元レズビアンがカトリックに転会するまで
幼心に感じたキリストへの愛。しかし成長過程で自分の弱さを自覚していくうちに、キリスト者として生きることの難しさに直面し、途中で挫折してしまうキリスト者は少なくないのではないでしょうか?
プロテスタントのクリスチャンとして育ち、その後レズビアンとして生き、紆余曲折を経て、最終的にカトリックに転会したミッシェルの手記をご紹介します(以下、和訳。リンクは文末)。
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虹の終焉
2012年11月1日
18歳のときからレズビアンとして公に生きてきた私は、42歳のとき、ついに同性愛者のライフスタイルが不道徳なものであることを神の前に認めました。それは、子どもの頃に歩み始めた道から、長く苦しい回り道をした末のことでした。
私はカンザス州の人口102人の小さな町で育ちました。その町にはメソジスト派の教会が一つあるだけでした。夏になるとバプテスト派のバイブル・キャンプがありました。バプテストの牧師は、毎週火曜日の朝、町の女性たちのための聖書勉強会を指導するために町を訪れていました。5歳か6歳の、まだ幼い子どもだった私は、火曜日の朝が待ち遠しくてしかたがありませんでした。大人たちと一緒にテーブルにつき、その日の聖書の一節を読んだり、話し合ったりしていました。8歳になってからバイブル・キャンプに参加するようになり、私はすべてのセッションに参加しました(男子だけのキャンプのときは家に帰されましたが)。母によると、私は幼い頃からイエス様に「恋していた」そうです。
サマーキャンプで何人かの宣教師に巡り会うことができたことは、私にとって大きな恵みでした。私は早くから、自分は宣教師になるように召されていて、いつか伝道師と結婚し、夫が教会で牧師として働くために、最終的には宣教地から帰ってくるのだと思っていました。
恥という重荷
私は子どもの頃、いつの間にか「恥」という重荷を負うようになりました。その気持ちは、かすかなものでしたが、しだいに私の心を蝕んでいきました。10代に入ってからは、自分の性的指向について悩むようになりました。小学生時代に私は、ずっと"イエス盲信者"、"ホーリー・ローラー(礼拝中に熱狂的に興奮するペンテコステ派を揶揄する言葉)"、"いい子ぶりっ子"などとからかわれたり、仲間外れにされたりしました。しかし中学生になると、私がおてんばだったせいか、服や化粧にこだわらなかったせいか、同級生は私のことを「ゲイ」だと言うようになりました。今にして思えば、それは同級生たちが、私自身には見えない「何か」を見ていたからではなく、当時の流行りの「中傷レッテル」だったのだと思います。しかし、それが私の羞恥心を大きくしていきました。
私はかなりの読書家で、その頃、食料品店の本の陳列棚でダニエル・スティールやその他の「ロマンス」小説家のソフト・ポルノを発見しました。1980年代前半に、これらの本はロマンス・ストーリーに女性の同性愛シーンを加え始めていました。私は「神の掟に反しないのであれば、自分はバイセクシャルであってもいい」と当時思ったことを覚えています。
しかし、いったん植え付けられた同性への性的欲求の種は、しつこい、息のつまるような「つる」へと成長していきました。高校時代、男の子と付き合ったことはありましたが、彼らと関係性を深めることはできませんでした。「後悔先に立たず」――特に40歳の人が10代の頃を振り返る場合は、そう言うのは簡単ですが、当時の私は、自分が男の子たちと絆を築けないのは、自分に何か問題があるからだと思っていました。最近母と、当時の私が男の子たちとうまくいかなかったことについて話し合いました。母は、10代前半の頃の私はイエス様のことしか頭になくて、男の子たちはそれに対抗できなかったのではないか、と考えているようです。
クリスチャンとしての信念を持ち、私を愛してくれる素晴らしい模範が、私にはたくさんいました。私は、高校と教会の青年グループで活動し、メキシコに1ヶ月間のミッション旅行に行き、日曜日には朝と夜に教会に通っていました。しかし“悪魔が耳元でささやいているとき”は、(教会で)教えられたことをすべて思い出すのが難しいことがあります。残念ながら、私がキリスト教の教えを守れなかったのには2つの要因がありました。
