檀一雄のエネルギーがBluetoothみたいにペアリングし私は博多湾へ彷徨いだしていた……
2年前から不思議な流れに乗じて福岡の糸島半島に近い海の前のアトリエと広尾との2拠点を往来する生活をしている。
目の前に広がる博多湾に浮かぶのは能古野島。檀一雄の終の棲家となった場所として有名。歌碑や文学碑もあり島で檀は神話的伝承になっている。
そんな島を日々見据える位置に書斎を構える暮らしへと、なぜそもそも私は導かれ、ためらわず身体や魂を飛ぶように移動させてみたのか。それをたしかめずにはいられなくなり『火宅の人』を再読した。
無頼派の俤。世態・風俗・情念・情痴に見る隔世の感。だが火焔渦中の日常をオブジェクト化する檀の人生態度に痛快と潔さを覚える。
「どんな参烈な戦闘であれ……いかに選ぶか、いかに戦うか、その手際だけが、私達の人生というものである筈だ。私は挺身する。戦いは私の熱愛するところだからである。勝者も敗者も共に確実に亡びるというかなしい生命のイクサほど生き甲斐があるものがほかにあろうか。」
いかにも骨太な精神と、実在の覚悟が時を超えて快く打ち響いてくる。
遺作ともなった『火宅の人』。檀一雄の大鉈を奮う人生態度の一端が、どこかで破壊的な熱をともなっていつのまにか私の人生を動かし、自身の底深くに根を下ろしていたかに思われてくる。
深作欣二が撮った映画版では緒方拳(桂一雄)、いしだあゆみ(ヨリ子)、原田美枝子(矢島恵子)は、原作にかなり忠実なキャラクターを演じていたことが知れる。原作を読み込んでその向こうに実在した人物たちを肉感的に咀嚼し、人間の奥に潜む普遍的な性情をおのおの自身に刻印しようと試みる役者たちの執念が感じられた。
そういう役者ぶりは、観るほうの底にも何かがぐいぐいおよぶ。
人として、どう生きてもやがて個の生は等しく亡ぶ、その諦観から必然的にせり上がってくる雄雌(オス・メス)の生々しい本能は、生来のエネルギーの噴火であり、結局、どうあれ、おのれのままを生きようとあがく、せつない潔癖と映る。
以前、自著『絶対ピンク』への評として “イノチノコト”を尋ねられ、
「人は生きている時間を微分感覚してるんですよね? 限りなく長くゆっくりと無限小の永遠と錯誤するように。微分していることだけが実感できる人生の総体みたいに…」
と答えた。
でも。
実在する夫人・檀ヨソ子の独白という前代未聞の”四人称小説”にしてみせた沢木耕太郎の『檀』や、担当編集者・野原一夫が当事者として見聞し、書き残した評伝『人間・檀一雄』など、一連の彼個体にまつわる生々しい記録をも読んだうえでこの人の著作を読んできた時間をふりかえって奇妙な妄想のようなイメージを思う。檀の言葉は数万年前に地球に激突してきた小惑星のように長い時間のあいだにエネルギーとして一読者である私に干渉してきていたのではないか、と。
檀の生きっぷりの断片が読者でしかない自分にBluetoothみたいに飛んできて何かを転移していった。
能古島にも船で渡り、住居跡に身を置き、彼の生命エネルギーそのものにふれかかって無意識に共振し主題を編み直していると、どうも微分だのと解釈している間はないような気がしてくる。
「その人」は、『何かがあるとパッと立ち上がる』人だった。そんな『かすかな激しさをはらんだ挙措(きょそ)が、まさに』その人たるゆえんだった。
ひとつの作品を完成させるのに20年間も費やし、死の床で口述筆記させ了え、3ヵ月後に逝去。
「何かがあるとパッと立ち上がる」その人は、まさに制すること不能の血のほとばしりに放埒を奔り抜けた。なんたる金剛力かと、作品を読むうち、圧倒された。ただの武練りでなく、書きながら、奔りつづけた。
「ここはどこですか?」と道すがら尋ねながら、そのまんま突っ切るように歩きつづける。奔りつづける。問われた相手が「ここは**です」と此処の空間を示すときには、その人は、もうそこにはいない。新しい場所へとうごいている。それは、微分などという解釈の間のない行動の連続。生き焦りとも映る、はげしい連続。
それでもどうあれ、ついには、ヒトリで死ぬのだ。いつ途切れるかわからぬ有限の持ち時間を奔って、ドン!と終わる(死ぬる)のだ。
記憶にあざやかな終章の一節。
『そうだ。湧き立つほどの快活。自分自身をさえ欺くほどの放埒。
歩く時には星に向って鼻唄。などと、口から出まかせ。』
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