同性愛者も聖人になれる
カトリック教会は、すべての信者に聖人になるようにと招いています。でも、あなたが同性愛者だったなら、聖人になることは不可能なのでしょうか?Ascension Presents のジェイソン・エヴァ―トが答えます(以下、動画の和訳。リンクは文末)。
***
カトリックなのに、同性に惹かれていたとしたらどうすればいいの?
「同性愛」っていうと、世の中には二つの選択肢しかないって言われているよね。
選択肢① 「恐怖に怯えてクローゼットに隠れる」。自分が同性が好きだってバレたら、きっとみんなに嫌われるから、って。
選択肢② クローゼットに住みたくない場合(そもそも、そんな窮屈な所になんか住みたくないよね)、「クローゼットから”カミングアウト”して、自分のアイデンティティとして、自分の性的指向をありのままに受け入れる」。神様とか、教会、聖書のことなんか忘れて、自分の体を好きなようにして。
この二つの選択肢だけ。「ゲイ・プライド」か、「ゲイ・シェイム(羞恥)」のみ!――さあ、どっちにする?
でもあなたが、もしその中間にいる場合はどうだろう。「いや、待って、神様を拒絶したくはないけど、ゲイ・シェイム? それしか選択肢ないの? シェイムだなんて! この傾向は、自分で選んだわけじゃないのに――朝起きて、『今日は火曜日だから、この人を好きになろう』って思ったわけじゃないのに」
そうでしょう? 自分が誰に惹かれるかは選べない。選べるのは、自分の行動のみ。自分で選べないものを、なぜ恥ずかしがらないといけないの? 自分が同性が好きだということで、人に嫌われてしまうの?
残念だけれど、そういう時もあるよね。そういう人、実際に世の中にいる。テレビでも、プラカード見るよね――「神様はゲイが嫌い」っていうプラカード(いやいや、神様はあんたのアホなプラカードのほうが嫌いだよ、って思うけどね)。
こういう過激な人達の問題は、もしあなたが「伝統的な結婚」を信じていたとしたら、あなたに「同性愛者が嫌いな差別者」というレッテルを自動的に張ってしまう世の中を作っていること。実際は、違うのに。
教会はあなたを必要としている
最近、絵画を額縁に入れるために、ある店に行った時のこと。あるアーティストが描いてくれた教皇ヨハネ・パウロ二世の絵を持って行ったんだけど、カウンターにその大きな絵を置いたとき、額縁屋さんがそれを見て一瞬黙って、こう言ったんだ。
「ヨハネ・パウロ二世か。俺も昔はカトリックだったんだけど、教会は、俺みたいな人間は要らないみたいだね」
「それ、どういう意味?」と聞いてみた。
彼は心を開いてくれて、自分は同性愛者なんだと打ち明けてくれた。
私は彼に言った。「教会はあなたを必要としている、あなたの家だよ。神はあなたを愛している。私も愛しているよ」
彼は「え? 君はどこの教会に行ってるの?」と驚いていた。
「聖マリア教会だよ。今度、うちの家族と一緒にミサに行くかい?」楽しいおしゃべりをして、私は店を出た。
数週間後、お店に戻った時、彼を見つけてあいさつした。「やあ! 元気にしてたかい?」
彼は「俺の名前覚えてるの?」と驚いていた。
「もちろん! 元気だった?」
しゃべり始めて10分後、彼の目が赤くなってきて、少し潤んできた。
「君をハグしていいかい?」「いいよ!」
彼はカウンターの後ろから出て来て、私に大きなハグをくれた。感動的な瞬間だったよ。彼は心を動かされたんだと思う。私が彼のことを愛しているということが分かったから。
そして私が、彼を本当に愛しているからこそ「君のアイデンティティは、君の性的指向じゃないよ」と話したんだということも。
私の性的指向=私のアイデンティティ?
もし私が「自分のアイデンティティは、自分の性的指向だ」と言ったら、私の人生は瞬時にかなり混乱するだろう。私が、私の妻ではない女性に惹かれたとしたら、それは私のアイデンティティになると思う? もしポルノ的な広告を見た時に「お、きれいだな」と思ったら、それは私のアイデンティティ?
違うよね。世の中は、自分が何かに惹かれたら、「それが本当の君だよ」と言うけれど。それを言い出したら、一人でいろんなアイデンティティを持つことになっちゃうよね。
カトリック教会は、世の中に58タイプの人間がいるとは考えていない。「ゲイ」、「レズビアン」、「バイセクシャル」、「トランスジェンダー」・・・etc.という人間がいる、というようには。教会は、ある人がそういう気持ち、経験、傾向や指向を持っている事実を、否定してはいないよ。でも、教会は「人間(人格)」は「理性的な存在」だと考えている。どういうことかというと、世の中には3つのタイプの人格しかないということ。
まずは①「神聖な人格」である父、子、聖霊。
そして②「天使的人格」(「聖なる天使」と「堕天使/悪魔」もいるね)。
最後に③「人間」。男と女として造られた「神の似姿」。
では、あなたが「同性に魅力を感じる人」だとしたら?
