ルッキズムの擦込に学生服で抗っている社会人の話
※この記事は前向きな内容ではありません。自分の習性を整理するために書いています。
ふたりの人間から産まれてくる以上、その父母に似ているのは当たり前のことです。それでも私は、「父に似ている」という言葉に不愉快になることがあります。
父が嫌いなわけではありません。むしろ両親に関してはこの人たちの子供として生まれたのは恵まれていると感じるのですが、父に似ていると言われるのが耐えきれないのです。
今日ふと「これがSNSで話題のルッキズムというやつなのでは?」と思ったので、ついでに私が社会人ながらセーラー服を着ようとすることも含めて整理していこうと思います(なぜここでセーラー服が出てくるのかについては追ってお話していきます)。
まずは「ルッキズム」という言葉の意味を確認していきます。
調べてみると、外見を重視する考え方、主に外見によって人を差別するという意味合いで使われることが多いようです。
「優れた遺伝子を残さなければ」「生き残るために優位に立たなければ」という動物の根源的なものに関わりそうです。そして、現代における「人類皆平等でなければ」という思想と喧嘩することは容易に想像できます。「(芸能人等を理想の容姿としつつ)これに近づかなければ不利益を被る」という思考になるのは正に動物のデカればデカいほどいいとか色が濃ければ濃いほどいいとかに似ている気がします。
何となくだけど。専門分野でもなんでもないので(ここまで語って放り投げるな)
私の「父似」のトラウマはとてもシンプルな話で、「私の母が全方位から容姿を褒められるくらいの美人である」という話なのです。
会う人みんな母を「綺麗」「若い」「可愛い」と言います。そして、私はいつも「お父さんに似ているね」と言われてきました。
パーツや性格が父に似ているならただ父に似ているというだけの意見だと解釈できるのですが、少なからず「で、なんでお前は母さん似じゃないの?」という言葉や私を可愛いと言う意見に首を傾げられることも経験しました。勿論そんなことを言う彼らはただの失礼極まりない社会の汚点(言い過ぎ)なのですが、やはり学生時代の経験というものは現在の在り方に深く関わるものです。
私は「母に似てきた」という言葉と「父に似ている」という言葉に一喜一憂するようになってしまいました。私こそルッキズムに振り回されているじゃないか。親のどちらが好きなんて優先順位は私に無いはずなのに。
女性は「より可愛くなるため」「コンプレックスを隠すため」「社会でマナーとされるため(これもルッキズムかな)」等、様々な理由でお化粧をすると思うのですが(最近は男性もお化粧をしてて素敵ですがここでは割愛します)、私にとって身支度は「武装」という言葉が一番しっくりくる気がします。
「私はまともな人間ですよー」と見せるためであったり(これは喋った途端破綻する)、または「おしゃれな友達ばっかりだし浮かないようにしないと」ということもあります。何かしら自分のステータスや属性をぼかすためにお化粧をしている、というイメージでしょうか。
ここでセーラー服の話になるのですが……、
また制服の良さについてはいずれ書き起こそうと思いますが、セーラー服のいいところは「学生」か「コスプレ」で属性が固定されることなのです。私はどうやら童顔らしく……浪人時代に市営バス使ったらお釣りが出てきたり店員さんが絶対私の前にお酒を置いてくれなかったり色々ありましたが……要するに、私がセーラー服を着ると「学生」もしくは「え、学生じゃないの!?」もしくは「え、コスプレなん…?変わってるな……」が認識の大部分を占めることになるのです。
実際に私の容姿が批評されているかどうかは置いておいて、制服を着るだけである程度私は気持ちを落ち着かせることができるのです。私にとっては「歳相応の女」よりも「変な子」の方がよっぽど居心地が良いのです。
と、こう書いてしまうとセーラー服好きって言ってるのに前向きな気持ちで着ていないのかという話になってしまうので……今度なぜセーラー服が好きなのかについて書こうと思います。ちょっと前にシナリオ出したしね、うん。