同性愛とカトリック教会に対する誤解
「カトリック教会は同性愛者のことが嫌い」というのは本当なのでしょうか?教皇フランシスコは「同性婚を認めた」のでしょうか?米国オハイオ州トレド教区の資料、『同性愛に関するカトリック教会の教えに対する5つの誤解』をご紹介します。
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誤解① カトリック教会は、同性愛者であると自認する人々に対して、否定的な態度をとることを奨励している。
カトリック教会の教え: 『カトリック教会のカテキズム』は、こう述べています。
2358 同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。不当に差別してはなりません。
カトリック教会は、同性に性的魅力を感じる人々を含む、すべての人々に救いをもたらすという、イエスの宣教を生きています。カトリック教会は、同性愛の傾向を持つ人々を神の愛する息子や娘として歓迎し、神の無条件の愛という福音の喜びを彼らと分かち合うようにつとめています。
誤解② 教会は、同性愛の傾向を持つ人々を非難し、同性愛者はそうした傾向がなくなるよう、ただ熱心に祈るべきだと信じている。
カトリック教会の教え: カトリック教会は、「同性同士の性行為は倫理的に受け入れられない」と教えていますが、教会は「同性愛の傾向自体は罪ではない」と教えています。教会は同性愛的傾向が、多くの場合、彼らの心の深くに根差しており、しばしば生涯を通して続くものであるということを認識しています。カトリック教会は、同性愛の傾向を持つすべての人が「ストレート(または異性愛者)」になることを要求するアプローチを支持していません。
カトリック教会は、すべての人(同性愛の傾向を持つ人を含む)が、貞潔の徳を生きるように召されていると教えています。同性に性的魅力を感じる人にとって貞潔に生きることは、同性同士の性行為をしないことも含みます。すべてのキリスト者にとって、貞潔の徳を生きるということは、自制し、欲望にとどまらないことを選び取ることです。そのために、教会はすべてのキリスト者に、神の深いいつくしみと恵みのうちにこの試練を乗り越えることを奨励しています。
誤解③ カトリック教会の同性愛に関する教えを生きることは、同性愛の傾向を持つ人々が常に孤独のうちに生きることを意味する。
カトリック教会の教え: カトリック教会が教える「貞潔」の徳とは、意味のある友情や親交に満ちた人生を求めることも含みます。これらの関係には同性間の性行為は含まれませんが、キリストを中心とした人間関係は、同性愛の傾向を持つ人が他者と純粋な愛を分かち合う機会となるでしょう。
同性愛の傾向を持つ人々が、真の友情を体験できる重要な場といえば、自身が属する小教区の共同体でしょう。小教区の信者は、同性愛の傾向を持つ人々を歓迎するために特別な注意を払う必要があります。そうすることで、互いに支え合いながら、キリスト者としての完全性への道を、共に友人として歩むことができるようになります。
誤解④ カトリック教会は、同性愛の傾向を持つ人々の葛藤には理解を示さない。
カトリック教会の教え: 『カトリック教会のカテキズム』は、同性愛の傾向を持つ人々が特定の霊的な「試練」を経験していることを強調しています(2358番)。教皇フランシスコが「いつくしみの特別聖年」で強調したように、神の憐れみはすべての罪を赦すことができ、神の恵みは貞潔を守るために奮闘するすべての人々におよびます。『カトリック教会のカテキズム』では、次のように教えています。
2359 同性愛的な傾向を持っている人々は、貞潔を守るように招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘跡の恵みによって、少しずつではあっても確実にキリスト教的完全さに近づくことができるし、またそうしなければなりません。
貞潔の徳を生きようと努めるすべてのキリスト者は、弱さと誘惑の瞬間をしばしば経験します。そのため、同性愛の傾向を持つキリスト者は、他のキリスト者に対して、パワフルなインスピレーションに満ちたあかしをすることができます。犠牲と神の恵みへの絶え間ない協力をとおして完成される、純愛の美しさをあかしすることができるのです。貞潔を真に生きようと努力する同性愛の傾向を持つ人々のあかしは、すべての人に(その人の性的指向がなんであれ)励ましを与えるのです――神のいつくしみと恵みの力により頼めば、人を真正で純粋に愛することができる、と。
誤解⑤ 教皇フランシスコは同性愛に関するカトリック教会の教えを変えようとしており、近い将来「同性婚」がカトリック教会によって認められる可能性がある。
カトリック教会の教え: 教皇フランシスコの使徒的勧告『愛のよろこび(2016年)』で、教皇は、少し前にあった世界代表司教会議(シノドス)で司教たちが明確に示した教えを強調しています。
251 同性愛者どうしの結びつきと、結婚・家庭に関する神の計画には、同一視する、あるいは類似性を認める根拠は、みじんもない。
カトリック教会は一貫して、神は結婚を「男女間の不解消で排他的な、『二人が一体となる』愛の結合であり、生殖に開かれたもの」に造られたと教えてきました。教会の教えは、聖典と教会の一貫した聖伝に基づいています。教会は、イエスの教えを継続して教えています――創造主が「初めから」意図された男女の"一体となる"むすびつきとして「結婚」を定義する、イエスの教えにならって(マタイ19章)。
教皇フランシスコは、教会が、実践するのに困難で、センシティブな教会の教えを教える際に、その口調に注意を払う必要があることを示しました。教皇フランシスコは、人が置かれているその場で彼らと出会い、彼らがキリスト教的徳のうちに成長しようと努力する際に、同伴することの大切さを強調しました。教皇フランシスコは、カトリック教会の結婚と家族に関する教えに合致しない生活を送る人々に対し、いつくしみ、真理、そして同伴、というメッセージを分かち合う重要性を表明したのです。
記事のリンク:フィリップ・スミス神父(オハイオ州トレドの教区司祭、Most Blessed Sacrament Church and Corpus Christi University Parish)トレド教区