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Tyla 〜多極化する世界のアイコン
2023年末に大ブレークを果たし、2024年世界中を席巻した南ア出身の音楽家/シンガー「Tyla」。南ア発の新ジャンル「Amapiano」を世界の音楽地図に乗せた、新世代のグローバルアイコンが提示する価値を、流動化する世界情勢を背景に、若林恵が読み解く。激動の2024年の締めくくりの仮想対談。
Text by Kei Wakabayashi
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サマソニ降臨
──この記事は、南アフリカ出身の大スター、タイラに関するものだそうですが、先にお伝えしといたほうがいいかと思うのは、この記事は、これまで『週刊だえん問答』シリーズで用いてきた「仮想対談」という手法によるもので、聞き手の文章も答え手の文章も同じ人物が書いているものだということです。なんでわざわざこんな形式でやる必要があるんですか?
今回は話題がタイラということで、話題が多岐にわたるような気がして一人称による平叙文だとちょっと重たくなるかなと思ってこうしてます。文量が多くなっても、会話体であれば、比較的するすると読めるかとも思いますし。
──多岐にわたりますか。
無理に話を広げることもないとは思いつつも、タイラの存在はいろんな意味で、いまの世界を反映しているように思いますので、この間、タイラに限らずアフリカの音楽をめぐって感じてきたことに、国際的な政治情勢を見ながら感じてきたことを織り交ぜながら語れるといいかなと思ってます。
──どこから始めますか。サマソニの公演はご覧になったんですよね。
観ました観ました。ほんとに想像以上によくて大満足で帰ってきました。というのも、始まる前は若干心配してたんです。当初は14時頃のわりと早い時間のマウンテン・ステージにタイラはプロットされていましたが、PINKPANTHERESSのステージが急遽キャンセルになったことで、タイラの出番がトリ前に移動しました。そもそも日本でタイラのことを熱心に聴いている人がそこまでいるとはおそらく主催側も思っていなかったからこそ当初の出演時間が設定されたのだと思いますが、わたしもその判断は妥当だと思っていました。
欧米で「Water」があれだけバズったとはいえ、初来日ですし、日本では一般的には馴染みの薄いアフリカ音楽のアーティストですし、「アマピアノ」といったところで音楽ジャンルとしてほとんど認知されていないとも思いますので、お客さんがまばらだったとしても、14時くらいの出番であれば、きっと格好もつくじゃないですか。それがトリ前となると、結構な重責ですよね。それに応えられるのかな、と、まあ、勝手に心配していたわけです(笑)。
──余計なお世話ですよね(笑)。とはいえ、会場にはすでにトリのBE:FIRST目当てのファンが集結しつつあったようですし、実際、アウェー感はかなり強くあったでしょうね。
なのですが、そんな心配も杞憂で、タイラは実に見事なステージを見せてくれたわけですが、何がよかったかといいますと、あんなデカい音でアマピアノを聴くという経験が初めてだったので、そのこと自体にまずは感動がありました。
──アマピアノは南アフリカで独自に発展したハウスミュージックの進化系ともいえる音楽で、タイラの音楽はそこにナイジェリア発のアフロポップやアフロビーツ、90年代アメリカのR&Bなどを混ぜ込んだハイブリッドポップになってはいますが、その底流にハウスがあるという意味では、クラブミュージックとしての側面もありますね。
タイラの作品はポップスとしてかなり精錬されていますので、ほとんどの曲が常道に沿って2〜4分の尺にまとまっていますが、アマピアノの世界では7〜8分あるような曲が当たり前ですし、歌が出てくるまでイントロが1分以上あったりするうえ、よくこんなもんがポップスとして機能するな、というほどにミニマルな音楽だったりします。タイラのライブでは音源と異なるアレンジでビートそのものにフォーカスが当たる時間もそこそこありましたので、そうしたクラブミュージックとしての側面が垣間見れたのも、かなり楽しかったですね。
南アの音楽民度
──アマピアノのライブは初めてだったんですか?
そうですね。アマピアノばかりがかかるようなクラブイベントとか行ってみたいと思いつつ行けてないんです。ただ、5〜6年前ですかね、バルセロナのソナー(Sónar Barcelona)でDiploがキュレートしたアフリカ音楽のプログラムを観たことがありまして、その大トリが南アのディープハウスのレジェンドとされるBlack Coffeeで、優雅にしてミニマルなビートが2時間にわたって続くというそれはそれは贅沢なもので、2時間経ってもまだ聴いていたいと思うようなものでした。ちなみに、わたしはそのBlack Coffeeに一度インタビューしたことがあるのですが、そこで彼は「南アではハウスがポップスなんだ」と言っていて、自分は「んなわけないじゃん」と思ったんですが、実際そうなんですね。
Apple Musicには都市ごとのチャートがありますが、そこで例えばBlack Coffeeの出身地であるダーバンという都市のチャートを見てみると、見事にハウスを基盤にしたポップスがずらりと並んでいるんですね。あれは実際異常だと思います。世界中のどの都市を見てもだいたいいまどきの欧米のポップスが少なからず上位に入っているところ、南アだけはケープタウンであれ、ヨハネスブルグであれ、ほとんどがローカルの「ポップス」なんです。しかもそのほとんどが驚くほどミニマルなもので、南アの音楽民度は、ちょっと次元が違いすぎると感心してしまいます。世界のポップスの常識をはるかに超えています。
──なるほど。他にタイラのライブに感心した点はどこでしょう?
