ジョニー・キャッシュの中指:ある愛国者の肖像
TEXT BY KEI WAKABAYASHI
アメリカにおいて最も保守的で愛国的な音楽とされる「カントリーミュージック」。そのなかでリベラル層からも若者からも、あらゆるジャンルの後続のアーティストたちからも絶大な支持を集める伝説的な音楽家がいた。ジョニー・キャッシュ。人呼んで「ザ・マン・イン・ブラック」。そのキャリアのターニングポイントとなった歴史的コンサート。
政治的分断によって国が二分された時代に、愛国とは何かを問い詰め、自分に正直であることを選び取った伝説の歌手の覚悟と生き様。
異能のビジネスコンサルタント並木裕太率いるフィールド・マネージメントの創設10周年を記念して刊行された雑誌「STAY TRUE MAGAZINE」(編集は故・竹内大主宰のRIVERが担当)に、"Stay True"(自分に正直でいること)というお題を受けて、並木と親交の深い若林恵が寄稿した一文を転載。
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20世紀カントリー音楽の大御所中の大御所であるジョニー・キャッシュは、1932年にアーカンソー州で生まれた。ルーズヴェルト大統領が主導したニューディール政策によってつくられた農業コロニーに一家で移り住んだのは3歳の時だった。7人の兄弟姉妹の4番目だった彼は、5歳のときから綿畑で働いていた。そして17歳になると空軍に入隊した。子どもの頃からずっと、身のまわりにはゴスペルミュージックがあった。ジョニー・キャッシュは、敬虔で素朴なアメリカ人だった。
音楽家になってからも彼は貧しい人たちや社会からドロップアウトしてしまった人たちに対する強い共感を歌い続けた。刑務所で行った演奏を収録した『ライブ・アット・フルソム・プリズン』は、アメリカの音楽史のなかでも特別な位置を占める重要作とされている。「アウトロー」(無法者)の心情を歌わせたらジョニー・キャッシュの右に出るものはいない。ジョニー・キャッシュの歌は、多くの必ずしも裕福ではない白人アメリカ人の心の故郷のようなものだった。多くの人がそれによって慰めされ、癒された。いつも黒ずくめの衣装に身を包んだ彼は、いつしか「The Man in Black」(黒衣の男)と畏敬を込めて呼ばれるようになった。彼は、多くの聴き手にとって、自らの胸の内を明かすことのできる、教会非公認の神父もしくは牧師だった。
Netflixで配信されている「リマスター」というドキュメンタリーシリーズに、そのジョニー・キャッシュを取り上げた回がある。「Tricky Dick & the Man in Black」(狡猾なディックと黒衣の男)というタイトルで、そこでは、ジョニー・キャッシュが1970年にニクソン大統領(狡猾なディックとは彼のことだ)に呼ばれてホワイトハウスでライブショーを行った「事件」が取り上げられている。
当時アメリカは泥沼化するベトナム戦争の行方をめぐって国を二分する分断が起きていた。「アジア地域における〈赤化〉を食い止めること」をミッションとして戦争に邁進する政権を、若者を中心とした世論は真っ向から否定した。公民権運動やウッドストックといったムーブメントが二次大戦後から続いていた「アメリカの黄金時代」の終焉を告げていた。
そうしたなかニクソン大統領が、政権の巻き返し、支持の回復、国民の再一体化を求めて「古き良きアメリカ」を体現するシンガーソングライターを頼んだのは理にかなっている。もとよりジョニー・キャッシュは「愛国者」であることを自認していた。ジョニー・キャッシュが育ったニューディール期のアメリカ南部において「愛国者」であるということは、国を信じ、大統領を尊敬することを意味していた。社会の底辺に暮らす人たちの心情に寄り添うことはあっても、彼が正面切って体制を批判することはなかった。であらばこそのニクソンからの指名だった。ジョニー・キャッシュは、実際、共和党支持を公言していたし、ニクソン支持も明かしていた。黒衣の男は、もちろん招待を承諾した。
