講師3年目、一年生を担任していた時のこと。 このエピソードは朝日新聞の『ひととき』に投稿し掲載されたのと同じ内容である。 給食が終わり、さあ昼休みという頃、教卓に立っていた私の所に男の子がとことこと来た。 「ねぇ、先生!戦争ってなあに?」と私に聞く。 「戦争はね、国と国とのけんか。大人の喧嘩で人もしぬ」と私は答えた。 「ふうん」しばらく私の目を見つめていた男の子は 「どうしたら戦争はなくなるんやろうか」と言う。 どきっとした。 どうしたら無くなるのか?宗教?領土
初めて講師として担任を持つ。これまでの子育ては私1人に子どもが2人。 これが先生1人と子ども35人となると全く違うことに愕然とした。講師一年目、2年生を担任していた時、特に1人の男の子には手を焼いた。子ども達にしてみれば不慣れな新米先生がやってきてなんなんだ!と思う事が多々あったと思う。私は子ども達をまとめよう、きちんとやらせよう、そんな見当違いの空回りをしていた。 その男の子は、常に不機嫌でかっとすると手が出てしまう。そんな彼に私は真っ向勝負を挑んでいた。私には大きく受
さて新米先生の私。分かった事は人間そうそう変わらないということだった。先生は忘れ物をしない。そんな当たり前の事が出来ないのだ。 ・給食のお箸(自宅から持参)を忘れる ・宿題の漢字ノートを返すのを忘れる ・体育館に笛を忘れるetc 2年生を担任していた時。 私は給食のお箸を忘れた。ひょえ〜と思った。忘れ物をしないようにと言う立場の私が忘れる。一瞬誤魔化して職員室に割り箸をもらいに行こうかなあと頭をよぎる。でも嘘はちょっとなあ。「ごめん。先生お箸忘れた。職員室の教頭先生にもら
そして私は41歳で小学校の講師になった。当時北九州市では、教員採用試験を受ける条件として、40歳以上は講師経験5年以上が必要とあった。くそーっと思った。受ければ受かる可能性もあるが受けられなければ受かる可能性は0だ。まあ、考えても致し方ないこと。まずは講師として働く事となった。 配属されたのは、私が学校事務補助員をしていた時にお世話になった校長先生がいる学校だった。心強い。私は期待に胸を膨らませ小2の担任となった。 先生というのは、いきなり独り立ちする。新規採用の正規の教
8年経った。私がいや私達が『海のそばのカフェbliss point』をopenしてから8年が経った。 まさか自分がカフェを始めるとは思っていなかった。親友が末期癌とわかるまでは。 私は病室で彼女に聞いた。「人生でやりたかったことある?」彼女は言った。「カフェをやりたかったなあ」 それだけだ。それだけで私はカフェを作ろうと思ったのだ。 突っ走ったものだ。しかし思えば私の人生は突っ走ってばかりだ。 当時私は小学校の講師をしていた。39歳で通信教育を始め41歳で小学校教員免
8年経った。私がいや私達が『海のそばのカフェbliss point』をオープンしてから8年が経った。カフェを始めるなんて思っていなかった。親友が末期癌と解るまでは。私は病室で彼女に聞いた。「人生でやりたかったことある?」彼女は言った。「カフェをやりたかったなあ」それだけだ。それだけで私は決めたのだ。カフェを作ろうと。 突っ走ったものだ。しかし私は常に突っ走る人生だったと思う。 当時私は小学校の講師をしていた。39歳で通信教育を始め41歳で教員免許を取った。講師生活4年目だ