いま言ったようなクラブミュージックとしての音楽の魅力がある一方で、タイラのライブはポップアイドルのコンサートとしての満足度も十分に満たされているように見えたのですが、それは巨大な虎のセットやステージ背後に映される映像の効果、キャッチーなダンスシークエンスといった演出面によく現れていたと思います。
加えて、歌手としてだけでなくポップアイコンとしての魅力は、タイラを知らない人にも訴求するような強さがありました。端的にいうと誰が見てもチャーミングだということです。ライブ後のソーシャルメディアでは、韓国のアイドルたちが熱心にタイラのステージを見つめている姿なども投稿されていましたが、さもありなんと納得します。言うまでもなくタイラは歌もうまいのですが、そうでありながら、ちゃんと「アイドル」としても機能している感じもすごいなと思ってしまいました。
──無双じゃないですか。
そうなんですよね。うるさ型の音楽ファンから、アイドルファンダムにまで訴求しうるポテンシャルをもっていて、かつ、デカい音でかかったときのアマピアノには抗いがたい快楽性・官能性がありますので、インクルーシビティという観点からいえば、いま一番包容力を持ちうる存在かもしれないと思いました。
加えて、近年のサマソニが、アイドルファンダムの多種多様なトライブが、かつてのメイン顧客だったいわゆる「洋楽トライブ」を圧倒するような客筋になっていることを思えば、あらゆるトライブを包み込んでみんなを踊らせてしまうポテンシャルをもっているタイラには大きな希望を感じてしまいます。
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アマピアノ vs. アフロポップ
──とはいえ、そのタイラも、あれだけの人気をにわかに集めてしまったことで、さまざまな批判に晒されてもいますね。例えば、この9月のMTVビデオ・ミュージック・アワードでタイラは「最優秀アフロビーツ賞」を受賞していますが、その際に「自分はアフロビーツではなく、アマピアノをレペゼンしているんだ」と語って批判を浴びています。
ナイジェリアのメディア「Daybreak」は、その顛末を記事にしており、ナイジェリアのメディアコメンテイターDo2dtunによる批判を紹介していますが、それは「アフロビーツというジャンルにアイデンティファイできないのであれば、なぜそれを受けとるのか。辞退すればいい」という内容です。一方、そもそものタイラの発言は、こういう内容でした。
アフリカのアーティストの音楽を「アフロビーツ」として一括りにしてしまう傾向があることはわかっていますし、アフロビーツが開かれた音楽であることも承知していますが、アフリカ音楽は多様なのです。わたしはアマピアノとわたしの文化をレペゼンしているのです。
──その発言とともに、タイラは彼女と同じカテゴリーにノミネートされたRema、Tems、Ayra Starr、Burna Boy、Wizkid、Davidoといったアフリカのアーティストへの賛辞を送っていますが、彼女が名を挙げた6人は、全員ナイジェリア出身なんですよね。
現在のアフリカ音楽は、当然地域によってさまざまな特質や個性があるものの、現在グローバルなポップチャートを賑わせている「アフリカ音楽」の中心はナイジェリア発の「アフロビーツ/アフロポップ」か、もしくは南ア発の「アマピアノ」なんですね。そして、これはわたしもよくわかっていなかったところなんですが、この二国の間には「どちらがアフリカ音楽の盟主なのか」という論点をめぐって、かなり強いライバル意識があるそうなんです。
もっとも、タイラはアマピアノ原理主義というわけでもなく、現在のアフロポップの影響をうまく溶かし込んでいますし、Ayra Starrとコラボしていたりもしますので、現場レベルで深刻な対立があるわけではないのだとは思いますが、一般レベルでは政治問題なども絡んで、それなりに大きな問題ともみなされているようです。「Africa Is a Country」というメディアは、「アマピアノ戦争」と題された2024年2月の記事で、こんなことを語っています。
第66回グラミー賞では、南アフリカのセンセーション、タイラがナイジェリアの重鎮4人を抑えて「最優秀アフリカン・ミュージック・パフォーマンス賞」を受賞した。当然のことながら、このことがナイジェリアと南アフリカ間に新たな文化論争を引き起こした。多くは善意の意見だったが、同じくらいの割合で排外主義的なものも見られた。数日後に、ナイジェリアと南アフリカのサッカー代表が、2023年のアフリカネイションズカップ準決勝で激突したことも状況を悪化させた。試合にいたる過程で、多くの人がこれを大陸の2大強国が「決着をつける」機会だと主張した。
