混沌から生まれる構造と ビジネスモデル
最初に、私がこの一年間(2016年)にやったことを、紹介したいと思います。文化庁の嘱託で、日本遺産のプロデューサーとして各地を訪問しています。今現在(2017年2月現在)、37地域が認定されているんですけど、認定地域を訪れてアドバイスをする、という仕事をしています。その結果を文化庁に報告し、この前は自民党の「文化伝統調査会」なんていうところで議員さんや官僚の方々にレポートする、なんていうことをやりました。
こういった活動以外に、8月には沖縄のプロジェクトであるニライカナイ事業をスタートしました。2015年まで、3年ほど商品開発のお手伝いをしていました。沖縄県の補助金事業だったんですけど、終わったので「何かできますか?」と、現地の人、沖縄の事業者の人と話して、やちむんとか琉球ガラスといった沖縄の雑貨を売るお店を自由が丘にオープンしました。
ほかにも、日本能楽謡隊協会という活動もスタートしました。私のお能の先生が、能楽を全国にひろげていこうということで一般社団法人をつくりまして、その理事として活動しています。
あと、これはまだ準備段階なんですが、来年の4月にオープン予定で学童保育もやろうとしています。これは先ほどの能楽のメソッドを、子どもたちのしつけというか、そういったところで提供しようということをやっています。
こういった活動をやっていく中で、改めて混沌(カオス)ということは重要だな、ということを非常に感じいます。そのカオスがなければ、ものが生まれない。たとえば生命が生まれる前には、海にはドロドロした有機物があって、そこから生命が生まれてくるわけですが、何か得体のしれないものがうごめいている状態、というのがやっぱり必要なんですね。
それは竹林一さんのお話で言えば、千三つの千なんですね。千がなければ三つは生まれないということだったり、ニコニコ動画だって、あれだけのコンテンツ量がある混沌とした中だからこそ、出てくるものがある。でも、そこにはただ混沌があるだけでなく、やっぱり千から三つが生まれるロジックというのがあるわけですね。それを探っていきたいというのが、今日の講演の目的です。
カオスに秩序を与えるアーキテクチャ
米倉先生もたまたま駅の話をされていましたが、いまお見せしているのは渋谷駅の構造です。渋谷駅に何十万という人が来て、その人たちが、でもそれはランダムではなく、ある程度の秩序を持って動いています。一人ひとり、思惑が全然違うという意味で一見、カオスなんですけど、秩序があるわけです。109 で買い物をしようと思っている人もいれば、ラーメンを食べようという人もいれば、ヒカリエに行っておしゃれな買い物をしようと思っている人もいる。それぞれまったく違う思惑の人がいる中で、だけど混乱が起こることなくそれが動いている。
渋谷駅構内立体図 http://www.tokyometro.jp/station/shibuya/yardmap/
これは、駅の構アーキテクチャ造に従ってわれわれは動いているからなんです。なんとなく地下にもぐったら、「109 のほうに行くんだったらこっちだ」とか、「ヒカリエに行くならこっちだ」とか、「公園通りがこっちだった」ということがわかるようになっているから、混乱しないわけです。(渋谷駅の建替えによってこうした通路が変更になるときには、ちょっとした混乱が起きますが。)
カオスの下には、こういう構アーキテクチャ造がある。地球で言えば、岩石の形がある。その形に合わせて、水が流れていたりする。そのアーキテクチャが、新しいものを生み出す仕組みとなっている。なので私たちは、カオスという混乱ではなく、そこにあるアーキテクチャを見ていく必要があるんです。そうすれば、「ああ、なるほど、水はこう流れるんだね」とか、「人の流れはこうなんだね」みたいなことがわかる。どうもこのアーキテクチャということを問題にしないといけないな、ということがわかってきました。
ここにアーキテクチャの生態系マップというものがあります。ウェブの中でどんなアーキテクチャが登場し、それによって人々の行動がどう変わってきたかというのを可視化したものです。
アーキテクチャの生態系(『アーキテクチャの生態系』(濱野智史著)より)
まず登場したのは、インターネット、TCPIPといった通信プロトコルですね。そこからワールドワイドウェブとかhttp: とか、これはみなさんにも馴染みのあるものですね。さらにそこから、Google が出てきて、掲示板が登場し、そこからミクシィが出てきてウィキが出てきて、コンテンツマネジメントシステム(CMS)が生まれて、さらに人と人のつながりであるソーシャルグラフを扱うFacebook が生まれてきた。
実は、ウェブの中でも、最初は荒涼としたデータがパケットでやり取りされるような素朴な世界がありました。そこから、データ量が膨大になり、そこにだんだん複雑なアーキテクチャが出てきて、豊かな体験ができるようになってきた。今までカオスの状態だったウェブの世界も構造化され、みなさん、ある一定の行動をするようになるわけです。スマートニュースでニュースを見るとか、Facebook で友だちの近況を見るとか、そんなふうに行動が組織化されてくる。なので、ウェブメディアの世界でもどう振る舞うかということを議論するためにはアーキテクチャの話をしないといけない、ということなんですね。
無意識のうちにやってしまう個の振る舞い、なんだかワクワクするとか、行きたくなるとか、感じがいいとかいうことがあったときに、アーキテクチャを考える必要がある。そして事業におけるアーキテクチャがビジネスモデルなんです。
ビジネスモデルというアーキテクチャの中にいる限りは、社員の人はこう振る舞うし、お客さんもこう振る舞うし、というふうに、ある個人の振る舞いに制約条件をつけて一定の秩序をもたらす。それがビジネスモデルであり、事業アーキテクチャであると言えるでしょう。
これは、たとえばUXも関連します。ユーザー・エクスペリエンスはごく狭い定義でいえば、「ウェブのインターフェイスとか、モバイルアプリのインターフェイスでユーザーのエクスペリエンスが決まりますよ」という話です。しかしもっと広く言えば、事業のアーキテクチャによって顧客の経験が変わるという話であり、個人の振る舞いに対してどう事業アーキテクチャをつくっていくかという、そういう議論なんです。
われわれはビジネスモデルというときに、「ビジネスでどう収益性が上がりますか?」という話をすることが多いんですが、それだけではない。個人がそれぞれ異なる目的を持って行動する混沌の中で、ある一定の秩序を与えるような事業アーキテクチャとして考えないといけないし、広く一般的にいわれているユーザー・エクスペリエンスと絡めて、顧客体験と紐付けて考えていく必要がある。
このとき、事業アーキテクチャは大きく二つの種類に分けると整理がしやすいのではと考えました。
自己強化するコンテンツ生成のアーキテクチャ