まず、私は自分の考えや葛藤を秘密にしなければならないと思っていました。恥ずかしくて、自分の人生にそんな大きな罪があることを認めたくなかったのです。さらに私は「ミス」や「コスモポリタン」などの人気雑誌で、「多くの女性が同性との関係を空想していたり、密かにレズビアンであったりする」という記事を読みました。フィル・ドナヒューのテレビ番組では(私の年齢がバレますね)、ほぼ毎週のように、結婚してから20年も30年も経って「私は実はずっと同性愛者だった」とレズビアンをカミングアウトする女性たちが登場していました。私は、みんなが知っている以上に多くの女性が実はレズビアンであるのだ、と考えるようになりました。
2つ目の要因は、子ども時代から思春期の頃に聞いたキリスト教の教えが大きく間違っていたことです。「あなたが本当に救われていれば、罪深い欲望を持つことなどない」と私は教えられてきました。もし、罪深い考えや欲求を持っているなら、それはあなたが「本当は”救われていない”」ということなのだ、と。私は何度も”祭壇の呼びかけ(※訳注 会衆の前で行うキリストへの信仰告白)”に答え、数え切れないほどイエス様に「心の中に来てください」と頼んできました。しかし、それまでに本当に救われていなければ、自分はもう一生救われることはないのではないか、と考えるようになりました。
どうせ地獄行きなら
高校を卒業して1ヶ月後、私は友達と「ゲイ」のバーに行きました。次の週末に一人で行くと、10歳年上の女性に一晩だけの関係を求められました。それが私の初めての性体験でした。自分のしていることが間違っていることは分かっていました。しかしペンテコステ派やバプテスト派の教えでは、そもそも「"同性に惹かれること自体"が大きな罪」でした。私は「どうせ地獄に行くんだったら自分がやりたいことをした方がいい」と思うようになりました。
私のみぞおちや心は激しく痛みましたが、お酒やタバコ、セックスでその痛みを紛らわせていました。その痛みは「恥」からくるものであることは認識していましたが、私は自分をきちんと、十分に愛してくれる人を見つけることができれば、私はその恥から解放されると信じていました。しかし残念なことに、私を癒してくれる被造物などいないと気づくのに、20年以上もかかってしまいました。私が同性愛のライフスタイルに関わるようになった時点で、私の道は閉ざされてしまいました。
私が初めてゲイ・バーに行ってから3、4ヶ月後、教会の青年牧師で特に仲の良かった女性が私をランチに誘ってくれました。彼女は私と数時間過ごしましたが、私には彼女の声が頭に入ってきませんでした。耳が塞がっていたのです。どんなに胃が痛くても、耳が聞こえなかったのです。
私が知っているレズビアンのほとんどは、ニューエイジの霊体験に傾倒していました。ほとんどの人が霊能力者に人生相談し、水晶には魔法の力があると考え、自分や他の人も「幽体離脱」して時空を「旅」できると信じていました。私もこのような考え方に傾倒し、スピリチュアル文化に深くのめり込んでいきました。やがて自ら「魔女」を名乗るようになり、ネイティブ・アメリカンのシャーマンに弟子入りして、異世界を「旅」するようになりました。
私には匿名の相手やそれに近い相手、1年や2年「付き合った」相手など、たくさんのセックスパートナーがいました。私はどんな新しい経験もオープンに求めていました。私は探求していたのです。それがあまりにもあからさまだったので、色々な人が私の友人たちに 「ミッシェルは何を探しているの?」と聞くほどでした。誰も知りませんでした。特に、私が一番よく分かっていませんでした。
法科大学院を卒業して2年後、私は検察庁に就職しましたが、その職場の文化に自分を合わせなければなりませんでした。私はゲイ・バーに行くのをやめ、他の都市に出かけるとき以外は、ポルノを借りたり、性具を買ったりするのをやめました。ネット上に無料で見られるポルノがたくさんあることを発見しました。
生きる意味の探求
私の人生は満足のいくものではありませんでした。うつ病ではありませんでしたが、私は心の中に強い不安感を抱えていました。満たされていないと感じ、自分を満たしてくれない周りの人たちに腹を立てていました。何をしても無駄でした。何年も前にアルコールをやめ、タバコもやめ、ジムで1日に2時間以上トレーニングすることもありました。新興宗教は私に虚しさを与えるばかりでした。「何か」がもっと必要でした。当時、歌手のマドンナがカバラ(訳注:ユダヤ教の神秘主義思想)に傾倒していることが話題になっていたので、私はカバラについて調べ始めました。カバラに関する本を20冊ほど読み、修行者と電話で話した後、私はユダヤ教に改宗しなければカバラに完全に入信することはできない、と確信しました。
