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同性愛者がキリストに従うとは

人間としての弱さ、家庭内の傷や長年の習慣の呪縛・・・これらを抱えながら、キリストに日々従うことは、誰にとっても大きな挑戦です。どのようにしたら、キリストに従って生きていくことができるのでしょうか? 

同性愛の傾向を持つ、シンガポールのザックのストーリーをご紹介します(以下、和訳。リンクは文末)。

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より大きな愛への呼びかけに応えて

ザック・リム(ペンネーム)
2015年6月4日

男子校で育った私(当時11歳)は、男友達の体格に魅了されていました。私は運動神経が少し悪かったので、自分が思い描く完璧な男性の体格を理想化しました。彼らのように、シュッとしたV字型の背中、角ばった肩、鍛え上げられた腹筋が欲しかったのです。

ポルノや自慰行為に夢中(依存)になっていたこともあり、私の男性への願望は性的なものになっていきました。そんなわけで、私は小さい頃から自分がゲイであることを知っていました。というより、そんなふうに考えてしまっていました。

両親は、問題を抱えた結婚生活を送っていました。母は支配的な性格で、家庭を取り仕切っていました。父はそんなことにはまったくもって無関心でした。父とは距離を置いていましたし、家族の中に尊敬できるような模範となる人はいませんでした。そのため、私は自分で物事を進めていく自立した子どもに成長しました。家族と隔たりがあったために、「結婚」という制度は、時間の無駄でゴミ同然であると、当時考えていたことを思い出します。

人は、若さや無知を言い訳にし、ポルノ閲覧や自慰行為に耽ることの道徳的・霊的影響についてはあまり考えません。少なくとも、私はそうでした。私は肉体的な快楽、罪悪感、しぶしぶの告解という終わりのない負のサイクルを繰り返していました。依存症へのスパイラルを、自ら深めていることに気づいていませんでした。

何度も何度も、私は癒しの集会(※訳注 聖霊刷新運動の)や祈りの集いをもって主の恵みを求めました。主と執り成し手の前に立ち、自分の魂の最も深く恥ずかしい部分を告白しました――主よ、もしあなたのみこころであれば、私を癒し、この杯を私から取り去ってください。いっとき、私はその場で倒れ、聖霊の中で憩うことができました。その後何週間もポルノ視聴と自慰行為をせずに過ごせたので、私は癒されたと思って喜びました。しかし、喜ぶのはまだ早かった・・・古い習慣からは、なかなか抜け出せないものです。

ゆっくりとではありますが、私はキリスト教的「自己放棄」を学んでいきました。主は私のために偉大な計画を用意してくださり(エレミア29・11)、どんな状況においても、私の最善を望んでおられます。神に癒しを求める過程で過去に失敗した試みを通して、私はこのSSA(Same Sex Attraction=同性への性的愛着)が、自分で負わなければならない十字架であるということを理解するようになりました。この重い十字架のおかげで、私は同じような悩みを抱える人のために祈り、執り成すことができるようになりました。

自分自身を大事にし、周りの人を愛することを学び、思いやりのある人間に私は成長していきました。「神は、最も厳しい戦いのために、最も強い兵士を選ばれる」という考えに、特に慰められました。SSAを抱えながらも、純潔と貞潔を求める私の奮闘は、まさにそのような戦いでした。

ある日、私は自分の言い訳づくりに嫌気がさして「もう、やってられない!」と叫びました。負の堂々巡りにうんざりだったのです。自ら、神の息子としての地位を否定し、その相続権を自分で捨てるのには、もうこりごりでした。そうして放蕩息子のように、私は父なる神の御腕の中に駆け戻りました。その日、「自己放棄の祈り」をしました。

「主よ、私は自分を性的に安っぽいものにしてしまいました。
そのせいで、私はもうあなたの愛に値するとは思えません。
でも放蕩息子の父が息子に注いだ、あの恵みを信じ、それを自分のものにしようと思います。
あなたが私のために用意された御計画があることを信じられるよう、助けてください。
あなたの恵みによって、私は清さと貞潔を守ります。
もし私が独身でいることが、あなたのみこころであるならば 、もしくは他の道であったとしても、私は愛と従順をもって、それを受け入れます。
あなたの十字架のひと片を私に分け与えてください。アーメン。」

この祈りによって、自分のうぬぼれと、癒しに対する執着心は溶けさっていきました。自分がいわゆる「生まれつきゲイ」であることに対する、神への恨みは、天の「父ちゃん」に愛され生かされているという絶対的な安心感に変わりました。私の人生に何が待ち受けているかはもう気にならなくなりました。私には主がいて、主が私を抱きしめてくだされば、それで十分なのです。

どんな状況でも、神様は私を決してお見捨てになりませんでした。何度も、カトリック教会から離れて放蕩三昧のあさましい人生に身を任せようと思いましたが、神は私に出口を用意してくださいました。それは、第三の道でした――勇気と信仰を持って、自分の十字架を受け入れることでした。

なぜ私がこのように同性愛の傾向を持っているのか、その理由はわかりません。どう頑張っても理解することはできないでしょう。でも、素晴らしいことに、私にはそれを知る必要はないのです。私の、愛と充足感への望みは、自分自身を受け入れ、神の愛を受け入れることで満たされました。

貞潔を守るための日々の奮闘は、主の苦しみにあずかり、それを祈りとして献げてほしい、という主の招きなのです。私は今でも時々、性的な罪に陥ることがあります。しかし、それは私が何者であるかを定義しません。「神の息子である」という事実が、己を定義するのです。私は独りではありません。これまでも独りだったことはありません。ありのままの私が神に受け入れられ、愛されているのです。この私に希望があるということは、どんな悩みを抱えている人にも希望はあるということなのです。

記事へのリンク: My Struggle with Same Sex Attraction – Catholic News, Singapore

https://catholicnews.sg/2015/06/04/my-struggle-with-same-sex-attraction/?__cf_chl_jschl_tk__=pmd_vUCKMaO7TAM5wibt1k9Z.J7C0r4EMd3pIro2cIMbYyY-1631527500-0-gqNtZGzNAtCjcnBszQil

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