麻布十番に本家が3つ!更科御三家と更科一門を徹底解説!
お蕎麦に興味を持ったなら、必ず耳にするのが江戸東京の三大蕎麦、藪・砂場・更科の3系統。藪を代表する「かんだやぶそば」、砂場を代表する「虎ノ門砂場」と来て、更科はと調べてみると、本家を名乗る店が3つもある。しかもわずか170㎡しかない麻布十番に。更科の本場はどれなのか、それぞれの違いはどこにあるのか。文献を当たりまとめたところ、きっちり善悪の線引きができるようなものではなく、知れば知るほどドス黒い過去があるんじゃないかと勘繰りたくなるほどややこしい。
永坂更科とは
そもそもは江戸時代の中期、信濃布の御用商人だった清右衛門が、保科家のお殿様に趣味で作った蕎麦の腕前を認められ、その勧めによって店を出す決心をしたらしい。屋号は布屋、名を太兵衛に改め、御屋敷からほど近い永坂(現在の新一の橋交差点北側)に店を構えたのが『永坂更科』だ。瞬く間にその評判は広まり、明治時代には高級料亭の格式を有した名店だった。
といっても4代目以前の更科については不明である。清右衛門が太兵衛に改名する理由も伝わっていない。そしてざっくり言うと、230年あまり続いた永坂更科は戦前に廃業し一度終わっている。戦後一門とは関係のない永坂更科の看板を掲げた店が登場したことから、本家の再興を巡ってさらに2つの本家が名乗りを上げたということがこの問題のあらすじだ。
馬場家、小林家と堀井家
新開亭を営む馬場繁太郎が、廃業した7代目堀井保より屋号と暖簾を譲り受け1948年に『永坂更科本店』を坂下に開業。保は一時期ここで従業員として働く。そして保と小林玩具店経営者の小林勇が1949年に『麻布永坂更科総本店』を開業。1957年永坂更科本店(馬場)と麻布永坂更科総本店(小林)の両者間で屋号を使う調停を結ぶも、1984年再び訴訟を起こし麻布永坂更科総本店側の敗訴、馬場は永坂と更科の間にスペースを開けることで和解。時を同じくして八代目堀井良造が麻布永坂更科総本店から独立し、信州更科布屋総本店を開業。「布屋」の商標使用の差し止めを受け『更科堀井』と改名。これが現在、更科が3店舗(馬場家・小林家・堀井家)併存するあらまし。
当主の謎走
七代目の行動
名店更科の廃業理由は、様々な憶測が飛び交い判然としない。ただ、7代目の堀井保は馬場に対し、永坂更科の使用を認める証書を渡していて、これが後に馬場が商標裁判で勝訴できた決定的な証拠だった。ではなぜ保は屋号を譲り且つ証書まで残すことになったのか。一門にさえ見放された保を雇い入れ、「永坂更科」を使用するに当たり、齟齬や不和によって争いになる場合を見越して、双方の権利義務を法的に守らせるに足る拘束力がある公正証書を作成させたと見た方が自然だ。
ならば証書付きで譲渡した上、本店再興を助けた馬場に対し、保はなぜ使用差し止めの裁判を起こすのか。分店支店からなる一門衆に対し面目を失ったから或いは悔いて自前での再起を誓ったからだろうか。馬場から許諾を得て独立したはずだが、保は次に小林玩具店社長の小林と組んで総本店を掲げた永坂更科を開業する。一度廃業したとはいえ、一門の本家である7代目が切り盛りするこちらが”本物”であるのは誰の目にも明らかで、永坂更科・布屋太兵衛の両商標を取得したなら、いよいよ法律的にもこちらが本家だ。
八代目の行動
7代目保と小林が設立した麻布永坂更科総本店で修行を積んだ8代目堀井良造は、当社の役員でもあったが、商標裁判の決着を見たその年、24年務めた店を離れた。そうして経営権は小林に渡り、商標も法人に移るが、あろうことか8代目は「布屋」を冠した信州更科布屋総本家を開業する。案の定、使用差し止めを受けるのだが、一世一代の商標争いに、麻布永坂更科総本店の役員でもあった8代目が、万に一つも関わっていなかったとして、事の顛末を聞かされていないはずがない。
また彼は、個人で商標を取得しなかったことを“大失敗”と後に語っているがこれも不可解だ。7代目は個人(独断)で譲渡(行動)したから、名店更科の本家標榜合戦はここまでもつれたのだ。7代目も8代目も、戦後の混乱で失ったという一言では片づけられないほど、法律への理解が疎かだったのかも知れない。現在の更科堀井のウェブでも、創業と設立を間違えている。
何を以て本物か
散々列記したが要するに、法律に則り公正な手続きによって麻布永坂更科本店を運営する馬場家、7代目と共に設立し法律的にも正当性を認められた麻布永坂更科総本店の小林家、歴代の血と技を受け継いだ更科堀井の堀井家。これが今の麻布十番にある更科の姿だ。
