なんにも変わらないじゃないか。
我が家には男子が二人いる。
男子だからというわけでもないのだろうが、おもちゃやおやつが一つしかないものを必ず奪い合う。
もしくは、一方が他方の持ち物を羨ましがる。
親としては同じように二つ用意したいけれど、必ずそれが叶えられる状況とも限らない。
もう赤ちゃんでもないのだし、譲り合って順番に使ったり、今回は僕がもらうけど、次回は譲るね、などの対応をして欲しいものだが、
びっくりするほど、できない。
もう同じ状況何回め?
デジャヴ?
と思ってしまうほどである。
もう、どっちもそんなに変わらないんだからさぁ、そんなに喧嘩したり取り合ったりしないの!!
と毎度同じセリフで宥める。
子どもだし仕方ないのかな?と半分諦めも入りつつ。
*
しかし、ふとしたときに気づいてしまった。
子どもが兄弟同士で自分が持ってないもの、与えられてないものを羨ましがり、取り合いっこするのと同じように、大人も「隣の芝生は青い」的に、人のことを羨んだり、自分にはこれがないと落ち込んだりすることを。
自分にないものばかりが他人において目について、そればかりが気になる。
あぁ、私にはない。いいなぁ。欲しいなぁ。あんなふうに◯◯だったらいいのに!
でもそれを誰も宥めてはくれない。
宥めてくれるとしたら、神さまくらいだろうか。
つまりはこうだ。
子どもが、自分たちの目の前にあるもの(ほんの一部の限られたもの)に対して、狭い視野でどちらのものが優れているか、どちらの方が大きいか、などと比べて互いを羨ましがっているのを、もっと上から俯瞰してみた視線では、どっちもどっちでそうそう変わらないとわかる。
大人になった我々も、自分の立場、地位、環境、持ち物なんかを一々比較する。しかも目の前に一部の偏ったサンプルを持ち出して。
それを神さまのような高い位置から見てみたら、多分どっちもどっちなのだ。
いや、どちらかは凄く良くて、他方はイマイチの点もあるかもしれないが、物事や状況って平面ではなく立体だから、良いところも悪いところも両方必ず内包している。
子どもたちに毎度同じことを注意しておきながら、我々大人も全く同じレベルのことをしてしまっていると気づいたとき、思わず笑ってしまった。
今私の置かれている状況を少し離れて見てみて、もし改善して自分の思う“良い”方向に持っていけそうであれば努力したらいいし、これで良しと思うならばただその状況を有り難く思ったらいいのではないか。
人は比べることが常ではあるが、そんな時、この兄弟の取り合いや羨ましがるやり取りを思い出してみようと思う。