ある範囲で共有されている何か
イモトアヤコさんのインタビューを読んだ。印象的だったのは次の部分だ(最終閲覧日、2019年11月27日。強調は僕によるもの)。
ミャンマーの小さな村でロケをした時に、合間に地元の子どもたちと遊ぶうち、2人の男の子と仲よくなったことがあります。ロケが終わって帰る時に、彼らはサドルもブレーキもない自転車で2人乗りの立ちこぎをして、追っかけてきてくれたんですよ。ブレーキがないから岩にぶつかって止まって、転んで笑って。それで、ミャンマーのお菓子をくれたんですね。持ってるお菓子を全部。小学生ぐらいで一番食べたい時期だろうに、いいのかなぁって思いつつ、でもせっかくだからいただきました。お返しにこっちも日本から持ってきたお菓子をあげたんですが、切ない感じがしました。たぶんあの子たちは、もらったものも村のみんなで分けるということで生きてきた。一方、私たちは所有することへの安心感で生きている。すべてを捧げられる心を持ってる子たちが豊かで幸せなんだろうなあ、ってすごく思いました。ただ、お金で買える幸せとお金で買えない幸せ、どっちがいいかは正直、私はわからない。お金で買える幸せをも知ったうえで、どっちを取るか自分で選択できるのが一番いいなあとは思います
印象的だと思った理由は二つある。一つ目はインタビュー内容自体についてだけれど、僕には所有することと分け与えることという違いの提示が興味深かったからだ。生きる上での安心感や幸福感をどのようにして得るのかという手段に関して言えば、おそらくそれらは世界で地域ごとに異なる様相を見せるのだろう。イモトアヤコさんが「私たちは所有することへの安心感で生きている」と言っているように、「私たち」として括れるような範囲があるのだろうし、僕自身もその「私たち」に含まれているような気がする。
そのうえで二つ目の理由だが、それは「私たち」とはいったい誰なのかと思ったからだ。この指摘は引用した記事に対するものではなくて、個人的な問題意識としての指摘だということをはじめに断っておきたいと思う。
アイスランドでの生活において発生する他者とのコミュニケーションの中で、自分はある種の「違い」をよく感じる。だけれども、それをどういう風に理解し説明したら良いのかが、僕にはまだよくわからない。例えば物事に対して曖昧な返事しかせず、あまり積極的には関わらない僕の態度について、ある友人Aは「とてもJapaneseだね」と言った。
僕の行動の理由として、Aは「Japaneseである」ことを対応させたと言えるだろうか。なぜ僕は物事について曖昧な返事しかしないのか?なぜならば僕がJapaneseだからである、と(もしくは、行動の責任を僕個人ではなくてより大きな構造に帰するための発言だったかもしれないが…)。
Aの「とてもJapaneseだね」という言葉に対して僕は納得することもあるし、しないこともある。納得するのは、Aが指摘するような傾向を僕自身が持ち合わせているだろうと感じるからだ。しかし納得しないのは、それがJapaneseだからなのか?と疑問に思うからだ。Japaneseの中でも、僕とは異なる行動をする人もいるだろうし、簡単に一括りにすることはできない。それに、単に僕の性格の問題でもあるかもしれないし。
それでもそうした言い方がなされるとすれば、それはある相手の特定の行動が自分自身の予期するものとは異なっていて、かつそれが相手にとっては「当たり前」である場面があるからだろう。別の例えで言えば僕がAの顔を伺うような行動をしたときにも「とてもJapaneseだ」と言われる。Aの「まずは自身の主張をすることが大事なんじゃないの?」という指摘とともに。「自身の主張をすること」はAにとってはある程度当たり前かつ重要なことで、他人の顔を伺うようなことは自分とは「違う」と思うのだろう。もちろんどちらが良し悪しという話ではないけれども、少なくともAとは僕との間には「違い」があるように思える。
こうした「違い」をどう理解すれば良いのか、自分にはまだよくわからない。文化が違うからだというのはありえそうな説明の仕方だけれど、そのように言うことは、それが共有されているある範囲が存在すると言うことにもなりそうだ。ある範囲で共有されていて、それが人々の行動に影響を与える何か…。こうしたことに僕は興味があるし、調べてみたい。それをどう描くことができるのかも含めて。
そもそも、こういうものを「違い」として見出して考えてみること自体が適切なのかも疑問なのだけれども。話を戻せば、誰か特定の人の行動を説明しようとする時に、「文化」や「国民性」「習慣」といった言葉を持ち出すことで一定の納得を得ることができるのかもしれない。その上で、ではそうした「文化」や「国民性」「習慣」を説明可能なものとして提示するとしたらどうすれば良いのか、そしてその括り方は適切なのか、という点が個人的には気になっているということかな…。
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