記事から ガザと世界秩序の再構築 2024年4月29日
アメリカとイスラエルが自らの思想を固持する根底には、自然法的な感覚があるのかもしれない、などと思った。
人は、自分が虐殺を犯したのではないかという反芻に耐えられるようにはできていない。だから、虐殺を行えば行うほど、自分の為したことは自然法に則っていることなのだと思い込む必要がでてくる。そして、その行為が自然法に則っているとすれば、虐殺は虐殺ではなく正当な防衛であると認識することができる。この、心理的な安全性を確保するためのプラクティカルな要請に応えているのが、「欧米諸国が振りかざす国際人道法の諸原則や自由民主主義の価値観」なのではなかろうか。それは彼らにとって自然法となってしまっている。ここでわざわざ「自然法」と述べるのは、「本当に普遍的なのだろうか?」という問いに対して彼らは閉ざされていると思うからだ。
自らの価値観を省みないということは、普遍たろうとする努力を放棄するということだ。それは結局、欧米的価値観に内在する普遍性をやせ細らせ、自分たちの振る舞いをローカルなものに格下げする結果を招く。それは、世界秩序の構築から身を引くことを意味する。
退潮する理念。また、経済はすでに退潮している。
「だったらあえて欧米につく意味があるのだろうか?」といった感性が広まっても不思議はない。そんなことを考えさせられたのが次の記事。
さて、欧米がプレゼンスを保つに際して、経済的な席巻を期待できる時代がもう終わったのならば、理念と行動を再点検していくことが残された手段の一つであるように思われる。
しかし、欧米がその線も放棄するとすれば、重大な帰結として、世界秩序の不安定化を招くことになるだろうと思う。それは究極的には、(荒唐無稽に響いてくれていいが)核戦争ということだ。
ただ、楽観的に考えるなら、今の状況は普遍的秩序を再構築するための機会とも言える。「「占領者によるジェノサイド」の論理」も一つの回答であろう。世界秩序を良い形で安定させるための論理が練り上げられている段階であると思いたいものだ。
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