ひとつは、そのアーキテクチャ上にコンテンツがどんどんどんどん増えていくコンテンツ生成のアーキテクチャです。たとえばトヨタ自動車は、毎年、新しい車をデザインして出してきます。自動車会社の事業アーキテクチャは、顧客のニーズを満たすために常に研究開発をしてデザインをし、新しいものを出していくわけですね。ビジネスモデルの中に、新しいコンテンツを生み出していくアーキテクチャというのを備えているわけです。
これは去年のオリンピアでも紹介したナプキンメモです。ベゾスは、Amazon という事業をやる限りはカスタマー・エクスペリエンスを高めていくとトラフィックが増えていく。たくさんの人が来れば来るほど、また売りたい人が増えてくる。売りたい人が増えてくればセレクションも増えてきますよね。で、どんどんこれが成長すれば固定費も下がっていって、負担も下がっていって、それだけ安く提供できる。ある事業アーキテクチャがあって、その仕組みを動かしていくと、どんどんコンテンツが生成されていくわけです。
ただ、なんとなくこれを見ていると、そんなにカオスな感じはしないですね。たとえば、トヨタ自動車はカオスな車はつくらないわけです。売れそうなものをマーケティングプロセスに従ってやるわけです。そうして事業のアーキテクチャをどんどん強化していく。生物のメタファーでいえば、恐竜のような巨大な事業ができあがっていく。そのひとつが自動車産業であり、その途上にあるのがAmazon です。
どうやらこのコンテンツ生成のアーキテクチャは、従来の事業アーキテクチャを踏襲、強化しながら成長するものであり、そんなにむちゃくちゃなことはやらないわけです。
自己革新するコンテキスト生成のアーキテクチャ
もうひとつのアーキテクチャがあるんじゃないか、と考えています。今回江渡さんに講演をお願いした経緯も、そのもうひとつのアーキテクチャの本質に触れたいという思いからでした。
クオリティの平均値は下がるんだけど有象無象が生まれてきて、その有象無象から新しい事業アーキテクチャが成立する。千の中で三つ事業が成立する新規事業の世界です。生物でいえば、多様な新しい生命が生まれてきて、その多くは息絶えてしまうけど、一部が生き残る。これこそカオスを扱う事業領域だ、と思ったんです。これを文脈(コンテキスト)生成のアーキテクチャと呼んだらいいんじゃないかと思っています。
コンテキストを生み出す。コンテキストとは何か? コンテンツが情報の分子とすれば、コンテキストとは情報の分母です。コンテンツはものそのもので、プロジェクターとかカメラとかマイクといったものになります。もの自体は変化しませんが、異なるコンテキストに置かれると、役割もずいぶん変わってくるんですね。
たとえば先ほどの江渡さんの作品だと、ボールをウェブ上のデータだと見立てたときに、それは今まで見ていたボールとは全然違って見えてくるわけです。情報を載せて移動するメディアに見えてくるわけです。
他に例を挙げるとすれば、私は日本遺産に関わっていますが、その中で必ずでてくるリソースとして古民家というのがあります。これ、不思議ですね。少し昔だと古くて建て替えないといけないダサいものだったのが、今では地域おこしの文脈ではすごい財産になるわけです。コンテキストが変わったわけです。
みなさんもそうかもしれませんが、私の年代だと、昭和40年代、50年代の家ってすごくダサいんですね。文化住宅というんですかね(笑)、とても耐えきれない、家賃が安くてもこんな家には住みたくない、と。でも、それが20〜30年経つと、「かっこいい」となるんですね。「あ、昭和っぽい」みたいな。昭和っぽいってダサいって意味ですよね? でも、もっとあとになると、「わー、これ、昭和じゃない! かっこいい!」と、こうなってくる。
このように、コンテンツは変わらないんだけどコンテキストが変わってくる。そうすると価値まで変わってくる。そういうことが起こるんです。コンテキスト生成のアーキテクチャは、こうした意味の変化が起こるようなものなのです。
火焔型土器から広がるコンテキスト
そのためにコンテキストを生成することのインパクトを紹介したいと思います。これも日本遺産の話なんですが、新潟のエリアで火焔型土器にまつわる日本遺産の認定の話があります。日本遺産ってちょっと不思議な認定の仕方をしていまして、「ストーリー」を認定するんです。
火焔型土器を見て、岡本太郎がびっくりした。それで新潟県の火焔型土器が出る地域を「火焔型土器」ということで認定したんですね。そうすると火焔型土器にまつわる認定ですから、火焔型土器の保存、整備に対してお金を使う。でも、火焔型土器って見たいですかね?(笑)。火焔型土器をわざわざ新潟まで見に行きたい人って、この中にどのぐらいいます?
では、これをどうしたら人々を惹き付ける価値に転換できるか? コンテンツは変えずに、どのようなコンテキストを作れば、観光資源に活用できるか。そこで、「新しいライフスタイルと言ったらどうか」と考えました。縄文のライフスタイルを象徴するものとして火焔型土器を打ち出すのです。
縄文時代というのは、ご存知の通り、稲作をしていません。稲作を始めるとどうなるかというと、ずっと、米。毎日、米。海外から見ると、「おまえら、毎日米ばかり食べて、おかしいんじゃないか」という話ですね。毎日米を食べ続ける。
しかし、縄文ではその米がないんです。どうしたか。300種類の季節の旬のものだけを食べていたんですよね。贅沢ですよね。動物は50種類のジビエも含めたさまざまなものを食べていた。グルメから言わせれば旬のものだけを食べる最高の贅沢を、実はしていたんです。
そういった「縄文時代のライフスタイルを象徴するようなものとして使ったらどうか」ということで、「縄文バーベキューをやろう」ということになりました。肉はジビエ。しかも、それを切るのは黒曜石を使う(笑)。いびつなんですよね。それがかえっておいしい。当然、煮炊きは火焔型土器で。デザインは複雑で非常に使いづらいはずなのに、こげ跡が残っているので実際に煮炊きに使ったことは間違いない。弥生になると、そんな機能性のない装飾は全部排除されるんですけど、縄文はなぜかそうだった。こんな装飾性豊かな土器で煮炊きしたスープを飲みながら、縄文時代に思いをはせる。そういう体験が面白いんじゃないか、と。
それから、「縄文キャンプ」とかおもしろいんじゃないか、とか。電気を一切使わない。縄文の村の跡が残っているんですが、そこでみんなでキャンプをする。おもしろいのは、縄文時代の村の場所というのは、冬至の日に聖なる山と太陽とその村が一直線に並ぶような場所を選んでいるんです。有名なところだと、伊勢神宮の宇治橋ですね。まさに冬至の日に一直線に並ぶ。あの考え方は、実は縄文からなんです。縄文時代から太陽の復活ということが非常に重要で、そういう場所がいわゆるパワースポットなんです。「パワースポットで電気を使わずに、夜に満天の星を見る。そういう縄文キャンプみたいなことをやったら、これもまたいいだろう」と。
