神のいつくしみとサマリアの女
「神のいつくしみ」とは具体的にいえば、どのようなものでしょうか?ヨハネの福音書におけるキリストとサマリアの女との会話にはどのような意味があるのでしょうか?Word on Fire のロバート・バロン司教が解説します(以下、動画の和訳。リンクは文末)。
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2016年7月7日公開の動画
2週間ほど前、私はローマを訪れる機会を与えられました。「いつくしみの特別聖年」をお祝いする司祭の行事に参加するためです。ローマに集まった世界中の英語圏の司祭達に挨拶をする大変光栄な機会に恵まれました。米国、カナダ、英国、アイルランド、オランダ、ラトビア、カメルーン、ガーナなど、たくさんの国から司祭たちが集まっていました。私たちは、聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会という素晴らしい教会に集まりました。多くの司祭と話す機会があり、とても良い経験になりました。
そこで行った講話のテーマに私が選んだのが「サマリアの女」の話です。ヨハネの福音書の第4章にある、有名なお話です。その聖書箇所から、私は「神のいつくしみ」に関する4つの考察を共有しました。
神のいつくしみはあきらめない
まず一つ目は、「神のいつくしみはあきらめない(烈しい)」。どういうことかというと、神のいつくしみは私たちを追い求めるということです。
これまでいろんなフォーラムで話してきましたが、聖書というのは「人間による神の探求の話」ではありません。私たち人間による神の探求は、そんなに面白い話ではありません。確かにそれは真実で、それなりの価値はありますが、そんなに面白いものではないのです。
本当に面白いのは、神の、我々人間への探求です。神のいつくしみは、私たちを追いかけるのです。さて、この話のどこにそれを感じとることができるでしょうか?
まずイエスはサマリアの地に入っていかれます。南のユダヤから北にあるガラリヤに向かいます。当時の敬虔なユダヤ人の多くは、サマリアを避けて北上していました。サマリア人は「混血の血」として、けがれていると見なされていたからです。ですから、敬虔なユダヤ人はわざわざ遠回りしたのです。
しかしイエスはサマリアの地に入っていかれます。イエスは追い求めているのです。追いやられた者、混血の者、忘れ去られた者たちを。彼は私たちを追い求めているのです。イエスは、私たちが作った境界さえも超えてこられます。
さらに当時は、ユダヤ人がサマリア人に、しかも男性が公の場で女性に話しかけることなど考えられないことでした。そしてこの女性は、正午頃に一人で水を汲みに来たのです。なんだかおかしくありませんか? 普通、一日で最も暑い時間に水を汲むでしょうか? 朝か夕方に汲みますよね。そして他の人たちと一緒に汲みますよね。水汲みは、社交の場のようなものでしたから。でもなぜこの女性は、最悪の時間帯に、しかも一人で水を汲みに来ているのでしょうか?
話を読み進めると分かります。彼女は「公な罪びと」だからです。でもイエスは気にしません。その「境界線」さえも超えて来られます。そして彼女に声をかけるのです。これが、この話の冒頭部分です。教皇フランシスコは、いつもこのテーマを語っています。「神のいつくしみは絶え間ない」のです。
私の霊的ヒーローのトーマス・マートンの言葉を借ります。「宗教の一番の問題は、プロメテウス問題である」です。ギリシャ神話の中で、プロメテウスは神々から火を盗みます。神々は怒って、彼を捕らえ、永遠に罰します。神話の中では、神々と人間はライバルだからです。人間は、神々から「何かを盗まないといけない」のです。神々がそれを人間に与えたくないからです。
ですが、聖書では全く違います!! 神には、この世は必要ではありません。神は、世から(御自分の)何かを守ろうとしているわけではありません。
「私のものは、すべてお前の物だ」――「放蕩息子」の兄に向かって、父親はそう言いましたよね(ルカの福音書15・11~32)。「私から奪わなくてもよい。受けるために奴隷になる必要もない。私のものは、すべてお前の物なのに、お前はまだそれが分からないのか」。これが「絶え間ない神のいつくしみ」です。キリストは「プロメテウス問題」さえも超えて来られるのです。
神のいつくしみは人を神化させる
この話から引き出される二つ目の考察は「神のいつくしみは(人を)神化させる」ということです。私たちはたまに「神のいつくしみは人の”癒し”のみ」をもたらすと考えていることがあります――(神は)私たちの悪い部分を正して治す、ということです。そうして罪の問題を解決される、と。この考え方は合っていますが、しかし神のいつくしみはそれよりもはるかに大きいものです。
「神のいつくしみ」は、私たちを「神のいのち」に引きこみたいと望んでおられるからです。神は、御自身のいのちを私たちと分かち合いたいのです。預言者イザヤが語った言葉を思い出してみましょう。よく考えてみると、はっと息を呑むようなことを述べています。
「再建される方」とは、あなたを造られた神のことです。この神が今度は、一体何をしたいのか? はっきりさせておきたいのですが――神は掟を作って、あなたを支配し、御自分に従わせたいのではありません。他の宗教のように。神はあなたと結婚したいのです!