ところが、ニクソン大統領が演奏する曲をリクエストしたところかから状況が変わりはじめる。ニクソンは、ジョニー・キャッシュの代表曲「ボーイ・ネームド・スー」のほか、マール・ハガードの「オキー・フロム・マスコギー」とガイ・ドレイクの「ウェルフェア・キャデラック」を歌うことをジョニー・キャッシュに依頼した。「オキー〜」は反戦運動やヒッピー運動を、「ウェルフェア〜」は福祉手当をちょろまかして生きる貧困層を風刺、あるいは揶揄した曲だった。そして、ニクソンがそれらの曲をジョニー・キャッシュにリクエストしたことに反ニクソン陣営が噛み付いた。見え見えの世論誘導がその選曲には見て取れた。
ジョニー・キャッシュはリクエストを受けて「その2曲は知らないので、自分が知っている曲を歌おうと思います」と答えたとされる。が、それらの有名曲を彼が知らないはずはなかった。ニクソンの政治的意図を明確に悟ったジョニー・キャッシュは、共和党主催のそのパーティの席で自分は一体何を歌うべきなのかを深刻に悩みはじめる。ジョニー・キャッシュの悩みの根幹にあったのは、真の意味で愛国的であることはどういうことかという問いだった。国家と大統領への忠誠を誓い望むがままに振る舞うことなのか。あるいは、若者たちやヒッピーたちの側に立って体制を厳しく批判することなのか。
ジョニー・キャッシュはそうした問いを抱えて、ベトナムの前線へ兵士たちの慰問に赴く決断をする。それはたしかに慰問ではあったけれど、旅の真意は「Truth」(真実)を探すことにあった。彼は戦線に赴き兵士たちの身に起きている本当のことを知ることで、故郷を苛んでいる分断の意味を理解しようとした。自分は一体誰の味方なのか。誰の味方であるべきなのか。
本国の白人保守層は黒衣の男は自分たちの味方であると信じ切っていた。もちろんニクソンもその一人だった。ジョニー・キャッシュが保守派の構成員であるという思い込みは、半分は当たっていたかもしれないけれど半分間違っていた。ジョニー・キャッシュはたしかに敬虔なアメリカ人だった。けれども黒衣の男は、彼らが想定していたよりもはるかに真摯かつ、真剣に、敬虔だった。彼は深く深く〈真実〉というものに向かって下りていくことのできる強靭な男だった。その強靭さをニクソンは甘く見ていた。
1970年4月17日。アポロ13号の乗組員がその日無事に地球に帰還を果たしたばかりだった。歓喜と安堵の空気のなか、200人の共和党関係者を集めたホワイトハウスの東ホールのステージにジョニー・キャッシュは立った。ニクソン大統領からのにこやかな紹介を受けて、彼はまずリクエスト通り、自身の代表曲を歌った。大統領も会場も上機嫌だ。そして和やかに会が進むかと思えた矢先、黒衣の男は「What is Truth」という曲を歌いはじめた。
それはタイトル通り〈真実〉はどこにあるのかを問う歌だった。「若者たちの喧騒のなかに〈真実〉を求める声が聞こえる」「若者たちの〈真実〉への問いを間違っているとどうして言えるだろう」。そんな歌詞が、話すような歌うような語りを通して流れ出す。それは誰が聞いてもジョニー・キャッシュの反戦歌だった。若者たちの声を代弁する歌だった。この曲を歌う黒衣の男を、ニクソン大統領は凍りついた笑顔で、客席から見上げることしかできなかった。
ジョニー・キャッシュは決して政治的な音楽家ではなかった。その後も、彼はフォード大統領やレーガン大統領とも親しく写真に収まっていたりはするが、終生に渡って一度も投票には行ったことがないと公言していた。最も重要な瞬間において一切の忖度を拒み、相手陣営のど真ん中で大統領に向けて中指を立てたシンガーは、誰の政治的ペットにもなり得なかった。ジョニー・キャッシュはどの陣営からもリスペクトされ、同時に恐れられる孤高の存在だった。そして晩年にはレジェンドにふさわしい伝説的な音源を無数に残して2003年に他界した。
U2のボノは「どんな男もジョニー・キャッシュとくらべたら女々しい」との名言を残している。
ジョニー・キャッシュは、若林恵がコンテンツディレクターを務める黒鳥社の守護聖人のひとり。オフィスにはポスターも。