このように、単に「火焔型土器」をそのまま取り上げるのではなくて、そのコンテキストを変えていくことによっていろいろなアイデアが出てくる、ということなんです。そしていま議論したいのは、こうしたコンテキストを生成するアーキテクチャなのです。
コンテンツによってアーキテクチャが変化する相互関係
コンテキストを生成するアーキテクチャの例として、AKB48を取り上げたいと思います。私はあまり詳しくないのですが、AKB48は2014年の総選挙で、東京(AKB48)と大阪(NMB48)と博多(HKT48)と名古屋(SEK48)の対決! みたいな広告をやっていました。
アイドルの選抜を地域対抗で行うという新しいコンテキストが生まれて、各地域の人が応援して、博多が勝っただの名古屋が負けただのとやるわけです。
そんなふうに、各地域のグループというコンテンツが生まれることによって、地域対抗という新しいコンテキストが生まれるわけです。(AKB48は、そうした新しいコンテキス生成を促すアーキテクチャになっている。)
そしてさらに重要なことは、コンテンツと事業アーキテクチャとの間にフィードバックが起こっている点です。自分の生んだコンテンツから影響を受けて、またアーキテクチャ自身も変わる。で、変わったアーキテクチャからまた違ったものが生まれていく。こういう動的な働きです。コンテンツの働きを受けて、新しいコンテキストがそこに生まれて、さらに新しいアーキテクチャへと変化して、その結果、多様なコンテンツが生成されるんです。(注意したいのが、これはさきほど紹介したようなアーキテクチャを強化するループではなく、アーキテクチャを変化させていくループです。)
先ほど江渡さんが挙げられていた初音ミクもそうですね。ボーカロイド自体はそんなに売れなかった。だけど、「ニコニコ動画」というアーキテクチャのなかで新しいコンテキストに置かれた瞬間に、それが突然輝いて、初音ミク現象が生まれる。そして初音ミクが出てくることによって、またニコニコ動画のアーキテクチャも変わってくるわけですね。
もうひとつ具体的な例を挙げると、たとえばインスタグラムのハッシュタグです。ハッシュタグというのは、もともと世の中にはなかったものです。ご存じのように、ツイッターの中で、ある人が、たとえば日の出の写真を撮ったら「#日の出」とか、今回のアメリカ大統領選挙選挙だったら「#トランプ」とツイートにつけるようになった。それは、最初はイレギュラーで、ユーザーが勝手に使っていたんですね。そうやって新しいコンテンツが出てきたから、ツイッター社としてはそれを使いやすくしようと思って、今度は、ハッシュタグをリンク化して、ポチッとクリックするとそのハッシュタグの付いたツイートだけが検索して出てくるようにした。そのように、アーキテクチャも更新されていくわけです。
コンテンツをつくる側は、それを楽しんでいる人たちがいると、運営側もそれを見て「ああ、これをこういうふうに変えていこう」とアーキテクチャの設計も変わっていく。今や渡辺直美のハッシュタグもそうですけど、ほぼ他は誰も使わないようなハッシュタグが遊びのように使われている。
こんなふうに、コンテンツをつくっていくとそれがアーキテクチャにどんどん影響を与えていく、というように、相互関係で新しいコンテキストを生み出すようなビジネスモデルがある。(いやそれどころか、これこそがビジネスモデルとして生き残る重要なプロセスになっているようにも見える。)
YouTube もそうです。YouTube は、元をたどれば出会い系のサービスだったという話もありますよね。そこから動画コンテンツを提供するようになって、さらに最近では、YouTuber というのが出てきた。そうすると、YouTuber 向けの仕組みをいろいろアーキテクチャ上につくっていく。人気のYouTuber がちゃんとコンテンツを広く展開できるように、チャンネル登録をさせたり。
アーキテクチャの変化によってコンテンツが変わり、またコンテンツが変わることによってアーキテクチャがどんどん進化しています。コンテンツがアーキテクチャ変化の担い手であり、と同時にその産物でもある、みたいなことが起こってくるんですね。
作り手を疎外するビジネスモデルは永続しない
アーキテクチャが一方通行に、ただ一様のコンテンツを生み出すとなると、コンテンツの作り手にとっても、コンテンツを受け取る側からしても、窮屈です。何か仕組まれたような感じがします。
マルクスの言葉で言えば、コンテンツが疎外されるということです。マルクスがすごいのは、共産主義を構想したからではなくて(それも世界史に大きなインパクトを与えましたが)、「つくり手を道具のようにして使ってしまうと、できたものがおもしろくない」というようなことを言ったからです。
マルクスは、(意訳すると)労働者が自分のつくったものを資本家にまるまる渡してしまうと、せっかく身を削ってつくったものがどんどん人のものになって達成感もなく、ずっとベルトコンベヤーで働いているようになって、楽しみがなくなる、生きがいなくなる、と言ったわけです。で、「ちゃんと働くことを生きがいにできる仕組みをつくろう」と考えたわけです。
そうした視点から見ると、アーキテクチャをつくってとにかくどんどんコンテンツを輩出していくコンテンツ生成のアーキテクチャーのやり方の限界が見えてくる。われわれユーザーからしたらおもしろくないものがどんどん量産されることになる。(そしてそれ以上に、作り手にとってもおもしろくない。)
それはおかしいだろうということで、生み出したコンテンツによってアーキテクチャ自身が変化を受けて変わるようにすれば、アーキテクチャに作り手が一方的に使われないようになる。そうすることによって、コンテンツの魅力がどんどん広がるんです。これは初音ミクなんかもそうですし、つくり手の意識としてはすごく、自分がつくったことによってまたアーキテクチャが変わるし、その変わったアーキテクチャに乗っかって、また歌ってみたとか踊ってみたとかできる。そういう感じでどんどんコンテンツがおもしろくなっていく、ということです。
コンテンツをお金を儲ける道具として見た瞬間に、たぶん製品開発ってつまらなくなるんですね。儲かるかどうかだけが問題になる。これは新規事業も一緒ですね。単純に儲かるかどうかという話だけだとおもしろくないんです。そうじゃなくて、コンテンツとアーキテクチャを一体で見る。新コンテンツ商品を生み出すことそのものに喜びがあり、生み出した新商品によって事アーキテクチャ業構造が変化していく。
