聖パウロが禁じたのは同性愛行為なのか
「聖書では、実はゲイ・セックスは禁じられていない」という意見を聞くことがあります。「パウロは別のことを意味していたのだ」、と。はたして、この解釈は正しいのでしょうか?聖書には実際、どのように書かれているのでしょうか?
Catholic Answersの護教家、トレント・ホーン氏の解説をご紹介します(以下、動画の和訳。リンクは文末)。
***
2020年1月8日公開の動画
聖パウロは、「ソドミー(同性愛行為)」を”罪”と見なしていたのですか?
それとも「性的搾取」を問題視していたのでしょうか?
このような質問をする人は、おそらくコリントの教会への手紙6章9~10節について、尋ねているのだと思います。この箇所で、パウロはこう話しています。
コリントの信徒への手紙一 6章9~10節
「思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、【男娼、男色をする者= 同性愛者たち】、 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」
この節を理解するには、また、「パウロは未成年の少年への性的暴行のみを禁じており、成人男性間の性交については問題視していない」とする解釈に反論するには、この箇所で使われている原語のギリシャ語を調べる必要があります。
「同性愛者たち」※と訳されているギリシャ語は「同性に性的に惹かれる人」ではなく、特有の行動について話しています。性的指向ではなく。
【※訳注 英語の聖書では「homosexuals(同性愛者たち)」とひとくくりで訳されているが、日本語新共同訳聖書では「男娼」と「男色をする者」と2つに分かれている。違いの理由は、以下のとおり】
ギリシャ語では、"Oute malakoi oute arsenokoitai(ウテ マラコイ ウテ アルセノコイタイ)" と書かれています。この言葉を理解しなければ、聖パウロが意図したことを理解することはできません。
(動画の中の)右側の画像は、理解を助けるかと思います。これは「ウォレン・カップ」と呼ばれる銀杯で、紀元1世紀の古代ローマ時代の工芸品の一つです。両側に同性カップルの肖像が描かれています。よく描かれるのは、少年と成人男性か、成人男性同士の組み合わせです。
この言葉をどのように理解すればよいでしょうか? 「アルセノコイタイ(arsenokoitai)」というギリシャ語の言葉は、実は現存する文学の中でも、ここで初めて使われている言葉です。もしかしたらパウロ自身が作った言葉かもしれません。
文字通りに訳せば「男と床を共にする男」という意味です。この言葉がどこから出てきたのかというと、恐らくレビ記のギリシャ語訳から作り出されたのでしょう。
レビ記18章22節には、こう書かれています。
レビ記18章22節
「女と寝るように男と寝てはならない。」
レビ記では同性間の性交を禁じています。ギリシャ語訳は"meta arsenos ou koimethese koiten gunaikeian" です。
「女と寝るように男と寝てはならない。」――「アルセノス(Arsenos=男)」 と「コイテン(koiten=床)」 という言葉が使われていますね。「男と床を共にする男」ですね。
パウロはここで、「アルセノコイタイ」という言葉で、同性間の性交の中で「能動的な役を果たす男性」のことを指しているのでしょう。一方で、「マラコイ(malakoi)」というのは、「性交時の受け身の男性」のことを指しています。これが杯の反対側の画像です(動画中)。紀元1世紀にそれがどのように描かれているかが見て取れるかと思います。
それでは、この「マラコイ」とは誰なのでしょうか? 実は、古代ではわりと広義な言葉です。文字通り訳せば「やわらかい人」です。この言葉は、同性間の性交で受け身の男性を指すことが多くありました。
「”マラコイ”というのは、ただ”洗練された人”という意味だ」と主張する人もいます。古代ローマ時代において、胸毛を剃る男性や香油が好きな人、物腰が柔らかくて、か弱く、多くの女性と性的関係を持つ男性を指すこともありました。
ですが、「マラコイ」 の意味を知ると、このように結論づけることができます。「マラコイ」のすべてが、同性間の性交における受け身の男性を意味するわけではありません。しかし同性間性交において受身役の男性は、すべて「マラコイ」と呼ばれていました。
「”マラコイ”はただ、洗練された、やわらかい(なよなよした)人」のことだと主張する人に対して言えることは、もしそうであるならば、パウロはシルクの衣服が好きな男性および胸毛を剃る男性は、天の国を受け継ぐことができない、と言っているのか? ということです。
また、ある人は、「パウロは少年愛および未成年への”性的暴行”を禁じているのだ」と主張します。パウロは、「アルセノコイタイ」が「マラコイ」をレイプしていることを批判しているのだ、と。
でも、この解釈が正解なら、なぜ「アルセノコイタイ」と「マラコイ」の両方が天の国を受け継ぐことができない、とパウロは言っているのでしょうか? もしパウロがここで本当に、少年への性的暴行およびレイプを非難していたのなら、「レイプの被害者である"マラコイ"も、天国を受け継ぐことができない」とパウロが言っていることになります――この解釈は、筋が通りません。
一番、無理のない解釈は「アルセノコイタイ」と「マラコイ」は、同性間性交の能動的・受動的パートナーの両方のことを指している、という理解です。
聖書を読めば、いろいろな罪が互いにつながっていることが分かります。「偶像礼拝」と「姦通」はよくリンクして書かれていますし、「同性愛者たち」として「アルセノコイタイ」と「マラコイ」という言葉はつながっています。「泥棒」は「強欲の者」ですし、「酒に溺れる者」は「人を悪く言う者」でもあります。このような言葉のつながりを見ると、パウロは性を乱用する者は――姦通であれ、同性間の関係であれ、結果的に大罪をおかすと話しているのです。
覚えておいて欲しいのは、パウロは私たち全員について話している、ということです。人から盗んだり、嘘をついたり、税金をちょろまかしたりすることを考える人はたくさんいるでしょう。酒に溺れることが悪いことだと思わない人もたくさんいるでしょう。パウロは、これらすべてを大ごとだと考えてますよね。天の国を受け継ぐことができないほど。
だからこそ私たちは、この「悪徳表」を真剣に受け止め、天の国を受け継ぐことができない行動からは身を引くべきなのです。
動画へのリンク: Did St. Paul condemn sodomy or only sexual exploitation?ーTrent Horn
※注意:動画には同性間の性交が描かれたウォレン・カップの写真が使われています。