とはいうものの、いったい何の「決着」をつけるというのだろう。ナイジェリアと南アフリカの長年のライバル関係の問題は、これまでも非常に幼稚で内輪揉めのように感じられ、地政学上の親類としての配慮にも、強国間の覇権争いに必要なイデオロギーにも欠けてきた。結局のところ、これらすべては根深い不安の投影、明確な利害関係が存在しないつまらない争いでしかない。ナイジェリアが南アフリカよりも優れたアマピアノをつくっているかなんて、いったい誰が気にするだろう。それが逆であったとしても基本どうでもよくないか。
──アフロビーツやアマピアノが「誰のものか」なんてどうだっていいだろう、と。随分とオトナな記事ですね。
記事を書いているのはおそらく南ア出身の記者ですが、とはいえ、ここで語られた「根深い不安」は根拠のないものではなく、南アはナイジェリアからの移民が多く流入しているそうなので、ここには世界のどの国をも苛んでいる「移民」の問題が関わってもいるようです。
対立を致命的なものにしてしまった罪は南アフリカ側にある。南アは外国人嫌いで有名だが、右翼ポピュリズムの波に押されて、外国人嫌いを国策に反映させようと躍起になる政治組織が多数生み出されている。2023年の1月には、その中の有望な政治家のひとりで、ギャングから政治家に転身し極右政党「愛国同盟」の看板を背負うゲイトン・マッケンジーが「ケープタウンは新たなラゴスだ」と挑発的なツイートをした。これは「自分たちの国がナイジェリア人に乗っ取られている」という主旨の右派お得意の犬笛だが、ある意味で自己否定になってしまってもいる。もしもこれが、アパルトヘイト時代に白人が暮らし、その後の住宅バブルによって多くの黒人が長らく排除されてきたエリアにナイジェリア人たちが流れ込み、そこを乗っ取ってしまったことを意味しているであれば、ナイジェリア人こそが首尾よくケープタウンを脱植民地化させたと認めることにもなる。
──なるほど。いまひとつ文脈がわからないところもありますが、なかなか厄介そうですね。
とはいえ、ナイジェリア代表と南ア代表のサッカーの試合では目立った暴動も起きなかったようで、記事はそこに良い兆しを見ています。いずれにせよ、タイラの発言の争点は、南アとナイジェリアの抗争にあるのではなく、むしろVMAやグラミー賞が、アフリカ発の音楽を十把一絡げに「アフロビーツ」や「アフリカンミュージック」と呼んでしまっているところにあるわけでして、「Africa Is a Country」は、この点について「誤った進歩」と題した別の記事で痛烈に批判しています。
アメリカの音楽業界は、何十年もの間、アンジェリーク・キジョーのようなアーティストを「ワールドミュージック」という漠然としたジャンルに分類してきた。この分類は、意味のある技術的基準によって規定されているわけでもなく、植民地主義的なやり方で、暗黙裡に欧米以外の地域の「他者性」を強調する。アフリカ音楽の存在を認め、カテゴリーをつくることは、そうした植民地主義からを脱した進歩的な判断に見えるかもしれないが、実際は曖昧なエスニシティに基づいて従来の枠組みを強化しているに過ぎない。そして、54カ国、14億人のポピュラー音楽の幅広い多様性をエキゾチックなものとして均質化してしまう。(中略)
また、賞の選考プロセスは、実力主義を装うという見せかけをはるか以前から放棄している。すべてのカテゴリーは、ノミネートされる可能性を最大限に高めようとするアーティストやレーベルの戦略的キャンペーンが競い合うゲームとなり、「アフリカン・ミュージック・パフォーマンス」のラベルに当てはまるように、地理と人種的境界とがかえって強調される。そして、それは同時に資格の問題を引き起こす。たとえば、セレーナ・ゴメスはRemaとのコラボレーションで「最優秀アフリカン・ミュージック・パフォーマンス賞」を受賞する資格があるのだろうか。マリ生まれのフランスのポップ界の大スター、アヤ・ナカムラは、一貫して(そして誤って)アフロビーツのカテゴリーに入れられているが、それは正しいことなのか。アマピアノは定義上、南アフリカ出身でなければならないのか、それとも他の国のアーティストがアマピアノの影響を受けた音楽をつくって賞を授かることができるのか。ビヨンセの「The Gift」がもしいまリリースされていたなら、このカテゴリーに入る資格はあるのか。
記事はそう書いた上で、アメリカを中心としたこうした枠組みにアフリカのアーティストが反旗を翻すことも仄かしていますが、とはいえ、彼ら・彼女らが巨大な成功のチャンスに背を向ける可能性は低いとも語っています。ただし、だからといって、グラミー賞やVMAといったアワードがアフリカのアーティストに、実際、どの程度の機会拡大をもたらすのかは未知数だと釘を刺してもいます。