こういったマルクスの考え方、「人というのはつくったものと自分とを分けちゃうと、人生が楽しくなくなる」という話を聞いて、日本の西田幾多郎という人が、「なるほど、自分が考えている、座禅を組んでいるときの考え方とよく似ている」と思ったんですね。自分と対象を分けてしまうと、そこに喜びがなくなる。そこを一体化して見ていく、と。……また難しい話ですね。最後のこの時間にする話じゃないですね(笑)。でもまぁ、自分のつくったものが他人に渡るんじゃなくて、自分と一体化する、ということです。そうすると、先ほどの話に戻りますが、どんどん新しいコンテキストをつくっていくビジネスモデルというのは、ニコニコ動画に動画をアップするような、個人のさまざまな多様な夢を受け入れて、それを受け入れた上で、その結果変化していくアーキテクチャというビジネスモデルというのがそうだ、ということです。
これは、会社の例でいうとわかりやすいです。ビジネスモデルがあって、当然そのビジネスモデルから職務ができるわけですね。個人で営業してくださいとか、何とかしてください、と。でも、道具としてわれわれが使われたら、なんかやりたくなくなって、退職したりウツになったりするわけですね。そうじゃなくて、それで自分たちの夢も叶えられる、と。そうしたときに、この会社のために何か働きをしていこうという循環が生まれるわけなんです。このときに重要なのは、自分ががんばると会社が変わるとか、自分ががんばると社会が変わるというような、アーキテクチャに関わっている感というのが重要なんです。
そのときに、アーキテクチャに関わるための個人のはたらきというものが活きてくるんです。
使い手が自己決定するパターンランゲージ
江渡さんの講演の中でも、パターン・ランゲージのお話がありました。パターン・ランゲージを考案したアレグザンダーは、実際に建物を使わない建築家が、使い手の気持ちも考えずにデザイン性を優先させて「どうだ!」みたいな、(コンクリート打ちっぱなし! かっこいいけど、住んでいると寒い! みたいなね)建築を作ってしまう問題を取り上げました。うちの実家もそうですけどね、玄関から入って台所に行くのに、居間を通らないといけない。廊下がないんですよ。結果、お客さんが来ているときに台所に行きづらい。住んでみるといやだとわかる、というケースです。そうならないように、これもある種のマルクス的な話がベースにあるんですよね。つくり手と使い手が一体化して、つくる喜びを感じながら住む喜びも感じられる。疎外させない、という話なんです。
具体的に言うと、パターンを決めたんですね。玄関のパターンとか、こういう段差があるところのパターンとか、広場になっているところのパターンとか。そういうふうに、いくつかのパターンを組み合わせると誰でも建築ができるわけです。
DeAGOSTINI みたいですね(笑)。毎月来るものを組み合わせたらできる、みたいな感じです。何パターンもあって、実際にそれをもとにつくっていくわけです。重要なのは、いきなり全部をプランしないということです。徐々につくっていく。
パターン・ランゲージには、六つの原理がありまして、そのうち三つをご紹介すると、まず「有機的秩序」。要素が全部がちゃんと有機的につながっている、ということです。ビジネスモデル・キャンバスを使っている人はわかると思います。要素が有機的につながってストーリーができている。これと同じことです。そういうふうに使うということです。
二つめが「参加の原理」。住む人がちゃんと参加して、ここを玄関にしたらどうかとか……。みなさんも子どものころ公園とかでやりませんでしたか?線を引いて、ままごとみたいに「ここから玄関で、靴で入っちゃダメ!」とかね。
三つめが「漸進的成長の原理」。いきなりマスタープランをつくってしまうのではなく、みんなが参加しながらちょっとずつ成長させていく。こういった原理でつくっていったんです。
こういう原理でつくっていくので、(実際には優れた建築家もそうしますが)ある土地、場所に合った建物ができる。「ここに建つべき建築はどんなものか」とイメージするわけですね。京都だったら古風な和のテイストだとか、山の中にあればちょっと森と調和するようにとか、いろいろ考えるわけです。
そういう場の拘束条件を受けながら、でも、そこに住んでいるカオスな「こういう家に住みたい」とか「ああいう家に住みたい」という人たちの思いが、ちょっとずつパターンを組み合わせながら形になっていく。そして住んでみると「ここが使いづらい」とか「こういうほうがいい」という条件が出てきて、試行錯誤しながらものがつくられていく。これがパターンランゲージでアレグザンダーがやろうとしたことなんですね。
第三世代のシステム論
そのことをちょっと別の角度で見てみます。これも去年もご紹介したので、「ああ、見たな」という方もいらっしゃると思います。
「知識創造の経営」という文脈で、野中郁次郎先生と紺野登先生が整理した図です。これは、もともとはシステム論の第一世代、第二世代、第三世代というシステム論に依拠しています。
第一世代のシステム論というのは、古典的熱力学的モデルです。外的環境があったらベンチマークしてキャッチアップする。よく例に出すのが、オイルショックです。オイルショックで原油価格が高騰すれば、小型で燃費のよい日本車が売れていく。いちはやく外部環境の変化に対応したものが勝つのです。
今日の話の中でいえば、外的環境変化が起こったので、新たなコンテンツをつくってキャッチアップする。SUVが売れているとなったら、SUVを出すし、電気自動車がいよいよ普及するとなったら、「やっぱり電気自動車を大量生産します」となる。こんなふうに、外的な環境に合わせてつくるものを変えていく。
それに対して第二世代である自己組織化モデルというのは、外的環境の変化があまりに激しいので、自社のアーキテクチャ自体を変えていこう、というものです。富士フイルムがいい例ですが、デジタルカメラが出てきたときに、自社のフイルムを安くしたり質を上げたりしたって、もう敵いはしないですよね。なので、フイルム技術を液晶テレビのフイルムに、それからスマホのフイルムに、そういうのが稼ぎ頭になった。その後、医療や美容というところに展開するわけです。
新しいコンテンツをつくるために、アーキテクチャ自身、つまりビジネスモデル自体を変えていくというのが第二世代のシステム論です。
そして第三世代のシステム論であるオートポイエシスモデルというのはさらに進んで、パートナーと一緒に価値を共創するモデルです。先ほどの話で言うと、作り手たちによってさまざまなコンテンツが生み出されてきて、それをアーキテクチャ側でも対応して変化する。iTunes なんかもそうですね。最初は音楽だけだったのが、「映画もいいですよ、何とかもいいですよ」と広げていったら、なんか最近だとゲームがはやっている。そしてその都度、アーキテクチャが拡張していくわけです。iPhone がゲームプラットフォームをはっきり意識し始めた時期と、クリエイターたちやコンテンツ会社がゲームをつくり始めた時期って、ゲームの登場のほうが早いんですよ。Apple は、そのゲームが登録されて、よく売れるようになって、「これはゲームプラットフォームです」という打ち出し方をしたわけです。
