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マイ・ラスト・ソング 歌謡曲が街を照らした時代 浜田真理子(歌・ピアノ) 小泉今日子(朗読) 三越劇場 2016.05.09.
東京公演は4年ぶりとのことですが、開催された年のうち、2010年以外は足を運んでいるからか、久しぶりという気はしませんでした。ただ、この演目に対しての僕は、毎回、初めて来たような気持ちで臨みます。
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例えば、好きなレコードを何度も聴くこと。好きな映画を何度も観て、好きな本を繰り返し読むこと。わかっていても、あるフレーズで、ある歌詞で、ある音で、感動します。知っていても、あるシーンで、あるセリフで、ある言葉で、描かれる世界に感動します。毎回、毎回、です。
曲や映画、本は、いつだってそのままでそこに存在しますが、それを聴き、観て、読む自分は、聴き続けて観続けて読み続けて成長します。その経過した時間の分だけ、確実に何かが作品にプラスされ、そのときの自分がそれに触れることで、プラスされた何かを受け取ります。受け取ったものは何か?言葉や文字にできるものもあれば、アタマや心の中だけに生まれるものもあります。100人いたら100通りであり、" 何か " の定義は決められません。ただ、こうしたことを繰り返し、人は道を進んでいくのでしょう。
マイ・ラスト・ソングから受ける感動も、これらと似ています。その都度で設定されるテーマで色付けがされますが、2008年の第1回から柱となるプログラムは不動です。しかし、それでも、またしても久世光彦の言葉に、小泉今日子の声に、そして浜田真理子の歌に感動してしまいます。繰り返し観てきたことによって増してきた舞台と自分、それぞれの深みや想いが、同じ演目を毎回違う景色に変えてくれるのです。
真理子さんはエッセイでこう書いています。
ラストソングを考えるのは生きているからだ
自らの人生を振り返り、そして、
これからをどんな風に生きていこうかと考えることでもある
マイ・ラスト・ソングと一緒に生きて、共に時間を重ねていることの喜びを感じます。<2016-05-10 記>