Congrats to Tyla for winning the #VMA for Best Afrobeats!!! 🌊🌊🌊
Posted by Video Music Awards on Wednesday, September 11, 2024
ユニポーラー時代の終焉
──サッカーもおそらく同じ問題を抱えているのだと思いますが、結局のところ、サッカーでいえば欧州以外、音楽でいえばアメリカ以外の地域のプレイヤーは、成功を最大化しようと思ったら、そのマーケットに参入しないといけないわけで、すると必然的にグローバル経済がもたらす新植民地主義に巻き込まれることになります。いい意味でグローバル化しつつある音楽が、結局は既存の欧米の覇権を強化していくばかりになってしまってはつまらないですよね。
ウクライナでの紛争が勃発してから国際政治の世界でよく耳にするようになったのは、「マルチポーラー化(=多極化)」という言葉で、この言葉はロシアのプーチン大統領も頻繁に口にしています。そこにある含意は、「冷戦以後続いてきたアメリカの一極支配(ユニポーラー)の時代は終わった」ということでして、もっと言うと、「いわゆる西側先進国に頼らずとも自分たちは自分たちで生きていける」あるいは「基軸通貨のドルを使わなくても生きていける」という宣言でもあるわけです。
こうした強気の背景には、当然中国がアメリカ、ヨーロッパ、日本といったG7先進国と拮抗しうる経済的・技術的パワーをもつにいたったことがありますが、そうした強気な気分がロシアだけのものかといえばそんなことはなく、中南米、アフリカ、中東、東南アジアの国々がこぞって「BRICS+」への参加を求め、先進国に小突き回されるだけの「ユニポーラー」の時代から脱却を図ろうとしています。
とはいえ、それらの国々が「中国ロシア陣営」について西側と新たな冷戦を始めるということではなく、むしろ自国の利益を鑑みながら、融通無碍に多様な国とコラボレーションしていくような、ゆるやかなネットワークに基づく国際協調を目指していくというのが、おそらくは「マルチポーラー」という言葉に含まれたニュアンスなのだと思います。
そして、そこから音楽の世界に目を転じますと、こうした「マルチポーラー化」はすでに大規模に進行しているわけですね。世界のポップミュージックが欧米ミュージシャンの天下だった時代は完全に夕暮れに差しかかっているような様相で、この間、ラテンアメリカを中心としたレゲトン、アジア発のK-POP、そしてアフリカ音楽が、グローバルポップを構成する主要な「極」になってきたわけですから。
──たしかに。そうやって見るとテイラー・スウィフトが、ユニポーラー世界の最後の残光だという感じがしてきます。
ただ、そうやって多極化はしながらも、ビジネスという観点から見ると、相変わらず中心地はアメリカです。アメリカを経由しないと「グローバルな成功」とは呼べないといった感覚が根強く残っているのが実際のように感じます。国際政治の世界が、各国間で融通無碍にP2Pの関係をつくっていきましょうという方向に向かっているなか、いまなおアメリカの覇権の傘下に入ることがまだ大きな意味をもっているという意味では、音楽業界の産業構造の再編はまだ途上にあるといえるのかもしれません。
──アメリカで認められてこそ一流という感覚は、アーティストや若いリスナーのなかではだいぶ薄れたかもしれませんが、ビジネスサイドにおいてはやはり根深く残っていそうですね。
もちろん、マーケットの規模で考えれば、BRICS諸国のほうがはるかに大きいわけですし、当然中国を中心としたアジア市場へのシフトは進行しているとは思いますが、ある世代までの人たちは、音楽に限らずあらゆる領域において「進んでいる」のは欧米で、であればこそ時代の針を進めるのも欧米だという感覚は根深くありますよね。実際、第二次世界大戦後の世界は、そういうふうにかたちづくられてきたわけですし。
ところが、例えばイスラエルのガザ侵攻において、世界の多くの国がイスラエルの横暴に対して非難を向けていながらも、先進諸国がイスラエルを支持していることから国連が股裂き状態にあって身動きが取れなかったりするのを見るにつけ、人権や平和、民主主義といった思想や倫理の面でも「欧米が世界のリーダーである」という認識も崩れつつあります。そうしたなか、イスラエルをジェノサイドの容疑で国際司法裁判所に訴えたのは他ならぬ南アフリカだったのを見るにつけ、文化、政治、経済、倫理といった面で果たして誰が世界のリーダーなのか、改めて考えさせられます。
──南アフリカのネルソン・マンデラは、ずっとイスラエルはアパルトヘイト国家だと指弾していました。