つまり、アーキテクチャ側が外部環境を見て自分たちのアーキテクチャを自主的に変えるよりも先に、有象無象のコンテンツが内部にワーッと出てきてしまって、後追いのように自分たちのアーキテクチャを変化させていくというようなことが起こっているわけです。これを「オートポイエシスモデル」と言うんですね。
音声技術Alexaによるアーキテクチャ変革
今まさにこうしたことが起こっている現場というのは何かと言うと、これですね。
Amazon の、これ、何でしょう? そうですね、Amazon Echo。
今回、アメリカのカンファレンスCESが開かれて、一斉に「Amazon が次のプラットフォームの覇者になった」という記事が載りました。Amazon Echo 対応の機器が何百と登場したんです。
この音声認識の世界は、Google も、Apple も狙っていました。Siri って、みなさんも使ったことがありますよね? AppleはHome Kitなんて言って、もう数年前から先行して行ってきましたが、いまだにApple のSiri 対応、ホームキット対応のデバイスはほとんど出てきていないんです。そして今回のCESではっきりわかったのは、音声認識コントロールにおける覇者はおそらくAmazonだということです。あとは、Google がちょっと対抗できるかどうか。
たとえば、これはサムスンが発表した冷蔵庫です。
何かが足りなくなったら、たとえば牛乳がなくなったら、音声でパッと注文できるわけです。そしてAmazon がすごいのは、Amazon Fresh というサービスがあって、生鮮食品も含めて配達できる。冷蔵庫がAmazon の店舗になってしまうのです。
もはやお店に行かなくても家で注文できるから、コンビニ等に買いに行く必要がない。(そうするといよいよ、「コンビニで何を売るか問題」というのが出てくるわけですね。おそらくすぐに消費される中食専門の飲食店という位置づけに近くなるのではないでしょうか。)
こういうプラットフォームが出てくるとき、いったいどんなものがAlexa 対応で出てくるのか、Amazon 自身も予測がつかないんですね。けれども、このプラットフォームをとにかくオープンで提供すると、いろいろなパートナーがいろいろなコンテンツを提供して、「ああ、なるほど、これだったらいける」というふうになってくる、と。そして、iTunes がそうなったように、新しいコンテンツに合わせてアーキテクチャも最適化されていくことになるでしょう。
こんなふうに、コンテンツをどんどん集めて、そのなかでキラーコンテンツがでてきたら、それによってアーキテクチャ自体も変化していく。アーキテクチャがそこに開かれて変化していくとなると、これは今やっぱり最強のビジネスモデルだと思うんですよ。
今までのビジネスモデルは、いかに効率的によい製品を出すかというパラダイムだったんですね。それはソニーも一緒です。パナソニックとかね、いろいろな電機メーカーはみんなそうです。
今までは、ニーズをとらえてマーケティングをしていい製品を出していこう、と。でも今は、こうやってオープンにして乗ってきたパートナーのコンテンツを見ながらアーキテクチャ自身を柔軟に変えていく。そのアーキテクチャ自体を柔軟に変えていくところの柔軟性が失われた瞬間に、実は次のところに覇権が渡ってしまうのです。
アーキテクチャ間競争
ニコニコ動画の有料プレミアム会員の数が、今回初めて減少したというニュースがありました。これは何が理由か詳しくはわからないですけど、モバイル対応が遅れたこと、モバイルでの新しいコンテンツの楽しみ方が出てきたことが原因と言われています。今までそうやって賑わっていたところであっても、アーキテクチャ自体がどんどん変わっていかないと、競争に負けてしまう。新しい価値を提供できない。そしてアーキテクチャ自体が変わっていくためには、やはり新しいコンテキストを創造、生成するということが重要なんです。
このAlexa はどうなっていくのか。それをイメージさせてくれるもののひとつに、日本でも最近導入されたAmazon Dash Button があります。
ボタンを押すと注文できるデバイスですね。私はこういう新しいものが大好きで
すから、さっそ五個買って家中に貼りつけて、トイレットペーパーや歯磨き粉やマウスウォッシュなど、なくなったらこのボタンを押して注文しています。そうするとおもしろいことに、マウスウォッシュがなくならなくてイライラするんですね(笑)。押したいのに。一生懸命クチュクチュペッとするんですけど、なくならなくて、ちょっとフライング気味に買っちゃうんです。ちょっと残っているけど今買っておこう、みたいに。で、翌日届いて二つになっちゃう、みたいなことがあるんすけど(笑)。
これは画期的ですよ。今までだったら、「なくなっちゃった、買いに行かなくちゃいけない」とストレスを感じていたんですけど、それがすぐ買える快感に変わる。ここがお店の一番の入り口になって、購入プロセスが激変して、それでわれわれの振る舞いが変わってしまう、ということなんです。そして振る舞いが変わった瞬間に、今までだったら「150円と138円……。じゃあ138円の歯磨き粉だな」と値段を比較して買ったり、「テレビCMでよく見ていて名前を知ってる」といったことで購入していた購買行動が、 ボタンひとつの利便性で買う、ということに取って代わられてしまうんですね。
これをビジネスモデル・キャンバスで描いてみましょう。
新しい購買の入口、Amazon Dash Bottun
これはAlexa の必勝パターンですけど、メーカーがどんどん増えていくと、そこで音声を使う人が増えれば増えるほど音声データのリソースがたまって、どんどんいい機能が増えていく、ということなんですね。これは機能強化の自己強化ループです。
さらに、対応機器というリソースが増えていく。Echo がインストールベースで1,000万台売れた。それ以外にも、CESで発表された対応機器を買う人がいっぱい出てきます。そうすれば1億台、2億台はすぐ行くと思います。こうなると、電機メーカーなどのサプライヤーは「これからはAlexa 対応の仕組みが必要だ」みたいな話になる。そうすれば消費者の選択の幅、セレクションが増えていく。セレクションの自己強化ループが回るんです。
Amazon が勝ち続けるんですね。Google はもしかしたらなんとか勝てるかもしれない。
ポケモンGOが飽きられる理由
いずれにしても、われわれの無意識の行動もすべてそういうアーキテクチャに強い影響を受けていて、無意識のうちにアーキテクチャに沿った行動をしてしまう。それこそ、ポケモンGOが出たからついつい普段より1,000歩以上歩いてしまう。そういうふうに影響を受ける。
でも、ポケモンGOは飽きますよね? この前も新しいポケモンが追加されて、また遊ぶ人が増えましたが、でもすぐ飽きてしまうでしょう。なぜかと言うと、あれはコンテンツ生成のアーキテクチャではあっても、コンテキス生成のロジックがないからなんです。コンテンツは増えていっても、仕組み自体は変わらないから、楽しみが増えないんですね。ユーザーが歩いたことによって、ポケモンGOのアーキテクチャ自体が変化しないと、飽きてきちゃうわけです。