しかしながら、後述の暖簾分けのしきたりによれば、「布屋」を名乗れるのは本店で修行した者だけである。7代目が創立メンバーで、8代目が修行した永坂更科総本店を“本店”ではないとすると、「更科堀井」は商標云々よか血を継いでいるだけで、しきたりに沿っていないことを明かしているのに等しい。
さて「寛政元年創業」というのは、麻布永坂更科総本店と更科堀井の両店が使用しているが、これは単に事業の始まりを表す語なので、組織の中に創業家一門が居なくなっても、麻布永坂更科総本店が230年の歴史を謳うことは問題ない。
麻布永坂 更科本店
昭和12年ごろに開業した「新開亭」が起源。廃業後雅叙園に勤めていた7代目を雇い入れた時から、「永坂更科」を出店したようだ。馬場家は一門でもないし本家でもないが、正式な手続きによって使用している。そして保の独立も許諾しているし、麻布永坂更科総本店(保と小林の当時の会社)との裁判に勝訴し控訴されてもなお相手に有利な条件で和解している。誠実以上に温厚な人柄であったことが窺えよう。
新一の橋の交差点に店を構え、広々とした店内は常に活気がある。出される料理の数々はどれも美味しいし、季節ごとに工夫がある。個人的にここのかけ蕎麦は一番うまいし、さすがは料理人が始めた店だけあってクオリティが高い。地元の小さなお子さんがいる家族連れが多い印象で、2階には上巳や端午など節句ごとにお飾りを設える。
総本家 永坂更科 布屋太兵衛
小林家は法律上正式に永坂更科を取得し、全国を跨いだ多店舗展開・通信販売事業・小売りによって広く名を知らしめ、さらに一度失われた永坂更科の創業地を取得し本社機能と工場を構えている。言わばブランドビジネスの慧眼と手腕の持ち主だろう。地方都市の大型商業施設や主要駅などを中心に14もの支店を有している。
麻布十番商店街の真ん中に、ビル1棟の大店を構え、瀟洒で清々とした明るい店内には馴染みの一人客や家族連れが多い印象。空きが多ければ1人客でも4人席に通してくれる余裕がある。蕎麦はもり、さらしな、生粉打ちの3種があり、から汁、あま汁からなる2種の味変も用意がある。将軍家御用を承った際に生まれた「御前そば」は今なお人気。料理の盛り付けも綺麗。
総本家 更科堀井
雑誌やテレビに頻繁に紹介され、年末の風物詩となっている年越し蕎麦を求める行列の映像は、決まって更科堀井だ。いや普段から行列ができ、麻布十番内外に常連を持っているようで何時だって繁盛している。もちろん血族であり一門相伝の技法や味を持ち、自他ともに認める本家はさしあたりこちらだろう。永坂更科に替わって東都のれん会の資格を有する。木鉢会に加盟。
店の入口にステッカーや告知、メニューの案内など無数に貼ってあって老舗蕎麦屋の格調というものはないが、大衆的で気兼ねしない入りやすさと、旬の折々を大切にした料理や蕎麦がある。風雅を楽しむ変わりそばができるのは白さが際立つ「さらしな」があってこそ。かつて江戸蕎麦にあった白糸・白菊・雪巻はいずれも蕎麦の色が白いことを強調したものだ。江戸中の評判をさらい、更科蕎麦の代名詞ともなった御膳そばも、上等な蕎麦・念を入れて精製した色の白い蕎麦を指したが、どうしたことかこの店には無い。
更科一門の歴史
神田錦町分店 布屋丈太郎
永坂更科最初の分店は、本店6代目のいとこ堀井かねとその婿丈太郎が開業した店で、屋号は布屋丈太郎といった。現在「神田錦町更科」として137年経ってなお続いている。2代目亀雄は本店7代目保の姉寿ゞを貰い、本家の血筋が2度入っていることもあってか、本店が廃業すると戦後の正統として神田錦町更科が本店を務める話が出たほどだ。そして亀雄の姉たきが開業したのが神田錦町更科品川支店なのだが婿の弟が継いだあと廃業している。
深川佐賀町支店 布屋善次郎
本店の板前だった赤塚善次郎は、8歳で奉公に入り18歳で本店の板前となった。そしてわずか23歳で独立を許されるほど信頼厚い職人だったようで、佐賀町で開業後、数年で牛込神楽坂へ移転すると三業地の繁栄もあって益々繁盛した。2代目正治は疎開時に家族が看板をどこかの料理屋に売却してしまったため再起を諦め廃業、布恒で修行した3代目昭二は、1967年に再興する際「さらしなの里」と名付け、築地で現在も続いている。善次郎から数えると創業125年、再興から57年。
日本橋支店 布屋源三郎