実際、先進国がイスラエルの問題に対して煮え切らない態度に終始しているなか、人権や平和といった観点から堂々と自国の主張を展開しているのが、南アやアイルランドや中国だったりするのを見ていますと、なおさら欧米先進国に対する失望感はますます強まります。
「カラード」というアイデンティティ
──タイラに話を戻しますと、彼女は2023年の暮れに別の発言でも炎上していますね。
はい。この炎上騒動は、ある意味政治的ではあるのですが、どちらかというとアイデンティティ・ポリティクスに関わる問題で、そこでも主にアメリカと南アフリカの間の断層が浮き彫りになっています。この問題については、BBCがかなり突っ込んだ記事を配信しています。「タイラの人種的アイデンティティ:南アの歌手が発火した文化戦争」という題で、ことの起こりをこう説明しています。
有名になる前、ある21歳の女性がTikTokで自分の混血のルーツについて誇らしげに語る動画を投稿した。動画の中で彼女は、巻き毛をバントゥ結びでまとめ、伝統的なビーズのネックレスをつけ、まるで名誉のバッジのように「わたしはカラード(coloured)の南アフリカ人です」という言葉を動画全体に散りばめた。
彼女は「カラード」の語は「さまざまな文化背景をもつ」ことを意味しているのだと語る。自分の一部を視聴者と共有するために投稿されたシンプルな動画だったが、人種的アイデンティティをめぐる彼女の発言は、インターネット上で、とりわけアメリカで炎上した。
アメリカ人は「カラード」の語を侮辱語とみなしているが、タイラの南アフリカ人コミュニティでは、その語は自分たちの文化の一部だとみなされている。南アフリカでは、これは公式に認められた固有のアイデンティティなのだ。それに対してアメリカのXユーザーのひとりがこう噛み付いた。
「わたしたちはここで彼女をカラードと呼ぶつもりはない。もし彼女がわたしたちにそれを要求するのであれば、彼女のキャリアは始まる前に終わるだろう。彼女はアメリカ市場に参入しようとしているが、アメリカでその言葉を使うこと許されない。他の場所で使うのは構わない」
アメリカでは「カラード」の語はジム・クロウ法時代を想起させる。奴隷制が禁止された後の当時、南部諸州では黒人アメリカ人を抑圧するために人種隔離法が制定されており、水飲み場、トイレ、バスの座席には「白人専用」または「カラード専用」と表示されていた。
──これまた複雑な問題ですね。南アフリカは1991年まで人種隔離政策があり、その体制から脱却したのは1994年ですから、タイラの不用意な発言として諫めて済む話でもなさそうです。
そうなんです。そこで記事は、南アフリカの人種問題の専門家に取材して、その見解を紹介して行きます。
この人種隔離の痛ましい歴史は、1994年に白人少数派による支配が終わる前の南アフリカの合わせ鏡でもある。アパルトヘイトは白人を優遇する人種階層制度だが、1950年に制定された人口登録法では、すべての国民が「白人」「黒人」「インド人」「カラード」の4つの人種カテゴリーのいずれかに登録することが義務づけられた。そして別の法律によって人種に応じた居住地域が定められた。南アフリカ人種問題研究所のメディア責任者マイケル・モリスは、カラード・コミュニティの歴史は複雑であるが「南アフリカ固有のもの」だと語る。
カラード・コミュニティは、出自はみなバラバラの人びとがアパルトヘイトによってひとつにまとめられてできたものだった。「黒人、白人、アジア人の混血が1カ所に集められ、かつてないようなやり方でつくられたコミュニティでした」とモリスは語る。そして、分類と隔離に執着する制度のなかでこの混血のコミュニティは嘲笑されたり無視されたりした。アパルトヘイト時代の南アフリカ最後の大統領の故マリケ・デ・クラーク夫人はカラード・コミュニティについて次のように述べたことがある。「彼らは国家が整理された後に残された人びとです。残りものなのです」。
こうした困難な経緯のなかから、タイラのようにカラードを自認する人びとは、豊かな文化のタペストリーを織り上げてきた。
──面白いです。
ここからふたりの女性作家が登場するのですが、話はさらに興味深くなります。
『Coloured: How Classification Became Culture』の共著者であるリンジー・エボニー・チューテルとテッサ・ドゥームズは、歴史的に「カラード」の居住区だったヨハネスブルグのエルドラド・パークで育った。ふたりは、そこでは人びとの外見も、言語も、アクセントも、さまざまな文化が入り混じったものだったと説明する。
「わたしは自分が黒人と白人のミックスだと思ったことは一度もありません。ミックスというのは、多様性に富んだコミュニティのありようを指す言葉だと思っていました」。ドゥームズはそう語り、そのコミュニティは、宗教と音楽と、大勢で踊ることによってかたちづくられてきたものだとも付け加えた。