ユーザーの振る舞いを受けて新しい遊び方ことを提示していくことが重要なんです。僕は、ポケモンと旅行に行く、というのがいいと思うんですよね。たとえば、ポケモンと旅行に行って京都に行ったらそこの写真が残って、ポケモンとの旅行アルバムみたいなものができる、みたいな。
そういうふうに、旅行中にポケモンGOをやっているユーザーが増えてきたときに、旅行向けに新しくアーキテクチャに変更を加えていって、どんどんユーザーの振る舞いをアーキテクチャの中に取り込んでいく。こうしてアーキテクチャ自体を更新していくことによってユーザーの興味を持続させる必要があるんです。
自然界におけるアーキテクチャ変革
そういった、個の振る舞いを受けいれてアーキテクチャを自己変革していくのって、自然界ではふつうに行われています。これも去年見せた図ですが、それをちょっと違う視点でお見せします。
自然界における植生の遷移 https://ja.wikipedia.org/wiki/
最初、裸地、岩肌だったところに苔がむします。苔ってコンクリートとかにすぐ生えますよね。そして、有機物がたまっていくと草が生えて低木になって森になっていきます。これは自然界の植生の変化です。この植生の変化、これは植物自体がコンテンツとして考えた場合、蓄積するコンテンツによって生態系が変わっていく、すなわちアーキテクチャが変わっていくんです。コンテンツ生成とアーキテクチャの革新が、同時進行で起こるんです。
ここにあるのは共創(コクリエイション)です。いっしょに生きている共生だけでは、共創ではありません。ものを創り出し、さらにはアーキテクチャ自体も革新していくのが共創だと考えています。であれば、日々コンテンツを生成しながら、生成されたコンテンツによってアーキテクチャが変わっていくようなビジネスモデルこそが、共創のビジネスモデルなんだと思うんです。そしてそこでは、多様な生物によって日々更新されていく生エコシテム態系という〈場〉こそが、共創の重要なポイントになっていくんです。協力関係は一対一です。でも、共創関係というのは、〈場〉を通じた共創であり、〈場〉の創造行為なんです。
生物が〈場〉から生まれ、そして自ら〈場〉に働きかけることによって植生が変わる。そしてまた、変化した〈場〉から新しい生物が生まれる。そこには、(これは場の研究所の清水博先生の言葉ですけど)〈与贈〉の循環が起こっています。
苔は自分の身を挺してそこの土を、有機物を食べることによって、次の低木とか草とかのために、ある種の自己犠牲をしているんですね。でも、そのことによって実は生物が新たな居場所を得られる。豊かになればなるほど、自分たちが生活しやすくなる。そういう循環があって、これを与贈循環と呼んでいます。
生物界の話だけでなく、ビジネスの世界でも、これまで見てきたように、ユーザーやサプライヤーにコンテンツをつくってもらいという与贈を受けて、アーキテクチャを変えていく。そして、与贈してくれたユーザーに返礼していく。そうした関わり方が重要なんですね。
今日はそういった話を、ストーリーとナラティブという対比の中で考えてみたいと思います。
ストーリーからナラティブへ
ストーリーとは、そのまま物語という意味です。三宅さんの話でもありました。ストーリーは重要ですよね? でも、これが20世紀の哲学、社会科学の世界では、ストーリーというのをもうちょっと細かく、ナラティブ、すなわち物語の語り口までを問題とし始めたのです。
同じ物語であっても、NHKのアナウンサーのように感情も込めずに、「これがこうなりました」というふうに言われるのと、竹林さんにあの口調で言われるのと、これは全然腹落ち度が違います。
つまりそこには、竹林さんがどのように世界を見ているかというものが、実は語り口の中にすごく出てきていているわけです。
しかもそれは、どのような場面で話すかによっても変わってきます。竹林さんがこのオリンピアの場で話すのと、竹林さんとはある仲間内での合宿をやったんですが、合宿の場で話す話し方と、また経団連とか経産省の方々の前で話す話し方とでは違うと思うんです。語り口というのは、どんどん変化する。同じ人でも、その瞬間、その瞬間で語り口が違ったり、世界のとらえ方が微妙に変わったりする。とすれば、同じストーリーであっても人によって捉え方が変わるし、その多様な捉え方こそ問題にするべきだというわけです。
Amazon が本屋さんからECサイトになり、さらにITインフラを提供したり、AIのインフラを提供し、音声認識までやっている。最終的には、Amazon に頼むしかなくなります。これをストーリーとして、客観的に語るときには、「Amazon が世界を牛耳りました、終わり」みたいな冷静な語り口になるはずです。過去の事実を伝えるような話になってしまう。
しかし、ナラティブに注意していくと、このストーリーも生き生きとしてきます。たとえば、こんなふうに。「Alexa によって音声認識をするとすごいんですよ。しゃべっていることをどんどん認識するようになり、そのデータを蓄積して、その行動をためていくんです。どんなことをしたのか、一か月前に何を買ったのか、どんな番組を見ているのか、温度が何度のときにどういう行動をしているのか。天気のときはどうか。冬になるとこうだとか、春だと違うとか。そういったものがどんなふうにビジネスに影響を与えていて、どんなことになるのかというのを見ていくんです」
今まさにワクワクしながら「どうなるのだろう!」みたいな感じで語られると、さきほどのストーリーとは違って、引き込まれますよね。これから何が起きるかわからない。ワクワクドキドキするわけです。
客観的に語られるストーリーというのは、そういう結末までひとつの一貫した物語となります。一方、ナラティブというのは、「え? これから次どうなるの?」と言われて、「続きは来週」という、先の見えない感じですね。現在進行形で続いていくわけです。
漫画家でも小説家でも、結末がわからないまま書いている、という人がいますよね。あれがまさにナラティブな物語のつくり方なんですね。混沌の中から、物語を創り出していくそのやり方こそ、ナラティブなアプローチです。
ストーリーというのは筋プ ロット書きが決まっているんです。プロットというのは因果関係ですね。「主人公がこういうことをした。なのでこうなります。こうなったので犯人に撃たれて重傷を負います。だけどそこからリベンジで犯人を捕まる」というように、因果関係で続いていくのがプロットであり、ストーリーを見ながらわれわれはそのプロットを理解するわけです。だから、ナラティブな語りにあるワクワクがないんです。
多様なナラティブからストーリーを紡ぐ
しかし、ナラティブというのは、単純な因果関係を超えるわけですね。どうなるんだろう、どうなるんだろう、とグイグイと引き込まれる。そしてその世界は一本道ではなく、多様です。ここに集まっているみなさんの一人ひとり、世界の語り口は違うわけです。