週に一度、改革派のラビと会うようになりました(改革派ユダヤ教は同性愛者のライフスタイルを問題視しません)。ラビとは1年以上会っていましたが、やがて彼から「そろそろ改宗を完了する日を決めましょう」と言われました。私は改宗したいと思っていましたが、シナゴーグに参加することに困難をおぼえていました。そんな中、ヤン叔母さんが心不全で急死しました。彼女は1980年代に癌を克服していたので、親戚全員にとって、彼女を失うことは精神的に壊滅的な打撃となりました。
私は葬儀のためにオクラホマまで車を走らせました。経験の浅い説教師が弔辞を述べているのを座って聞いていると、どこからか「イエス様をあきらめてはだめ」という声が聞こえてきました。私は隣の席の人たちのほうを見ましたが、彼らには何も聞こえなかったようです。もう一度「イエス様をあきらめてはだめ」という声が聞こえてきました――こういう変な体験に、私は慣れていました。ニューエイジやスピリチュアル系、魔術などに関われば、人は必ずや悪魔やその手下に翻弄されます。
しかし、その声が三度繰り返されたとき、私は心の奥底から込み上げるものを感じ「私はイエス様をあきらめることはできない」と自分自身に言いました。これはその後、私が繰り返し自分に言い聞かせた言葉です。
私はユダヤ教に改宗しませんでした。私は自分が通える教会を探し始めました。レズビアンである自分を受け入れてくれる教会を探さなければならない、という考えが頭にあったので、見つかる教会は限られていました。いくつかの「オープン」な教会の礼拝に参加したり、他の教会のホームページを見たりした後、私は最終的に、自分を「受け入れてくれる」教会の会員には、絶対なりたくないという結論に至りました。世俗的な感覚を持った私にでさえ、私を受け入れてくれるような教会は――誰だろうが、何だろうが――かまわず受け入れてるように思えたのです。ある教会のウェブサイトには「我々は、LGBTQの人々を受け入れることを誇りにしています」と書かれており、揃いの皮製チャップスから臀部を露出させている男性カップルの写真を掲載していました。私はそこで、それ以上検索することをあきらめました。
カトリック教会に行ってみたら?
ここ数年、私はディーン・クーンツの本が大好きになり、知らず知らずのうちに、彼の小説のストーリーに巧みに組み込まれたカトリック神学に触れていました。法科大学院時代からトーマス・マートンやマザー・テレサ、マザー・アンジェリカの本などもたまに読んでいました。そして2009年12月、私がキリストと仏陀を比較する本を読んでいるのを目撃した友人が――彼女は私の人生の歩みを少し知っていました――「カトリック教会に行ってみたら?」と言ってくれました。
言われてみれば、そうだ――。
私はある司祭――ジム神父に電話して、定期的に会うようになりました。三回目の面談で、私は「カトリックになりたいが、自分は同性愛者である」と話しました。ジム神父は、この状況にうまく対応してくれたと思います。ジム神父は、穏やかで司牧的な方でした。彼が何を言ったか正確には覚えていませんが、これから自分は何をすべきか考えなければならないと思いながら、彼のオフィスを後にしました。
私は同性愛に対するカトリック教会の見解を調べ、同性愛者であること自体は罪とされていないことを知りました。そのような「誘惑や感情に基づいて行動する」ことが、私たちを神から引き離す罪なのです。私は「自分の存在そのものである”何か”をあきらめなければならない」という考えと戦いました。それはまるで――もし私が左利きだったとして、教会は「左利きであることには問題ないが、それを行動に移すことは罪であり、あなたは右手しか使えない」と言っているかのようでした。
生まれてから18歳まで聖書にどっぷり浸かっていたので、私はマタイ5章30節について知っていました。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
マルコ9章43節も覚えていました。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