ニューヨークのコロンビア大学に入学したチューテルは、初日に「南アフリカ出身のカラード」だと自己紹介したが、その言葉がタイラの場合と同様に物議を醸した。クラスメートは否定的にそれを受け止めた。クラスのひとりが彼女をわきに呼び寄せ、その言葉はアメリカ人学生に不快感を与えるのだと教えてくれた。彼女は、他のクラスメイトの不快感を和らげると同時に、自分のアイデンティティ、背景、文化を守るために弁明せざるを得なかった。
「この言葉がアメリカでは侮辱的な意味をもつことは理解していますが、これはほんの一例なのです」と彼女は深いため息をつきながら語る。彼女は、アメリカ人が「黒人であること」についての裁定者になろうとすることは危険だと警告する。なぜなら、黒人であること、あるいはカラードであることは一様ではないからだ。
──興味深いですね。「黒人であること」をめぐって、これが正しいやり方でこれは間違っているとアメリカ人に決められてしまうことにふたりは強い警戒感を表している、ということですよね。別の言い方をするなら、アメリカ人たちの態度のなかに、自分たちのほうが「黒人はこうあるべきだ」ということを決定できるという優越性を感じたということなのかもしれません。
あるいは、自分たちが考える民主主義を押しつけて回る「世界の警察」としてのアメリカの心性に似たものを、そこに感じ取ったのかもしれません。いずれにせよ、記事は、この後タイラの話題に戻るのですが、かつてタイラにインタビューしたことのある南アのラジオDJが続いて登場します。
カラードが住民の大多数を占めるケープタウンのミッチェルプレーンズで育った南アフリカのラジオDJのカリッサ・クピドは、これまで自分が「カラード」であることを「受け入れて祝福してきた」と語る。クピドは2年前にタイラにインタビューしたことがあるが、彼女のアクセント、自然な髪、そのエネルギーは「まぎれもなくカラードのものだった」と語る。(中略)
タイラのヒット曲「Water」は、1968年のヒュー・マセケラの「Grazing in the Grass」以来、南アフリカのミュージシャンによるソロ曲として初めてビルボードホット100チャートにランクインした。「ラジオで彼女について話すとき、涙をこらえきれなくなる」とクピドは言う。この感情は、彼女が成長するなかで雑誌のなかにカラードを表象してくれる存在を見つけることができなかったことに由来する。そして、30代前半になったいま、その表象はタイラのかたちをとって現れた。
「次世代のカラードの女の子たちがタイラを見て、彼女の表現からインスピレーションと希望を受け取ってくれるのが楽しみ」だと彼女は言う。(中略)
クピドは、タイラの成功について語るときは喜びに声を震わせるが、タイラのアイデンティティをめぐる批判には苛立ちを隠さない。「とても失礼です。理解できないからといって、他人の生き方を貶めていいことにはなりません」。タイラのルーツを無視する人びとは「わたしやわたしの家族の存在、そしてわたしたちが世界を理解し、認識し、生きてきたやり方を消し去り、否定している」と彼女は語る。
前述のドゥームズも賛同する。タイラの論争が起こる前から、彼女は常にコミュニティを守るために戦わなくてはならなかった。「わたしたちは、自分たちが築き上げてきたもの、自分たちが作り上げてきたもの、自分たちがつくってきた文化の正当性のために戦っているのです」。
タイラを標的にしているアメリカの人びとに対して彼女は言う。「誰かの自己アイデンティティを否定し、自分のそれと置き換えようという傲慢さには呆れてしまいます。そんなのは決して進歩的とは言えません」。2024年初頭にアルバムを発表する予定で、グラミー賞にもノミネートされているタイラは、しばらくの間、ニュースの見出しを独占し、彼女のアイデンティティをめぐるさらなる議論を巻き起こすだろう。
モリスは彼女に対するあらゆる批判は的外れだという。「タイラが、自分が誰であるか、何と呼ばれたいかを語るのは彼女の自由です。他人にとやかく言われる筋合いはありません」。
オルタナティブな「多様性」
──長い引用でしたが、面白い記事ですね。「ミックス」であることの上に自分たちの文化とアイデンティティを築いてきたことをかなり明確に意識した上で、あの華麗なミクスチャー感覚を実現していると思うと、音楽自体がいっそう味わい深くなります。
ほんとですね。過酷な歴史を経てきながらも、その混交文化をポジティブに祝福してきた「カラード・コミュニティ」のしなやかさには心打たれるものがありますし、あらゆる文化ミームがソーシャルメディアを介して文字通り光速でやりとりされ、何がオリジナルで何がそうでないのかといった判別がつかないような現代の社会にあって、「混交」そのものにアイデンティティを見いだしていく彼女らの方法は、あるいは世界が広く参照していいモデルなのかもしれないという気すらしてきます。
