでしまうと、少しのミスも許されないような切迫感を感じることもあります。 

 わたしが着物を着始めた頃、細部までルール通りにしなくてはいけないと思い込んでいました。長襦袢が着物からはみ出しているだけで大事件!みたいな・・。あれは、着慣れない着物で京都に行ったときのことです。散策中に襦袢が袖からひょこっと顔を出していることに気づいた私は「大変だ!これじゃ人前を歩けないっ」と大焦り。なんとか応急処置をして観光を再開できましたが、その後ずっと着物の袖が気になってしまって、ガラスに映るたびに襦袢が出ていないか確認する始末…。寺院や景色にまったく集中できませんでした。今なら言えます。「節子。以下略」と。そんなところ、誰も気にしていませんでした。

 ※襦袢の袖飛び出る問題への応急処置について、簡単に書いておきましょう。襦袢の肩線上のどこかの生地を摘まんで輪ゴムで留める。これだけで、襦袢の袖の長さが数㎝短くなり着物の袖の中に納まるようになります。どうして都合よく輪ゴムなんて持っていたかって?パックのお団子を食べている最中だったからです。ほんとはのんびり趣を感じながら味わいたかったのですけれど…。

 着物で「気にし過ぎ」てしまったエピソードには事欠きません。着物初心者の頃は、着物の下に着ているものは死んでも見せないのが鉄則だと信じていました。ゆったりしたサイズ感が着物の魅力なのですから、その下に着ているものがちらっと見えてしまうのは自然の摂理なのに…。長襦袢のさらに下、Tシャツやステテコといった肌着も、まるで幼いナウシカが王蟲の幼虫を庇うように、必死に隠そうとしていました。

 着ているものを隠そうと鼻息を荒くしていては楽しくありません。せっかくの着物でお出かけしているのに、これじゃ風情もへったくれもありませんから。見えてもいいと、おおらかに構えるくらいがちょうどいいと思います。ものごとの捉え方、受け止め方が変われば世界が一変するといいます。ものは考えようというやつで、ピンチがチャンスになったり、景色が美しく見えたり、些末な着物の袖口問題なんて気にならなくなる、といった具合に。着物姿が目立つのも、襦袢が袖から出てしまって変なのも、自分がそう受け止めているだけだということにさえ気づくことができれば、息がしやすくなるのではないでしょうか。


 なぜか着物になると、普段の衣服では気にしないようなことに頓着してしまうようです。人の視線しかり、着こなしや肌着しかり。そして、着崩れるという着物に特有の現象にも、神経をすり減らしてしまう人が多いように感じます。

 着物は紐や帯でシンプルに巻いて留めるだけの衣服です。着崩れるということは、林檎が木から落ちるのとなんら変わらない自然の摂理というものです。

 そもそも、着崩れることは悪いことではありません。歩いたり座ったりすることで生じる圧力を逃がし、着物の生地や縫い目のダメージを抑えた結果、着崩れが起こるのです。決してあなたの着付けが悪いわけじゃありませんし、着物という衣服のデメリットというわけでもないと思うのです。それに私は、朝しっかりと着つけた時より、帰宅した時の適度に着崩れた装いの方がこなれた雰囲気に感じられて、なんだか好きです。


 はじめてのものごとに不安はつきものと言います。お化粧、おしゃれ、習い事、就職、人間関係、なんでもそうです。そして、その先達たる経験者から「心配し過ぎ」と言われても、その失笑では不安はぬぐえない。とはいえ、本日わたしが述べたものはどれも自信のなさが原因なものばかりでした。着物にまつわる「気にし過ぎ」という呪いを解くには、たくさん着て、楽しい思い出を作り、経験を積み上げることが一番ではないでしょうか。

 この記事が、そんな呪いを解く最初の一歩のお手伝いになれば幸いです。みなさんの暮らしが、より一層素敵なものになりますように。

 終わり


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