さきほどから私がAlexa をすごいですよと言っても、そのAlexa がどんなふうにすごいかというのは、いろいろな一人ひとりの語り口があるんです。「Amazon のAlexa をどう思います?」 と聞かれて、Aさんは「音声認識で、手ぶらで料理ができていいなと思いました」と言うかもしれません。
「リンゴ」と言ってスケールに乗せると、「リンゴが120グラムなのでカロリーいくつ」と音声でものを認識して、カロリー計算してくれるというAlexa 対応のデバイスがあるんです。そういうもので「料理に便利だ」と思う人もいれば、「いや、エンタメの世界で便利だ」と思う人もいる。見たい映画を口で言ったらすぐ見られるとか。そのように、一人ひとりAlexa 側から受けるナラティブというのは異なるんです。その語り口の多様性がカオスであり、そのカオスから新しいビジネスが生まれる。これが重要なんです。
みんなの共有したストーリーに乗っかる予定調和ではなく、一人ひとり違う人生、違う物語を即興的に生きているということなんです。そしてそこから、全体のストーリーが変化していく。全体のストーリーが先にあるのではなく、個別のナラティブの多様性こそが先にあるんです。このあとさきを取り違えてはいけないんです。
多様なナラティブ、一人ひとり個別に違うということ、そこにそれを受け止めるコンテキストが生まれること、そしてそれによってアーキテクチャが変化していくことが重要なんです。
Alexa のビジネスモデルは、音声認識をいろいろな場面に使いたいメーカーの人たちにとって好都合だから、Alexa 対応の商品を出すわけですね。そういう、いろいろな思惑のある人たちを受け入れるアーキテクチャを持っている。米倉先生に「それはない」と言われてちょっと自信がなくなりましたけど(笑)、ストラクチャード・カオス、すなわちアーキテクチャの上にカオスを意図的につくり出すことによって、アーキテクチャの次の進化に生かしていくということを考えたいんです。
生物が多様なのはなぜでしょうか。もっと少なくてもいいんじゃないでしょうか。そのほうがシンプルで世界を設計しやすいんじゃないでしょうか。でも、カオスを排除した生物群、無駄のない生態系は脆弱性を抱えてしまい、ちょっとした変動によって滅びてしまうかもしれません。
生物が多様なのは、それによって生態系がまた豊かになるからです。そして環境変化に耐えうる、いま流行りの言葉で言えば、復レジリエンス元力をもつわけです。ユーザーの持つ多様なナラティブをちゃんと生かして、そのことが自分たちのビジネスのレジリエンスになっていくんです。
Alexa の可能性がさまざまな語り口で語られたり、ユーザーが作った太いフレームの自転車をつくり、そのアイデアを取り入れて新しい自転車をつくっていく、そういうことが、ビジネスモデルとしては重要なんだろうな、と思うんですね。
日本の多様性を支えるふたつのナラティブ
最後に、これもこの短い時間にすることじゃないんですけど、日本の多様性を支える二つのナラティブの話をしたいと思います。梅原猛という哲学者が日本思想とは何だろうか、と考えたときに、ふたつの柱があると考えました。(このふたつはある意味、日本のビジネスモデルの原型(アーキタイプ)と呼んでもいいと思います。)
ひとつは、禅。これはもう世界中に知られています。禅というのは日本的なものの代表として、さんざん紹介されてきました。しかしそれだけで日本は語れないんじゃないか。もう一個あるんじゃないかと梅原猛は考えた。それが「山川草木悉皆仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」つまり、あらゆる生命が仏性を持っているんだという思想が、実は日本を支えているんじゃないかと、梅原猛は考えたわけなんです。
禅というのは先ほど言いましたように、自分と他人とを分け隔てない自他非分離に特徴があります。西田幾多郎も座禅を組んで「そうだ」と言ったことなんですけどね、分け隔てなく考える。それは、自分がコンテンツをつくり出したときにそのコンテンツを自分と分けて考えるのではなく、自分の分身のように考えるやりかたです。アーキテクチャとコンテンツを分けない考え方でもあります。分けてしまうと、疎外されて作り手側もおもしろくなくなる。
ユーザーの振る舞いによってアーキテクチャ自体も変わっていくという意味で、個人と〈場〉とが非分離で関係している。これは、別の言い方をすると、場の変容に参加する原理なんですね。場が変わっていくということにコミットしよう、と。
われわれが会社の中で仕事を受けて、単に言われた通りやるんじゃなくて、会社自体を変えてやろう、と。三宅理論ですね(笑)。三宅さんはここの分野でがんばっている。私は早々に断念しました(笑)。松竹という会社で伝統芸能に関わる仕事をやってみて、「ああ、これはたいへんだ!」と。でも、そこで自他非分離、つまり自分はどのように関わっていくかということが重要なんです。
仏性という与贈が返ってくる
一方の山川草木悉皆仏性というのは、さっき言った与贈循環を完成させるために不可欠な思想なんです。私は先ほど縄文の話をしましたけど、縄文の思想もまさにそうですね。すべてに仏性がある。すべてがプレゼントであり、循環しているんだということを言っているんです。山には山の言い分がある。川には川の言い分がある。草には草の言い分がある。そういういろいろな言い分、多様なナラティブを受け止める原理というのがこの考えなんです。禅と山川草木悉皆仏性がセットになって与贈循環が成立するんです。
そういったことを体験的に実感したのが、復興ボランティアです。山形大学のボランティアのスマイルエンジンというのに参加しました。3月に震災が起こって5月には石巻に入ってボランティアをやっていました。
7月になってようやく、それまでなかなかボランティアバスが入れなかった牡鹿半島という地域に入ることができました。道路が復旧してバスが通れるようになったんです。そしてようやく現地に入ったときに言われたのが、家も流されて大変な状態になっているにも関わらず、「まずその集落にある神社を片づけてほしい」ということでした。
震災後のボランティアで取り組んだ神社の復旧
神社の鳥居の足元20センチのところまで水が来たんですけど、そのさらに上にある神社は津波の影響をまったく受けなかったんですね。しかし残念ながら、山のほうからの土砂崩れで建物の半分くらいが埋まってしまっていたんです。何か月ぶりかに大型バスがようやく通れるようになって、われわれ50人ぐらいのボランティアが行ったら、神社の片づけをさせられた。これはすごく印象的でした。
つまり、人々が暮らす家というコンテンツよりも先に、その地域の集落を支え、特徴づけているアーキテクチャとしての神社の修繕からやってくれ、という話なんですね。
