ソドムとゴモラの罪とは何か
聖書に出てくるソドムとゴモラの町は、なぜ滅ぼされたのでしょうか?その理由を「同性間の性行為に対する罰」とする教会の伝統的な理解に対して、そうではなく、これは人々が「おもてなしの規範」に反したゆえの罰なのだという意見もあります。聖書では実際にどのように理解されているのでしょうか?米国のモンセニョール、チャールズ・ポープ神父のブログ記事をご紹介します(以下、和訳。リンクは文末)。
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Msgr チャールズ・ポープ
2012年12月4日
先週末のブログで、私は「天に向かって叫ぶ罪」について触れました。その伝統的な罪のリストが『カトリック教会のカテキズム』では、次のようにまとめて書かれています。
1867 教会の教えの伝承によれば、「天に向かって叫ぶ罪」というものもあります。アベルの血、ソドムの人々の罪、エジプトで抑圧された民の叫び、寄留人や、寡婦、孤児たちの嘆き、雇われ人に対する不正、などが天に向かって叫ぶのです。
皆さん、さほど驚かないとは思いますが、ある同性愛者たちから反発の書き込みがありました。「ソドムの罪は、”同性間の性行為や同性に対するレイプ”とは何の関係もない」と、それをわざわざ私に”思いださせる”ために――「ソドムの罪とはむしろ、人々が古代の近東における”おもてなしの規範”に違反したことなのだ」と彼らは言うのです。
創世記19章のソドムとゴモラの物語に関する、この非常に間違った解釈に対して返答する時間がその時なかったので、私はこうしたコメントを表示させませんでした。ですが、ソドムとゴモラの物語の意味は、決して不明瞭なものではありません。このとてつもなく単純で分かりやすい物語の核心にある根本的な問題を「解釈し直そう」とする試みの方が、逆に「解釈者の無理やり感」を大きく物語っています。ソドムの罪――「忌まわしいこと」 は(その他多くの不正も含まれてはいますが)、当時広まっていた同性間の性行為のことだと、聖書ははっきり示しています。
聖書箇所の意味を解釈するときには、①その文章の平易な意味を読む、だけでなく、②その箇所を参照している他の聖書箇所も読み、曖昧な点を明らかにすることが大切です。この聖書箇所では、このように2つの読み方をすることが可能です。
ではまず、この該当箇所を見てみましょう。
創世記 18章20~22 節
主は言われた。 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
創世記 19章1~13 節
二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、 言った。 「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」 しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。
彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。 「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」
ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、 言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。 実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
男たちは口々に言った。 「そこをどけ。」 「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」 「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」 そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。
二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、 戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。 二人の客はロトに言った。 「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。
このテキストの意味は曖昧なんだと主張したい人は、まずこう述べるでしょう。「なぶりものにする(新共同訳、英訳版=彼らと性行為をする)」という表現は、原文ヘブライ語でより字義的に読めば、「彼らを知ることができる」という意味なのだ、と。確かに、ヘブライ語のיָדַע (yada) は「知る」ことを意味します。しかし、この言葉は、「肉欲的な知識」を表すヘブライ語の慣用句でもあります。たとえば、創世記4章1節にはこうあります。
創世記 4章1 節
さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