──文化的盗用の問題をはじめ、ポリティカル・コレクトネスがとかく厳格に求められる時代にあって、それを相対化するような視点が南アからタイラの姿かたちをとって提出されるのも興味深いですね。
文化盗用や人種をめぐるポリティカル・コレクトネスの問題は、それが根本においてかつての帝国主義や植民地支配に連なっていることへの欧米の自己批判から発生したものだというのがわたしの認識ですが、そうであるならなおのこと、そのコレクトネスを帝国主義や植民地主義の犠牲になってきた人たちに対して再度強要するのは辻褄の合わない話ですよね。
日本はその意味では加害者の側でもあるので欧米を批判できる立場ではありませんが、いずれにせよ、この記事で南アの方々が批判しているのは、「多様性が大事」と言いながら、その多様性のあり方をめぐっては、ひとつのやり方や視点を押し付けるという態度なのではないかと思います。
──結局そこには、まるで多様性がないじゃないかと。そこにある種の欺瞞を感じとっているわけですね。
そうですね。実際この数年、アフリカや中南米の政治家が、西側メディアの取材を受けるなかで、西側の二枚舌を鋭く非難するような場面が多く見られるようになりました。そこに共通しているのは、西側はグローバルサウスにああしろこうしろと説教を垂れて正しさを強要するくせに、自分たちはそれに準ずる気すらない、その特権意識や例外主義に対する嫌悪や反発です。
それは例えば「民主主義」という言葉の取り扱いにも現れています。西側先進国は自分たちこそが民主主義の盟主だという顔をして、そうではないグローバルサウスの国々に対していじめにも似た嫌がらせを繰り返してきましたが、例えば習近平は、中国のガバナンス思想は欧米のそれとは違った別の「民主主義」なのだと語っています。わたしたちは、「チャイニーズ・デモクラシー」と聞いてもプロパガンダだと鼻で嗤って、決して真面目に取り合うことはしませんよね。あるいはロシアでも、ソビエト時代に、自分たちの政治体制を「民主主義」だとみなしていたこともあったそうで、これについては『ソヴィエト・デモクラシー:非自由主義的民主主義下の「自由」な日常』という面白い本がでています。
こうした主張の裏にある重要なメッセージは、「欧米の民主主義だけが民主主義ではない」、もしくは「民主主義は多様でありうる」ということなのだと思います。もちろん、ソ連や中国の民主主義なんてちゃんちゃらおかしいと笑いたくなる気持ちもわからなくはないですが、じゃあ、一方の先進国がどこまで立派に「民主主義」をやれているのかといえば、そっちはそっちでちゃんちゃらおかしいありさまでもあるわけです。
──アメリカにせよ、日本にせよ、「こんなものを民主主義と呼べるんかね」と思う人はたくさんいそうですよね。
そう考えていくと、欧米がいう多様性ではなく、むしろタイラが体現するような多様性のほうにこそ、これからのわたしたちが拠って立つべき生き方のヒントがありそうな気がしてくるんですよね。
アフリカと直接つながる
──音楽の話だけに限っても、欧米の音楽がいたずらに政治化し面倒くさくなっているなか、レゲトンやアマピアノを聴くと、なんだか晴れやかな気持ちになるのは、そんなところにも実は理由があるのかもしれません。
音楽はその意味で世界の状況を鋭く反映しているのだと思いますが、聴く側もきっと無意識のうちにそれを察しているはずなんです。南アは、そういう意味で、わたしたちよりも進んだ先進国だと考えていいと思うんです。
このことは、2017年に『WIRED』日本版で「African Freestyle:ワイアード、アフリカにいく」という雑誌の特集をつくったときにも思ったことでした。南アに限らず、未曾有の大殺戮/民族浄化を経験したルワンダといった国は、想像を絶するような「分断」をポジティブに乗り越えようと格闘しているという意味で、変な言い方かもしれませんが「分断先進国」なのではないかと感じます。アメリカも南北戦争という国を分けた分断のあとに、プラグマティズムのような重要な思想が生まれたといいますから、それと同じようなことが、南アでは起きているのかもしれないと想像したりしたんです。
──南アに学べ、と。
そこまで自信をもっていえる話ではないですし、先の記事にあったように、南アでも移民排斥の機運が高まっているとなれば簡単に理想化するのもナイーブすぎますが、とはいえ、わたしたちは少なくともタイラが存在するまでは、南アの有色人種のアイデンティティをめぐる現在地を知る由もなかったわけですよね。そのことに気づくことができるようになったというだけでも、音楽を通して世界が広がるのはそれだけでも価値がありますし、そうであればなおさら、やはりこれからの音楽の課題は、アメリカの影響力をいかに相対化していくかということになるのではないかと感じます。