本店4代目の妻ともの弟藤村源三郎が現在の兜町で開業した店。源三郎は本店で帳付けをしていた人で、替わって本店の板前伊島昇太郎が源三郎の姪勢津と婚姻し運営する。赤塚善次郎の3年後輩で、遊び人やら香具師だったらしいが、人付き合いの広さから丸の内の再開発が近くあることを知り有楽町へ移転。翌年関東大震災で倒壊すると尾張町(銀座)に出店、次女津満と有楽町店板前の根本洝が切り盛りする。再建した有楽町店は丸の内の発展とともに、押しも押されもせぬ人気店となり、一門を代表する名店として名を馳せたが平成6年に廃業。昇太郎の次男恒次郎は日比谷公園内の売店、江の島への出店を経て昭和38年に南大井で布恒更科(布屋恒次郎)を開業。源三郎から数えて創業122年、布恒は創業61。銀座更科と麹町更科は平成6年と9年にそれぞれ閉業している。
芝二本榎支店
明治後期に従業員によって創業するも、創業者や屋号は伝わっておらず、暖簾分けの“しきたり”に従えば本店で修行してない者が独立したことになる。柿の木坂更科も開業したが共に戦時中に廃業。そこから30数年後、江戸川区篠崎の地に柿の木坂で修行した主人が柿の木坂小岩店を開業したようだ。
下谷池之端分店
本店7代目保の姉しげと白木屋の番頭赤沼経祐が、池之端のお茶屋を買い取り開業するも、2人は子供に恵まれず戦前に廃業した。その後赤塚は、同じく戦前に廃業した本店の従業員とともに、保と小林が開業の永坂更科総本店に加わっている。
神田錦町更科支店
本店6代目のいとこ堀井かねの息子で、神田錦町2代目の亀雄のもとに、本店7代目保の姉寿ゞが嫁いでくるにあたって、亀雄の姉たきが追い出されるような形で府下品川町歩行新宿(現:北品川)にて開業した。跡を婿の弟が継ぐも後に廃業。暖簾分けの“しきたり”に従えば本店で修行していないことになる。
暖簾分けのしきたり
上記は、某百科事典でも「蕎麦屋の系図」の中でも、唐突に掲載されているのだが、明治20年(本店5代目)から生まれた更科の暖簾分け制度を、6代目や7代目が“一門の古いしきたり”と語ったとは思えない。流れからして神田錦町の3代目(平成23年没)の話だろうと思われる。基本的に本店は子息が継いでいるのに対し、分店は当主のいとこ、妻の弟、姉、先代の従甥と当代の姉という、すべて本店の女性家族に起因した開業である。一方、支店では、源三郎は事務員で修行はおそらくしていないし、板前が支店の支店を開業、また帝劇や日比谷公園に売店を出店しているし、布屋恒次郎は、婚姻も本店修行も関係なく屋号を有した。
分店の開業は、特段腕前や人柄は関係ないし、本店の廃業の際も、本店機能の再構築や会社組織の設立の際も、一門が互助するようになっていない。
参考 : 蕎麦屋の系図 岩崎信也 / そば通ものしり読本 多田鉄之助 / 食行脚東京の巻 奥田優曇 / 蕎麦年代記 新島繁 / 昭和59 表示使用差止等控訴請求事件
その他の更科
近年存続の「更科」を掲げるお店がどれだけあるのか調べてみた。
千代田区
更科丸屋(九段北)
中央区
更科丸屋(京橋)、更科丸屋(新富町)、更科丸屋(日本橋本町・2020閉業)、更科(日本橋本町)、更科丸屋(東日本橋)、茅場町更科(旧更科丸屋麻布二之橋店)
港区
更科布屋(芝大門)、更科丸屋(芝)、更科芝五(芝)、更科京屋(芝)
台東区
更科(浅草橋)、更科丸屋(東上野)、更科前田屋(台東)
墨田区
更科上むら(業平)
荒川区
更科(南千住)
江東区
更科(北砂・閉業)、更科(大島)、さらしな遊山(千石・2013閉業)
江戸川区
更科(大杉)、柿の木坂更科小岩店(北篠崎)
葛飾区
更科ゆたか(青戸)、更科(西新小岩)、更科(東立石・2011閉業)
足立区
更科(千住東)、更科(西保木間)
北区
更科(赤羽南)、更科(志茂)
板橋区
福原更科(小豆沢)、更科(徳丸)
新宿区
四谷更科(新宿1)、更科(新宿2)
文京区
さらしな遊山(千石・2013閉業)
豊島区
要町更科(池袋)、目黒更科巣鴨店(巣鴨)、更科(巣鴨)
中野区
さらしな總本店北口店(中野)、さらしな總本店南口店(中野)、更科(南台)
練馬区
更科(富士見台)、更科(東大泉)
杉並区
更科(阿佐谷北)、おそば更科(阿佐谷南)、更科丸屋(高円寺北)、更科(高井戸東)
渋谷区
渋谷更科(宇田川町)、更科(初台)
目黒区
蛇崩更科(上目黒)、目黒更科本店(下目黒・2013閉業)、更科(下目黒)
世田谷区
更科(喜多見)、更科(等々力)、上野毛更科(仲町)、更科(東玉川)、更科若松(深沢・2023閉業)、更科(用賀)
品川区
大井更科(大井)、更科(小山)
大田区
更科(池上)、更科(中央)、日の出更科(南蒲田)、山王更科一力(山王)、更科そば広栄(千鳥)