お願い、僕をゲイと呼ばないで
同性に魅力を感じたからといって、それがその人のすべてなのでしょうか?「ゲイ」や「LGBTQ」というラベルで人を呼ぶことは、その人を本当に尊重することになるのでしょうか?こうした言葉を使う前に、いったん立ち止まって考えることができたら・・・(以下、和訳。リンクは文末)。
***
アンドリュー
2015年2月23日
どこにいても、“ゲイ”というアイデンティティを受け入れ、それを “自分の姿”として生きるよう、迫られます。「同性に惹かれる傾向」が私の人生の一部分をなすというだけで、多くの人はそれ以外の目で私を見ることができないようです。
でも、心の底からお願いします。私をゲイと呼ぶのはやめてください。
私がこう言うのは、私自身や私がそれをどう感じるかということよりも、もっと大きな理由からきています――それは、あなたの言葉には力があり、言葉は社会に影響を与えるものだからです。
どういうこと?
私たちが、誰かを「ゲイ」や「ストレート」(あるいは「同性愛者」や「異性愛者」)と呼ぶ時、実際にしていることは次のようなことです。
1. 自分が誰かに対して感じる「性的魅力」を「自分のもっとも大事な姿として捉えるべきである」という規範を作ってしまいます。「神に愛されている息子や娘」というアイデンティティよりも、大事なものとして。
2. 自分が「感じる性的魅力(自分では特に選べないもの)」は、「自ら受け入れたアイデンティティ(自分で選んだもの)」とは異なります。これを理解する機会を人から奪ってしまいます。
3. 「誰かに対して感じる性的魅力」は、人間の流動的な経験のほんの一部分であり、それを感じたからといって、その人が一生、それを感じ続けるわけではありません。これを理解する機会を人から奪ってしまいます。
4. 同性への魅力を感じたからといって「自分に正直になる」ために、自らを“ゲイ”と名乗る必要はありません。これを知る機会を人から奪ってしまいます。同性への魅力を感じている多くの人たちは、自分の経験について自分自身に対して正直でありたいと思っていますが、個々の理由で「ゲイ」というラベルを貼られたくないという人たちもいます。私たちには、それを尊重する必要があります。
5.「ゲイ」であるということが私たちの「本質」である、といった間違った考えを人に植え付けてしまいます。でも実際には、「人を愛し、愛されたいと思うこと」が、私たちの本質であり、様々な要因に基づいて、私たちはこの望みを追い求めているのです――自己概念の意識、過去の人間関係における性的・非性的な経験、他者への信頼度の大きさなどが、その他の要因とあわせて、これに含まれます。
6. 「貞潔(ていけつ=心と体を清く保つこと)」の美徳は、絶叫系ジェットコースターのように、恐いものとして思われているところがありますが、それは、人間のアイデンティティがなんであるかを理解していないからです。もし、ある人が「ゲイであること」=「自分らしさ」と認識するならば、貞潔を守ろうとすることは、自分の本質(自分で自分の本質だと認識しているもの)に反することとみなしてしまうのです。
わたしたちにできること
人を「アイデンティティ・ラベル」で呼ぶことをやめれば、こうした問題はなくなるでしょう。このメッセージを人の心に届けるために、私たち信者が特に心に留めるべき3つのことを紹介します。
1. 神様は、私たちすべてに、美徳を生きる生活を求めておられます。
2. 喜びをもって美徳を生きれば、他の人もそうした生き方を望むようになります。
3.この喜びに満ちた美徳の模範を人に示すことができるのは、他でもない私たち自身です。
これは重要なことです。なぜなら、ひとたび人の心が美徳を欲すれば、何よりもまずキリストを求めるようになります。そしてそれは、その人の「自ら受け入れた自分のアイデンティティ」に現れるようになります。それが、人の変容の最大のあかしとなるのです。
おわりに
From My Heart to Yours ~心からあなたへ~
私たちを “ゲイ”と呼ばないで
それは “私たち”ではないから
同性に性的魅力を感じても
私たちは、はるかにそれ以上の者
ほら、いくつかのレッテルはふさわしくない
真実を反映しないものもある
でも、ひとたびそれを “自分のもの”とすれば
それは「自ら選んだアイデンティティ」となってしまう
もし私たちが率直さを重んじるなら
勇気を持って、真理と向き合うことができる
自分が経験する性的魅力は選べないが
どんなアイデンティティを受け入れるかは選べる
とても大事なことだから、わかってほしい
なぜなら、風潮は私たちが形づくるもの
人を「ゲイ」や「ストレート」と呼ぶことで
私たちは新しい規範を作ってしまった
この規範は、自己概念――
自分の気持ちや考えに根差したものだ
創造主よりも己に根差し、
主の御計画を「偽り」として映す
では、私たちはほんとうは何者か?
――今もっとも大事な問い
私たちはまず、神に愛されている人間で
神の力のもとに生きる、限りある存在
だから、「ゲイ」や「ストレート」について語る前に
自分が使う言葉について考えてみて
それが客観的な真実を反映しているかどうか
――私が「経験する性的魅力」は選べない、でも「自ら受け入れたアイデンティティ」は選べるのだから
元記事へのリンク:Please Don't Call Me Gay, Chastity Projectより