ここで「肉欲の知識」が意図されていることは、その後の文脈からも明らかです。ロトはまず、彼らの提案を 「邪悪なこと(新共同訳:乱暴なこと)」だと言っています。しかし、誰かと知り合いになったり、見知らぬ人に挨拶したりすることは、邪悪なことではありません。さらに、不正な「肉欲の知識」が示されていることは、ロトが(恐ろしいことにも!)「男と寝たことのない」自分の娘たち(つまり、自分の処女の娘たち)と代わりに交わってもよいと提案したことからも明らかです。
確かに、この客人たち(姿を変えた天使)を保護している立場上、ロトがこのように言わざるを得なかったという理由もあるでしょう。しかし、それだけでは、ここに出てくる同性への性衝動や同性へのレイプという脅威の本質を変えることはできません。
ロトは「ソドムの町の男たち――若者も年寄りも」に、同性への性衝動を思いとどまらせることができませんでした。ロトは、二人の天使の客人によって安全な場所に引っ張り戻されますが、彼らはロトに「我々は町を滅ぼすために来たから、逃げる準備をしなさい」と言います。
防御態勢に入る必要のない一般読者の皆さんは、この聖書箇所が「ソドムで同性間の性行為が蔓延している」という明確なメッセージを伝えていること、さらにその事実は、天使の客人たちによってかなり率直に明かされていることも理解できるでしょう。これこそが、この物語ではっきりと強調されている点であり、これは「おもてなしの規範」やその他、二次的な概念についてではないことが分かるかと思います。
しかしながら、他の聖書箇所でこの事実を確認して、これが本当にソドムの唯一の罪だったのかどうかを問うことは、私たちの理解を深めると思います。具体的には、2つの聖書箇所が最も役立つかと思います。一つ目は、エゼキエル書です。
エゼキエル書 16章49~50 節
お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。 彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。
ここは「ソドムの罪には同性愛の要素は含まれていない」と主張する人々が最もよく使う聖書箇所です。確かに、この節は「神が耳を傾ける叫び」に別の面があることを教えてくれます。この叫びには、虚栄心、過剰、貪欲、貧しい人や困っている人への無関心など、明らかに他の罪が含まれていることを示しています。しかし、ここでは特定されていない 「忌まわしいこと 」も言及されています。ヘブライ語では、תּוֹעֵבָ֖ה (tō-w-'ê-ḇāh)といい、偶像崇拝、子どもの生贄、不正な結婚、さらには同性間の性行為など、神が「特に忌み嫌うもの」を指しています。例えば、レビ記18章22節ではこの言葉が使われています。
レビ記18章22節
女と寝るように男と寝てはならない。それは忌まわしいことである。
このエゼキエルの節は、同性間の性行為の蔓延だけがソドムの罪ではないことを教えてくれます。しかしエゼキエル書では「忌まわしいこと」は具体的に示されていません。それがより明確に示されている聖書箇所があります。それはユダの手紙です。
ユダの手紙 1章7~8 節
ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。 しかし、同じようにこの夢想家たちも、身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざけるのです。
このように、ソドムの罪の中心は、「性的不道徳(ἐκπορνεύσασαι)」と「倒錯(ἀπελθοῦσαι ὀπίσω σαρκὸς ἑτέρας ――文字通り、”奇妙な”、あるいは”異なる”肉へと向かう)」であると明記されています。このことは、創世記19章に記述されている、ソドムで広く行われていた同性間の性行為の描写と一致しています――この罪を行う者は「ソドムの町の男たちが、若者も年寄りも(こぞって押しかけた)」とあるように。
ソドムの罪が唯一、「広範囲に蔓延する同性間の性行為」であると解釈することは避けなければなりませんが(罪が一つしかない都市があるでしょうか?)、聖書がこう教えていることを無視することはできません――同性間の性行為が「天に向かって叫ぶソドムの罪」の中心であり、神が「火のような終わり」をもたらすのに値するものであるということを。
創世記19章では、ソドムの罪について明確に述べられており、エゼキエル16章では「忌まわしい」という言葉を残しながら、その記述を拡大しています。またユダの手紙7章では、性的倒錯が、ソドムとゴモラが関与していた中心的な罪であることを明確に証明しています。
神なる聖霊が、私たちに対して、明確に伝えるのをしくじることなどあり得ません――これらの古代都市の罪の根本的な性質について。蔓延していた同性間の性行為が、この二つの町への罰の最たる原因であったことは、はっきりしています。ですから、この問題を「おもてなし」の問題として捉え直そうとする試みは、空想的な歪曲でしかありません。
記事へのリンク: The Sin of Sodom and Gomorrah is not about "Hospitality" by Msgr. Charles Pope