結婚とは何か? 「最大の親密さ」を表す象徴です。もし、あなたが詩人なら「最大の親密さ」を表したい時――知的、身体的、性的、心理的な親密さを表したいなら「結婚」を象徴として選ぶでしょう。結婚は「(人生)いのちの分かち合い」だからです。神はそれを望んでいるのです。神は私たちと「結婚」したいのです。聖書をよく読んでいる人たちでも、この事実に注視している人は少ないかもしれません。でもそれが神の最終的な望みなのです。
さて「サマリアの女」の話を注意深く読んでみましょう。聖書の中で「井戸」が出てきたとき、聖書を読んでいる人であれば、自然に「結婚」を思い浮かべるでしょう。なぜでしょうか? アブラハムの息子のイサクの花嫁を探すために、アブラハムによって送りだされた僕は、井戸に立ち寄りました。そこで花嫁を見つけたのです(創世記24・9~27)。ヤコブも井戸の側で妻となる女性に出会います(創世記29・9)。モーセも井戸の側に腰かけていた時、ツィポラが現れます(出エジプト記2・15~22)。ゆえにイスラエルの人々は、「井戸」と聞いたら「結婚の話だ」とピンと来たのです。
さて、この話でも、男性が井戸の側に座っていて、女性もそこにいます。聖アウグスティヌスは、このサマリアの女について素晴らしい説明を残しています。この女性は、教会の象徴なのです。「教会」とはなんでしょうか? 「花婿」であるキリストの「花嫁」なのです。この井戸は、ある意味、出会いの場なのです。
さあ、イエスは何をされたでしょうか?「水を飲ませてください」と言います。彼女は驚きます。「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と。
イエスは答えます。「もし、あなたが『水を飲ませてください』と言ったのが、だれであるか知っていたならば、あなたの方から、その人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」
これは、霊的物理学です。ヨハネ・パウロ二世が「贈り物の法則」と呼んだものです。あなたの存在は、(他者に)与えるほど大きくなるのです。霊的生活において、根本的な法則です。私たちは、いつも逆だと思ってしまいます。多くを持っていれば(自分は)より大きな存在になれると。「私にそれをください。しっかりつかんでおきますから」と。
しかし、「神のいのち」は――私たちが本当は何によって満たされたいのかといえば、それは「神そのもの」によって、でしょう?――神は「愛」です。この「愛」に満たされたいのであれば、私たちは「愛=自己贈与」に満たされる必要があるのです。神様が与えてくださったものを、私は他者に与えます。すると、神様は神的いのちを与えてくださいます。それをさらに他者に与えると、神様はさらなるいのちを与えてくださいます。この偉大なリズムの中に自分を置く時、私たちは神のいのちに与かることができるのです。
それが「あなたを再建される方が、あなたを娶る」ことなのです。これこそが人を神化させる、神のいつくしみの側面なのです。さあ、秘跡にようこそ! ミサ、ゆるしの秘跡、ご聖体――すべてへ! これらすべては「神のいのちに参与する」ことなのです。これが、二つ目のポイントでした。
神のいつくしみは多くを要求する
三つ目のポイント。今日の一番重要なポイントだと思います。「神のいつくしみは多くを要求する」。
今日私たちは「ゼロ和ゲーム」に陥りやすいですね。「神のいつくしみ」を強調するために「神からの要求」の要素を薄めよう、と。「いつくしみ!」「いつくしみ!」と日がな一日語りつつ「神の要求」については黙っておこう、みたいな。それは馬鹿げた「ゼロ和」の考え方です。聖書的でも、キリスト教的な論理でもありません。
G.K.チェスタトンは正しかったですね。キリスト教の「○○であり、同時に○○である」の論理です。イエスは「完全に神であり、完全に人間である」のです。この論理は、キリスト教の考え方に浸透しています。「私たちは赤が好きだし、白も好きだ。だが、ピンクには健全な嫌悪感を抱いている。私たちは両方の混じりけのない完全性が好きなのだ」と。
ええ、「いつくしみ!」「いつくしみ!」と言い過ぎるということは絶対にありえません。しかし「いつくしみ」と「倫理的要求」の両方が大事なのです。
この話では、どのようにそれを読み取れるでしょうか? 聖アウグスティヌスは素晴らしい解説を残しています。サマリアの女が毎日訪れる井戸は、強い欲望の象徴なのです。「道から外れた」欲望、霊的に破綻している「欲望」のことです。私たちは、自分を満たし、「幸福だ」と感じるために、この井戸に行くわけです。富、権力、特権、名誉など。
だれにでも似たような欲望がありますよね。この動画を観ているあなたにも。私も含めて。中身はそれぞれ違っていても。その場に行き、それを飲むことで、私たちは少しの満足感を得られます。しかし、すぐに渇いてしまうのです。だから、私たちは何度も何度もそこに戻ってしまうのです。この必死なサイクルに。結局、何にもならないのに。イエスが女に言ったことはそういうことなのです。