――あなたは、「神様の息子」か「娘」なんだ。それが、あなたのアイデンティティの一番根底にある真理。
「ま、それって聞こえはいいけど、普段の生活ではどういう意味なの?」って思うよね。それって、教会に従うか、孤独で寂しい人生を送らないといけないということなの? それとも教会を離れて破滅の道に進むか。「破滅」か「孤独か」の選択肢しかないの?――ありがたいことに、この二つ以上の選択肢がある。
真に「人を愛すること」とは
驚くかもしれないけど、教会は、誰に対しても「愛してはいけない」とは言っていないんだよ。私が思うに、カトリック教会ほど、世界で唯一と言ってもいいほど「真に人を愛する」ことを人に求める組織はない。そして、私たちの「愛」という概念は、しばしば清められないといけない。
ヨハネ・パウロ二世は、愛についてこう語った。
「人間の愛には、奮闘という要素がなくてはならないということを忘れてはいけません。それは愛する人のため、その人の本当の善のための奮闘です」(『愛と責任』より)
これが困難なのは、この世が「セックス=愛」と定義しているから。「セックスできない=相手を本当に愛していない」、と。
でも、時には禁制(禁欲)も、大きな犠牲的愛の表現になる。この事実を理解するのは、今の時代、とても難しい。この世に、あまりにも性的なもので溢れているから。テレビをつければ、どの商品も車もガムや制汗剤も、性的に表現されてて、もはやバカバカしいくらい。
ある店にあった木工のDIY雑誌読んでたら、表紙の裏に「セクシーなシャッターの設計図」と書いてあって。マジかよ、この世はここまで来たのか! と思ったよ。「セクシーなシャッター」だなんて。
想像してみてよ。もし、友人が家に遊びに来て、キッチンに来て「うわ、お前のキッチンのシャッター、セクシーだな」って言ったとしたら、きっと「お前、変なヤツだな」って思うよね。でも、これが今の私たちの文化。商品も友情も性的なものにされている。
あなたが男で、他の男と一緒にいるのが楽しいな、と思っていると、周りは「アイツのこと好きなの?」と聞いてくる。いやいや、これは健康的な男の友情だよ。
女性でも、同じことあるよね。女性同士で一緒にいるのが楽しい女性に対して「いつも彼女と一緒にいるけど、あの子のこと好きなの?」って。
皆、分かっていないのは――聞いたことないかも知れないけど、人間は同性に惹かれるものなんだよ。そうだよ。神様は、人間を魅力的な善いものとして造ったからね。君の賢さ、ユーモア、性格、美しさは魅力的なものなんだ。でもね、「魅力的=性的」じゃないんだよ。
私の知り合いで、かなり奔放なゲイ・ライフを送ってた男性がいるんだけど、長年そのように生きてきたのに、彼はある時、私にこう言った。「最近気づいたんだけど、私は同性愛者(ホモセクシュアル)じゃなくて、『ホモ"エモーショナル"』なんだ」って。「私は、他の男性の関心、承認、愛情、尊敬を求めていたんだ。私の父親が、決して私に与えてくれなかったものを。でも世間は、私の問題をすべて『性的に解釈するように』と私に教えたんだ」と。
これは、同性に性的に惹かれる人はいない、と言っているわけではないよ。でも、相手を魅力的に感じるとしても、それがすべて性的なものではない、と言いたいんだ。では、同性に性的魅力を感じている人はどうなのか? 「それってどういうことなの? 私は人を愛しちゃいけないということ? 愛する人と結婚できないの? 教会は、私たちのような人が嫌いなの? 結婚も『平等』であるべきじゃないの?」って。
「結婚の平等」という言葉の問題はね、車のボディーに貼りつけるにはちょうどいいスローガンかもしれないけど、意味がありそうで、実はあまり何も説明しない言葉なんだ。
「結婚の平等」って何?
なぜかというと、例えば、私が二人の女性と結婚したいと言ったら、あなたは私の「結婚の平等」を認める? 多くの人は「ジェイソン、結婚相手を一人に絞れないなら、それは結婚じゃないんじゃない?」と言うと思う。
じゃ、これはどうだろう?「私はオープンな結婚がいい。結婚はするけど、お互い、別の人と不倫していい、と合意するんだ」って。
これは結婚と言えるかな? この結婚の平等は認める? 多くの人は「いや、不倫はよくないよ」っていうよね。
これはどうかな。「結婚はするけど、一生の関係にはしたくない。結婚というより、リース契約にしたい。10年間の『結婚免許証』みたいな。上手く行っていたら、契約更新する。上手く行ってなかったら、ま、終わってもしょうがないよね」って。いや、多くの人は「結婚は一生続いた方がいい」っていうよね。
最近ニュースで見たのは「自分自身と結婚をした女性」。これって、本当の結婚かな? あなたは、こういう結婚をしたいという人のこと、嫌いかい? 違うよね。これは、好き嫌いの問題じゃない。
結局、質問はこれに尽きる。「結婚とは、一体何か?」さっき話したケースで問われるべきは「結婚していいか、どうか」じゃなく、それが「本当の結婚かどうか」なんだ。結婚の可能性の質問であって、「平等」や「公平」の話ではなく「結婚とは何か?」ということなんだ。
この質問に答えるには、感傷や感情や心情だけではなく、私達の知性も使わないといけない。結婚に定義があるなら、その定義に当てはまらないものもあるということだから。
それでは「結婚」はどこから来たのか? 政府が批准した、ただの人間の制度なのか?