われわれの行動原理として、そういうものが備わっている。神社とかそういったものにも仏性が、まぁ神社に仏性と言うと宗教的にまずいのかな(笑)、〈場〉に対するリスペクトがすごくあるわけですね。〈場〉と一体化して、じゃあそこをちゃんとケアしていきましょうという行動原理がある、ということです。
土蜘(つちぐも)を鎮める
そういった感覚を、お能をやっていても感じます。お能にはよく怨霊がでてきます。2015年には『土蜘(つちぐも)』という演目をやりました。
『土蜘』を演能する様子。小山は真ん中の土蜘を演じている。
土蜘というのは、実は弥生人に抵抗した縄文人につけられた蔑称です。弥生人が入ってきたときに、追い出された縄文人が田んぼの畔を壊したりして抵抗したんです。そして、山の中に隠れ住んだ。そこで弥生人が、抵抗する縄文人を悪くいう言葉が「土蜘族」という言い方だったんです。
能のお話では、その土蜘を退治するわけなんですけど、日本の風習として退治したものもちゃんと弔ったんです。お能の演目の『土蜘』は、遠い過去に退治したはずの土蜘の精霊をもう一回、現代の能舞台に蘇らせて、それを改めて退治する物語なんです。重要なのは、土蜘にその無念を言う場面をつくってあげるんですね。そうすることによって土蜘族のナラティブ、土蜘族という縄文人の世界観、思いみたいなものを受け止めるわけです。まぁ結局成敗するんですけど(笑)。でも、ちゃんと発表する場を与える。そういう装置として能舞台が機能しているんです。
こうしたことが、能のアーキテクチャになっているんです。能舞台という舞台装置だったり、物語の語り口だったりというのは、無念を抱えている人たち用に設計されているんですね。
与贈循環を支える縄文スペースデザイン
この図は、縄文ムラのスペースデザインです。縄文村のつくり方です。
これ、おもしろいですよ。これは私が小学生のころ福岡県に住んでいたときに感じていたこと、そのままなんです。これ、「ああ、やっぱり日本人だな」と思いますよね。イエがあって、そのソトにムラがある。小学生のときは、だいたい自転車で行けるところ、校区というのがありましたよね。それがひとつのムラ的なところです。そして、そのさらにソトにハラというのがある。原っぱの原ですね。このハラが、縄文人にとって、植物を採取したり動物を獲ったりする場所であり、自然との共存共生の場でした。里山なんていうのもそうですね。
そこから聖なるヤマが境目になって、その先というのは異界なんですね。異空間。子どものとき、思いました。福岡って、だいたいすぐ山なんです。低い山です。でも、山の向こうというのは得体が知れない「向こう側」だった。
そういう世界観があって、そういった世界で動いていた。日本人は「彼岸と此岸」という言葉を使いますよね。こちら側とあちら側。此岸というのと彼岸というのを考えて、死んだ人は彼岸に行っちゃうんですけど、お彼岸の日は帰ってくるというふうにパラレルワールドを設定して、世界を認識している、ということです。
能舞台もまさにこうしたパラレルワールドを出現する装置として機能しています。正四角形の場所はこの世のものでない怨霊や精霊も存在できる空間です。橋掛(はしがかり)は彼岸と此岸をつなぐ役割を果たしています。縄文のスペースデザインの思想がそのまま具現化されているのです。
そういう世界観が、実は日本を縄文時代、何千年何万年と平和にしてきたんじゃないか、と思っているんです。最後にその話をしたいと思います。
パラレルワールドによって対立を解消する
最初に紹介した「ニライカナイ」、自由が丘につくったお店ですが、このニライカナイというのは、実は沖縄の人たちにとってのパラレルワールドの名前なんですね。ニライカナイというのは海の底にあって、そこから死んだ人がやってくる。また、生まれる人もそこからやってきて、死ぬとそこに帰っていく。そういう彼岸として設定されます。当然、それは沖縄からヒントを得ました。それを自由が丘につくりました。さらに、これを丹波篠山とか能登半島ですね、そういったところに多店舗展開していきたいな、という構想なんです。
今、沖縄と本土というのは、基地問題など政治的に対立していますね。この対立を解消するいちばんの方法、縄文的知恵というのは何かと言うと、ここに彼岸を設定して、彼岸を経由してコミュニケーションするんです。直接やりあうとお互いに否定しあいます。「お前のやり方は違う」と。そうじゃなくて、「お互い、死んだらあの世に行くのは一緒だよね」と。そこから帰ってきたものとしてお互いがコミュニケーションする、というやり方をとるわけです。
沖縄ではないですが、熊送り(イ ヨマンテ)という儀式もありますね。アイヌの人が、熊を獲ったら熊を帰す。そうすることで、また食に困ったら熊が捕らわれにやってきてくれると考えるわけです。そういうふうにして、対立しがちな自然とわれわれを、対立しない形に持っていくわけです。彼岸を経由して、対立する相手との与贈循環の回路を設定するわけです。これは西洋とまったく違います。他民族、他部族ともそういった形で、異界を通じてコミュニケーションすることによって、対立を解消するわけです。
江渡さんが「共創には共通善が必要だ」と言いました。私の解釈で言うと、その共通善というのは、究極、日本人にとってはこの「彼岸」という概念なんですね。共有する「善」というのはパラレルワールドのことなんです。それを共有しているがゆえに対立をしない、ということです。そういうアーキテクチャとしての彼岸というものを考えていくと、日本的ビジネスモデルというのが浮かび上がるんじゃないかな、と思っているんです。
八百万の神が存在する日本というアーキテクチャ
最近も、映画『シン・ゴジラ』の表現には、彼岸と此岸を強く感じます。『君の名は』もまたパラレルワールドの話です。過去と現在が入れ替わり可能な平行世界として描かれるわけです。『この世界の片隅に』も、そうですね。現実と想像の世界がふっと入れ替わるような感覚があります。
こういった彼岸・此岸を設定したうえで、いろいろな人のいろいろな意見をナラティブとして、「そうだよね、そうやって思うよね」というふうに受け入れる。それは動植物も分け隔てなく受け入れて、コミュニケーションする。
禅や山川草木悉皆仏性という思想のもと、アーキテクチャとしての社会や組織がちゃんと相互作用するようなビジネスモデルを組んでいく。その結果、「1500年続いている日本の会社」「世界で最も古い会社のトップ3は日本の企業である」といったことが生まれてくると考えています。
日本におけるカオスというのは八百万の神であり、それがバラバラではなく日本というアーキテクチャ上に存在している。これが、私の考えるストラクチャード・カオスなんです。
※2017年2月開催のビジネスモデルオリンピア2017(混沌から生まれるビジネスモデル)講演より一部加筆修正して掲載しました。
未来のイノベーションを生み出す人に向けて、世界をInspireする人やできごとを取り上げてお届けしたいと思っています。 どうぞよろしくお願いします。