「あなたは、毎日この井戸に来ているでしょう。しかし、飲んでもすぐに渇いてしまう」「私が与える水を飲む者は決して渇かない・・・その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
さあ、これが神のいつくしみの「神化させる」側面ですね。イエスの要求は「あなたは、このサイクルから抜け出さないといけないよ」ということです。「あなたは、この馬鹿げた井戸に来るのをやめなければいけない。私が与える水を汲みに来なさい」
イエスがこうして強調している様子がいいですね。そしてイエスは素晴らしいことに、それを自然な会話の流れの中で話しました。最初から話を切り出したわけではありません。そんなことしたら上手く行きませんよね。イエスはこう言いました――「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」。彼女は、男性と同棲していますが、「私に夫はいません」と答えます。
イエスはなんて厳しいことを話すのでしょう。倫理的なことについて語るなんて――ええ、その通りですよ! これまでこう語った方御自身が話されているのです――絶え間なく「いつくしみ!」と言い、反プロメテウス的に「神のいのちを分かち合いたい」と言い、「再建する人があなたを娶る」と言った方が。イエスがこれまで語ったことすべてが真実であることは変わりません――完全に! だからこそ、彼はあなたに要求するのです。
「神のいのち」の源泉からの流れを妨げるものを私たちは手放さないといけないのです。この動画を観ている皆さん。私は「いつくしみ!」と一日中言い続けても、言い足りないくらいです。一晩中、その翌日も一日中。しかしそれは同時に、神からの要求を前提としているのです。私たちが変わることが前提なのです。イエスは私たちをメタノイア(回心)に招いておられるのです。
この井戸はなんでしょうか? あなたにとっての「井戸」はなんですか? 挙げてみてください。私も、あなたも誰でも持っています。2つ、3つは。それはなんでしょうか? それらを手放しましょう! そして「神のいつくしみ」の呼びかけに応えましょう。
神のいつくしみは私たちを派遣する
司祭たちに伝えた、最後の4つ目のポイントです。「神のいつくしみは、私たちを派遣する」。これまでも何回か話していますが、聖書の中では、神との出会いを経験した人で、派遣されなかった人はいません。誰一人も。旧約聖書でも新約聖書でも、神との出会いを体験した人は派遣されたのです。
この話のサマリアの女は、イエスと話した後「水がめをそこに置いたまま」「町に行き」、キリストについて人々に伝えます。彼女が最初の「福音者」になったのです、ヨハネの福音の中で。彼女はとても重要な役割を担っています。彼女が「水がめ」を置いて行った、とはどういう意味でしょうか? 回心です。彼女は、これまでの依存的な生活パターンを「置いて行った」のです――もうこりごり、もう同じことは二度としない、と。
自分にとってやめられない「井戸」や「水がめ」がなんなのかを知り、そしてそれを「置いていく」決意をして実行しないと、あなたはまだそこに到達していないのです。しかしそれをした瞬間、あなたは「福音者」となるのです。
サマリアの女は町に行って、人々に何を伝えたのでしょうか? 「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて言い当てた人がいます。」興味深いですね。文字通り「すべて」ではありませんが、イエスは彼女の人生の「暗号」を解いて見せたのです。イエスは暗号を解き、彼女が人生で行ったことを「すべて」言い当てたのです。彼女の問題の根源を明らかにしたからです。
「あなたは、ずっとこの『井戸』に来続けている。それが問題だ」と。彼女はそれを理解し、イエスによって変えられました。だから、他の人たちにも伝えたくなったのです。
私が一番好きな「福音宣教」の定義を思い起こします。「ある乞食が、もう一人の乞食にどこにパンがあるかを教える」というものです。これを理解できれば、私たちは、福音宣教を始めるようになります。ただの「ヘッド・トリップ(頭でっかち)」のように「イエスについての事実や真実についてお話ししましょう」というのは――まあ、それも悪くはないですが――真の福音宣教ではありません。
本物の福音宣教は「水がめ」を手放した人々が行うものです。キリストの「人を神化させるいつくしみ」の影響を受けたからこそ、世界中にそれを伝えたくなってしまうのです。彼らも「乞食」なのです。しかし、パンのありかを知っているからこそ、他の人にそれを伝えたいのです。
これら4つのポイントを、ローマに来た司祭たちにお話しました。この動画を観ている皆さんにお願いがあります。彼らのために祈ってください。教会には700人ほどの司祭が集まっていましたが、全体の行事では、世界中から5000人もの司祭が集まりました。様々な言葉を話す国々から。司祭たちのためにお祈りください。彼らが「神のいつくしみ」の福音者となるために。
動画へのリンク: Bp. Barron comments on "Woman at the Well" - Word on Fire