カトリック教会の同性愛に関する教えを受け入れることは、どうやら知的な飛躍というよりも、感情的な飛躍が必要であることがわかりました。大人になってからの私のアイデンティティの全ては「レズビアンである」ということに縛られていました。坊主頭から肩のラブリス・タトゥー(1960・70年代にレズビアンが連帯のシンボルとして採用した二本の斧のマーク)まで、私のすべてが「レズビアン」と叫んでいました。私はプライド・パレードで行進し、“政治的主張”と称して公然とレズ的愛情表現を行い、レズビアン音楽を聴き、レズビアン映画を観て、誰に対しても「カミングアウト」しました。もし誰かに「あなたは何者ですか」と聞かれたら、私の最初の答えは「レズビアンです」でした。
そして私は、もう二度と人を愛したり愛されたりしないのではないか、二度とセックスできないのではないか、ということも考えていました。
この2つのハードルは、同性に惹かれている人にとって、なかなか乗り越えられないものです。
イエスのように愛することを求められて
インターネット上で、「同性愛に関するカトリック教会の教えを忠実に守っている」と言いながらも、自分の”(同性愛的)アイデンティティ”を捨てようとしない、そのような人たちに出会ったことがあります。そういう人たちと出会ったのは、「Catholic Answers Forums」というインターネット上のフォーラムでしたが、そこでの議論を聞くことで、私は自分の考えを固めることができました。例えばもし、友人が私のところに来て「長い間不倫関係にあったけど、相手と別れた」と打ち明けてくれたとしても、私は彼女が不倫していたことを人に話すことを勧めません。罪にアイデンティティを見出すのではなく、むしろ癒しの恵みを祈るように強く勧めるでしょう。もし彼女が教会に行って、信徒仲間に「姦通者としての自分の特異性を認めろ」と主張したら、それは彼女が罪を悔い改めていない、むしろそれを誇りに思っているのだ、と人々に思われても不思議ではないでしょう。
愛の問題についてですが――私たちは皆、聖性に招かれており、イエスが愛するように、私たちも人を愛するよう招かれていると理解できるようになりました。私たちは、自分の快楽や満足のために人を利用するようには召されていませんし、神以外のどこかに充足感や自己完成を見出すようにも召されていません。二人の女性や二人の男性が、その性的関係から子どもを生み出すことは文字通り不可能ですから、その性行為の目的は子孫繁栄ではなく、ただの快楽に過ぎません。同性カップルが求めているのは、自分たちの愛を他の生命につなげていくことではなく、自分たちの自己愛の空白を埋めることなのです。生物学的に自分と同質の人と肉体的に結ばれようとすることで、自分を愛することを学ぼうとしているのです。
私は今、絶望的な人生を送っているわけではないし、歯を食いしばって欠乏感を感じながら毎日を過ごしているわけでもありません。私は喜びに満ちていますし、温かい友人を与えてくださった神に感謝しています。私は神の恵みによって、他の人と分かち合うことのできる豊かな愛を経験しています。そして神が私の人生を用いて、他の人の傷を癒すのを助けてくださるように祈っています。以前の私は、他人にとっての自分の価値は「相手とのセックスを望んでいるかどうか」で決まると信じていました。しかし私は――男性も女性も、私という、ありのままの人間を愛し、私に価値を見出してくれることを学びました。
傷つき、助けを必要としている人たちのために、愛の犠牲を献げることのできる男女を教会は必要としています――性的行為をしなくても自分は価値のある存在であり、愛すべき存在なのだ、と一人ひとりが知るようになるために。この傷は、アメリカではかなり広まっており、多くの人が、内在化してしまった、自分自身と性に関する(誤った)考え方に気づいていません。
ジム神父との最初の出会いから2、3ヶ月のうちに、私はある女性との罪深い関係を断ち切り、教会の教えを心から受け入れ、転会準備講座に参加するようになりました。誘惑に悩まされたこともありましたが、この誘惑は結局、他者を犠牲にしてまで得ようとする「自己満足」という空しさからくるものなのだということを確信しました。そこには、私のためになるものは何もありません。イエスを心から愛し、イエスの御計画に従って人生を生きることで与えられる充足感に勝るものは何ひとつありません。
記事へのリンク: The End of the Rainbow - Catholic Answers