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八月のフロッタージュ おおたか静流 meets 浜田真理子 下北沢日本基督教団東京都民教会 2017.02.25.
ステージ上、正面には2本のスタンドマイク。向かって左にはピアノ。おおたか静流と浜田真理子。お互いのソロ・パートがあって、そしてセッションがあって…。これまでのこうした類のライヴに対して持っていたいつものこんな気持ちは、おおたか静流と浜田真理子がステージに立った時点で崩壊した。
おおたか静流はわかる。しかし、浜田真理子までがスタンドマイクの前に立ったからだ。
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『八月のフロッタージュ』と題された今回の企画。サブ・タイトルの「女の交換日誌」と、フライヤーにある “ 歌と言葉で綴れ織るふたりの女の触れあい物語 “ 。まさにこのとおりであり、舞台演出をバッチリ決めたホールでの再演を観たいくらいのプログラムだった。
この日に向けた日々の、お互いのメールのやり取りが朗読される。企画発案の初期から本番に向けての双方の気持ちや思いのキャッチボール。そこにはいい意味で緊張感はなく、ヘヴィさも感じられない。もちろん実際には煮詰まりや苦しみもあったのだろうけれど。朗読と歌が交互に登場するが、どちらかが主役ではなく、どちらも主役であった。
擦りとるという意味の絵画の一方法をフロッタージュと言うらしい。この日に擦りとられる対象は「八月」。ふたりによって歌われる曲にはいくつかの反戦歌。更に茨木のり子、竹内浩三、それぞれの詩にメロディがつけられ歌われた。これらから記号的に企画意図をくみ取るのは可能だ。しかし、公演中は特別に限定された内容を感じることはなく、ふたりの歌に酔い、書簡の朗読に引き込まれた充実の時間だった。
二人は明確に企画の意図を決めて観客に伝えたい、伝えなければならないと思っていたのではなく、あの場にいた人の数だけの受け取りよう、伝わりようがあるのを知っていたのだろう、きっと。
「八月」とは孤立した七月の翌日とか特定の時間ではなくて、
春夏秋冬を生きる日々の記号のこと。
それゆえに歴然と、私たちに「八月」があり「夏」がある。
前述したフライヤーにこう記されていたことも僕がそう感じた理由である。おおたか静流と浜田真理子のふたりも、それぞれの八月を擦りとったはずだ。
それにしても、竹内浩三の詩にメロディを付けた曲。どう聴いても浜田真理子だった。ワルツだったこともそれを強力に印象付けた。今後もレパートリーとしていけるのではないだろうか。
そして何よりも素晴らしいと思ったのは、ふたりの歌と声の力だ。いわゆる良い音楽を良い音楽として提示してくれるからこそ、そこから僕たちは様々なものを受け取ることができるのである。
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おおたか静流はメールの中で「教訓Ⅰ」を沁みるといっていた。浜田真理子は「悲しくてやりきれない」に祈りを感じて涙したという。この2曲を共有できたことに、僕は幸せを感じる。<2017-03-02 記>
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