──ほんとですね。
冒頭にお話したように、K-POPのアイドルがタイラのステージに熱視線を注いでいたのは、そうした観点から見ても、やっぱり胸熱なんです。現在少し踊り場にある感じのするK-POPが、これからもその影響力を保持し、または拡張していくためには、おそらくレゲトンの中南米やアフロポップ、アマピアノのアフリカと直接つながっていくことが必要なのではないかというのがわたしのかねてよりの仮説ですが、タイラがあるいはその結節点になりうるのではないかと考えると、それだけで心浮き立つものがあります。
──ちなみに、タイラの最新シングル「Breathe Me」のPVは日本が舞台で、阪神タイガースのユニフォームを着たタイラが、彼氏とカラオケボックスでいちゃいちゃするという内容でした。
タイラのファンダムは「Tygers」という名称で、ステージセットもどデカい虎だったことからもわかる通り、虎はタイラのマスコットなので、タイガースのユニフォームを着ていたのだと思いますが、球団があれにもっとうまく乗ってくれたらよかったのに、華麗にスルーしてしまったのは残念です。
──レコード会社もぜひ一計を案じて欲しいですね。甲子園でライブとか(笑)。
ちなみに最近では、ラテンポップの大スターのラウ・アレハンドロがMILLENNIUM PARADEとコラボして話題にもなりましたし、日本を舞台にPVを撮影したといえば、ロザリアやカロルGといったラテン系のアーティストも思い浮かびます。またレゲトンのアーティストが、なぜか日本に強い関心を示していることはよく感じるのですが、残念なのは、それに応答する回路がこちらに十分ないように見えてしまうことです。先方があれだけ熱心に日本を贔屓にしてくれているのであれば、日本のアーティストとのコラボレーションのチャンスはもっと増えていいような気もします。
──Red Velvetのアイリーンが、11月にリリースしたEPの1曲目「Like A Flower」は、アフロポップを意識したもので、アイリーンがタイラのコンサートで盛り上がっている姿も目撃されていました。
日本のアーティストが中南米やアフリカのアーティストとポップフィールドで接続する事例は、いまのところまだ目立ったものはなさそうですが、それが起きるのも時間の問題かもしれないと希望的観測をもてる状況になってきていると感じます。願わくばリスナーの側も、「欧米で流行っているアフリカ人」という観点からではなく、これからますます進行するであろう「マルチポーラー」という世界線のなかで、タイラやアマピアノ、あるいはレゲトンなどと接続するようになっていくと楽しくなりそうです。
──いいですね。
最後にいま一度、南アとナイジェリアの対立を描いた「アマピアノ戦争」に触れたいのですが、この記事は、南アとナイジェリアのようなつまらない小競り合いを緩和するためには「真剣になりすぎないことが大事だ」と結論しています。このラストがとてもいいので紹介しておきます。
アフリカ大陸の大国としての自負からか、南アフリカ人とナイジェリア人は自分たちのことを真面目に考えすぎてしまうきらいがある。誰がアマピアノをグローバル化したかといった議論は、結局のところ西側諸国の承認を求めることにつながる。ナイジェリアのティヌブ大統領は経済改革で国際的な称賛を受けているかもしれないが、それが引き起こした生活費の高騰は隠されている。人びとが南アフリカの民主主義を褒めれば、その裏で起きている社会の分断の広がりを見なくなってしまう。
アフリカに限らず世界は多様だが、その一方で、誰かに対して優越感を抱くほど、それぞれが大きく違っているわけではない。アイデンティティや帰属意識をめぐる問題において、遊び心と両義性をもった批判精神を失ってしまえば、自分たちの優越性に囚われて例外主義に陥り、その結果自己欺瞞に苛まれることにもなる。
コートジボワールは、過去25年間に2度の内戦を経験したが、どうやってそのトラウマを克服したのかと人びとに尋ねたことがある。その答えは決まって「コートジボワール人は笑って物事を軽くとらえるのが好きなんだ」というものだった。
──南ア発の記事がコートジボワールに学べと語るのは意外ですが、遊び心と両義性をもった批判精神ということでいえば、タイラの飄々とした明るさには、そんな感覚がたしかにありますね。
タイラだけでなくアマピアノを聴くたびになんだか癒されるのは、そのあたりのバランス感覚の伸びやかさ、軽妙さに秘密があるのかもしれませんね。
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