5月も終わり
5月が終わってゆく。
最近は涼しい風が吹く日が多くてとても過ごしやすい。こういう日は近くの芝生に座って誰かと軽くお酒を飲んだり音楽を聴いたりたわいのないことを話したりしたい。とは言え、それを誘うような友人は近くにいないし何よりも社会的・健康的な事情としてあまり推奨されていない。残念だなと思いながら、今日も夜散歩をしていた。
散歩をしながらいつもぼんやりと考えごとをする。日々について、過去の出来事について、この先について、誰か他人について…。ことさら熱心に書き留めるまでもないけれど考えないわけにはいかないような、そういうことについてよく考えている。考える時間は何となく心地が良い。
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自分は一人だなとよく思う。もちろん、現実的な意味合いで一人ではある。一人暮らしをしていて、家族が近くにいるわけでもなく、普段から誰かと頻繁に会うこともない。この意味で、自分にとって一人でいることは日常的な状態だ。
それとは別に、人生で一人だなということを強く思うようになった。誰かに頼らないとか、人に会わないとかではなく、単純に「一人なんだな」と思う。
この頃、俳優のインタビューの記事を抜粋したtweetを目にした。そこには「人生はクソだ」というような感じのことが書かれていて、俳優でもそんな風に感じるんだなどと考えながら僕はその意味を改めて反芻していた。ELLEGARDENが "Mr. Feather" という曲の中で "my life is shit" と歌う場面が、ふと思い出される。もう十年以上も前に聴いていた曲だ。
この人生について考えるにあたって、そしてそれを具体的に生きていくにあって「一人なんだな」と感じるわけで、それは何というか複雑な感情なのだった。悲しいとか、嬉しいとか、空しいとか、どれか一つというよりもどれも少しずつ混ざったような、微妙な心模様である。
よくわからないけど、とりあえず生きている。どうして生まれたのかもよくわからないし、どんなふうに生きていけばいいのかもよくわからない。人生の意味が別に与えられるわけでもなく、かといって何もしなければそれはそれでまずい。生きていくには食べていかなくてはいけないけれど、それだけでは足りないことがほとんどだ。他人と会わずに過ごすことは非現実的だし、すると結果的にマナーや慣習というものが必要になる。
もちろん、育った環境で身に着いたものがあるから、それに中が無意識に従う場合がほとんどだけれど、しかし同時にそれが微妙にズレてしまったりぎこちなさを感じたりすることもある。でも、それが何のためにあるのかもよくわからない。しかも、それは日常の隅々まで浸透していて、人の生き方そのものの評価軸になっていたりもする。社会と言ったらいいのか、それを無視して生きることは難しい。あるいは、それを無視して生きることは難しいような社会に生きているとも言えようか。
かといって、どのように過ごすのかについて、どう生きていくのかについて別に正解があるわけでもない。人生の目標とか指針とか言うレベルのものはもとより、どういった仕事をするとかどういう趣味をやるとか、より具体的な場面においてもそうだと思う。この意味で、いろいろと一人で考えていかなくてはいけないんだなと思うようになったし、というか、これまであまりそういうふうには考えてこなかった気がすると思い至って、結果として複雑な感情を抱えながら「一人だな」と僕は考えている。そして「人生はクソだ」という言葉の意味についての思いが巡るのだった。