マーティン神父の偽りの慰め
元ゲイ・ポルノ男優のジョーゼフ。若い頃、カトリック司祭たちから受けたアドバイスとは?ジョーゼフは、ゲイ生活を送る人たちに向けて、現在様々なミニストリーを行っています(以下、和訳。リンクは文末)。
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ジョーゼフ・シャンブラ
2018年8月23日
まともな信仰養成もないカトリック教育しか受けてこなかった私は、16歳の時、なぜだか近くの教会の神父を尋ねに行った。なぜ、この神父に会いに行きたくなったのかは分からない。エイズの危機の真っただ中で、カミングアウトしたばかりの私は怖かったのだ。私は、同性の友人や模範となれる男性が周りにいない、寂しい子どもだった。すでにカトリック信仰は捨てていたのが、ただ男性と話したかったのだ――どんな男性でもいいから――他に、どこに行けば良いのか分からなかった。
告解室の椅子に座り、簡単な言葉にさえも詰まりながら、司祭にこう告げた――「僕、ゲイなんです」。その司祭は「神はきっと理解してくれる」と言って、私を励ました。神は「君をそのように造られた」のだ、と言うのだ。この司祭の、憐れみと理解に努めようとする姿は、私が中高で受けた「宗教」の時間を思い出させた。その授業は、「良心の優位性」を強調していた。司祭によると、私は「安全なセックスを行う」べき、とのことだった。良心の本来の役割とは、人が「責任をもって」行動をするように導くことなのだと。
この出来事から2年もたたないうちに、私はサンフランシスコのカストロ地区に向かった。しばらくの間、「安全」を実践していた。やがて、それも気にしなくなった。数年後、人生に行き詰ったとき、別の司祭に会いに行った。最初に会った司祭とまったく同じアドバイスをその司祭はくれた。ひとつ付け加えられたことは、誰か一人の男性パートナーと「所帯をもつ」ように、ということだった。それもやってみた。しかし、この司祭たちのアドバイスによって、私が自分の生活を劇的に変えたことはなかったように思う。私の考えはすでに出来上がっていたのだ――「私は生まれつきゲイなのだ」と信じていたから。神だかなんだか知らないが、自分がそのように造られたことなんか、正直どうでもよかった。いろんな意味で、この司祭たちが私の生活を快適にしてくれたことは確かだ。私がすでに信じていたことを承認してくれたのだから。でも16歳の時に、最初の司祭に会いに行ったとき、本当は違うことを言ってほしかった。その司祭に強くあってほしかった――その司祭には、私を、自分自身から救ってほしかったのだ。
今日、セレブ司祭となったジェームズ・マーティン神父(イエズス会)は、アイルランドのダブリンで、「世界家庭大会」で講演を行う。彼の講演の内容は「私たちの小教区で、LGBTの人たちとその家族に歓迎と尊重を示すには」だ。彼が出版した本『Building a Bridge: How the Catholic Church and the LGBT Community Can Enter into a Relationship of Respect, Compassion, and Sensitivity』で、マーティン神父は、『カトリック教会のカテキズム』が同性愛者を「同情と思いやりの心(2358番)」をもって扱うこと、「不当に差別してはならない」と述べていることを称賛した。ジェームズ・マーティンのメッセージは一見、憐れみと配慮に満ちたもののように見える。
だが、実際は矛盾と混乱だらけだ。『カテキズム』における同性愛者への配慮の呼びかけの箇所を称賛しながら、マーティンは『カテキズム』を、同性愛者に対して「不必要な苦痛を与える」と非難するのだ。なぜなら『カテキズム』には、同性愛の行為は「本質的に秩序を乱すもの(”intrinsically disordered”、2357番)」であると説明されているからだ。マーティンが代わりに提案したのは「異なった様で秩序づけられているもの(”differently ordered”)」というふうにカテキズムを書き直すことだった。
しかし、長い年月の間、罪の中に生きてきた私がカトリック教会に戻ってきたとき、もし『カテキズム』に彼のこのフレーズが載っていたとしたら、それは私を死に追いやっただけだったろう。10年以上、公に同性愛者として生きた後、傷だらけで恥まみれの男となった私は、キリストをやっと見出したのだ。私の健康はすっかり衰えていた。友人たちがエイズで死んでいくのを見ていたし、次は自分だと思っていた。それでも、そこを離れるのが怖かった。だって、どこに行けばいいんだ? 奇跡的に、家に帰れることを知った。これまで会った司祭たちは、私は罪の中に生きるべきだと言ったが、両親はそのようには考えていなかった。両親は私を癒すための場所を与えてくれた。
しばらく、『カテキズム』と神と苦闘してきた。同性同士の性行為が誤りであると、次第に理解できるようになった。ゲイ・セックスの壊滅的な性質を自分自身の壊れた体の中に見て取れたから。でも、それを受け入れることはできなかった。遠い地で過ごした歳月の間の私の苦しみは無意味だったこと――数えきれないゲイの男たちが無駄死にしたこと、私たちは皆、嘘に騙されてきたということを。でも実際、そうだったのだ。私の年代の人は、「YMCA」の音色に込められたポップカルチャーの嘘を耳にしたことがあるかもしれない。それは、マドンナや「Express Yourself(自分をさらけ出して)」の歌に勇気をもってつづく者には、男の友愛を約束した。
若い頃会った、表面的に親切で憐れみ深い司祭たちは、実のところ、私を助けることなどしなかったのだ。同性愛の性行為は秩序から外れているという真理を伝えることなく、彼らは私の肩をぽんと叩いて、追い払ったのだ。私を、独身と貞潔の生活を送るよう励ますのではなく、彼らは私を見つけたときと同じ状態のまま、混乱の中に置き去りにした。信仰の薄い若者に語られた、こうした司祭たちの言葉は、この若者を長年大罪の中に留まらせたのだ――悔い改めることもなく、神から離れた状態のままで。
このような司祭たちの言葉が一人の若者の人生を台無しにできるのだとしたら、世界家庭大会に、わくわくしながら参加するたくさんの若い人たちに向けて語られるマーティン神父の言葉が、どれだけのダメージを与えられるかは想像できるだろう。
教会が、真の尊重と憐れみ、配慮を同性愛者に示したいのなら、彼らにはキリストの言葉を与えるべきだ――マーティン神父の偽りの慰めではなく。
元記事へのリンク: Father Martin's False Comfort