結婚はそれとも、父なる神から来るものか?
結婚が現すもの
もしそうであれば、カトリック教会が「結婚」について語る時、それは結婚する二人が誓いの言葉を交わしたり、一緒にいたりするという「何をするか」について話しているわけではない。結婚というのは、それを通して二人がいったい「何になるか」が重要なんだ。結婚する二人は、「『キリストの、キリストの花嫁に対する愛』の目に見えるしるし」になる。
冒頭でも話したように、性愛においても、人間は神の愛を現さないといけない。愛は自由で、完全で、忠実で、実を結ぶ行為でないといけない。同性同士でも、確かにお互いに忠実でいることは可能だよね。誰かに強要されて関係を結んでいるわけではない。でも自分の体を、完全に相手に捧げているかな? 生物学的に、同性の性的交わりは、実を結ぶものかな? 答えは「ノー」だよね。これはヘイトスピーチでも、差別でもない、生物学的事実だ。
結婚は、二人が性的なことをするから完成されるわけではない。結婚は、「二人が一つの体になる」ことで完成されるんだ。
あなたは愛されるために造られた
「教会は、もっと人に寛容にならないといけない」と言う人もいるけれど、あなたは人に「寛容でいてもらう」ために造られたのではない。あなたは、愛されるために造られたんだよ。
そして、誰かを愛するとき、あなたはその人に嘘をついてはいけない。「優しい嘘」が、神の愛よりもいつくしみ深いのだといって、人に偽ってはいけないんだ。誰かを愛するなら、真理を語らないといけない。キリスト教の真理とは、十字架のことだ。
自分の十字架を背負って、キリストに従うこと。非常に難しいことだし、自分の願いが神様のみ旨と合致していない時ほど、苦しいことはない。人生のどの場面においても。そして私たちは、この質問に答えないといけないんだ。
――私は、自分の願いを捨てるほど、神様を愛しているか? それとも、自分の願いを神様のみ旨よりも愛するか?
このような状況の時、私達に一番必要なのは仲間だ。私達は、セックスしなくても生きていけるけど、親交がないと生きていけない。仲間、友情、自分を愛し、真理を語り、自分をキリストに導いてくれる人達。
これまでカトリック教会では、様々な状況にいた人たちが列聖されている。王様だった聖人、奴隷だった聖人。売春婦だった聖人、おとめで殉教者の聖人。私は、カトリック教会に、こんな日が来ることを願っている。「同性に惹かれていたけれど、自分の体で神様の栄光を現すことを選んだ聖人」が列聖される日を。
これがとても難しいことは分かる。でも、自分で自分を受け入れられない時、人に受け入れられてもらえないと感じる時、神こそ、あなたを愛しているということを忘れないでほしい。神様は、あなたに大いなる計画を準備しているのだから。
これまであなたに差別的な発言をした人、あなたに十分に愛を示さなかった教会に代わり、私はあなたに赦しを乞いたい。私は、男子校に通っていたんだけど、当時の高校の環境はかなり同性愛者に対して差別的だった。不安定な思春期男子だったから、「お前、ホモだろ」「いや、お前がホモだよ」と言い合っていた。これを神学的に説明すると、ギリシャ語のidiotesから来た言葉を使えば、要するに私たちは"idiots(バカ)"だったんだ。だからこそ、私はあなたの赦しを乞わないといけない。私は、やっと「バカ期」から成長したけど、まだ抜け出せてない人もいる。
私達は、あなたの友情が、人生に必要なんだ。そしてあなたも、私達に頼っていいということを知ってほしい。メディアが、私達は「お互いを嫌い合っている」というふうに煽るのに、うんざりなんだ。それは嘘だから。私達はあなたを愛し、あなたを人生に必要としている。教会は、あなたの家なんだよ。あなたも、この交わりに招かれている。一緒にやっていこうよ。もはや「私達」や「彼ら」ではない。
「私達」は、それぞれの十字架を背負って、つまづき合いながらも一緒に人生を歩く、神の家族。一人ひとりに、大いなる計画を準備してくださる父なる神を信頼しながら。
動画のリンク:Ascension Presents 「同性愛、同性婚と聖性について」